縦書為替印収集家の間では「蠣売町郵便受取所」として知られる、あの消印です。
赤二を御覧いただくと、確かにそう書かれております。
しかし、下の菊3銭の方は「売」の足部が「ル股」ではなく「几」です。
地元の方ならお気づきと思いますが「蠣売町」という町名は存在しません。
またかつて「カキウリチョウ」と呼ばれた経過もありません。答えを先に申し上げます。
「売」という字(現常用漢字や前の当用漢字の)ではなく、
「壳」です。
諸橋先生の大漢和辭典に出ています。
JISの字体より一画多くなっていますが、当然辞書の方が正しい字です。
「殻」(旧字体は「殼」)の偏だけを取り出した略字です。
そして「売」は、「壳」の俗字体として使われていました。
逓信公報令達類篇は逓信省の内部だけで編纂されました。
これに対し、法令全書は司法省が各省に睨みを利かせながら編纂したものです。
当然、良い加減な告示は全てチェックされます。
したがって、類篇と全書とで字体の異なるものがまま見受けられます。
蠣殼町郵便受取所は、明治27年2月1日に日本橋區の東京堀留町郵便受取所から移転、改称されました。
併せて、為替の取扱も開始されました。
その時の告示の比較です。
左から、類篇の移転改称告示、全書の移転改称告示、類篇の為替開始告示、全書の為替開始告示です。
大きさが異なるので御覧いただきづらいのですが、御勘弁ください。
法令全書はきちんと正字体「殼」で書かれています。
この略字体、「壳」は当然明治に始まったわけではなく慶應以前から使われていました。
リーフ下部に示したような赤繪もそうですし、商家の屋号の印判もそうです。
証券印紙は、これが欲しいためにわざわざ大枚€4.00もはたいて買ったものです。
ごく適当に「天井向いて」付けた値段でしょうが、売ったイタリアのGiapoz49kさんとおっしゃる切手商さんもびっくりしやはったと思います。
お金を払って買った以上、印判が気になります。
リーフに示したような形に復元してみました。
蠣殼町にあった茗荷屋というと、足袋屋さんでしょうか。
調べると五色おこしを拵えていた「茗荷屋」さんも江戸期にはあったようですが黒門町でした。
それに屋印が抱き茗荷だったようですので、この印判はそのお菓子屋さんではないようです。
足袋の茗荷屋さんだとすると、この「山形に叶」を屋印に使っておいでだったのでしょうか。
事情を御存じのお店関係の方がおられましたら、是非お教えください。
廣重三代の赤繪の方は、わずか3年ほどの期間に「蠣壳丁」「蛎(虫売)町」「蠣壳甼」「蠣壳街」と気まぐれな表記です。
さすが、盗作・流用・作り絵の世界です。
― と頑張ってリーフを飾ってみましたが、郵便史カテゴリーの郵趣とはだいぶかけ離れてしまったようです。
理想を言えば、
① 明治27年から明治29年の為替印を加える。
② 明治35年から明治37年の為替印を加える。(もちろん郵便電信受取所も)
③ 明治37年以降の(蠣殼町と表示のある)書留番号票を並べる。
④ 赤繪は削り、発着住所に「蠣壳丁」等と表示された小さなエンタを貼る。
が正しいと思います。
とても手に入るものではありません。
そして、カテゴリーにこだわらず、明治の空気の片鱗を伝えるこんなリーフ作りも「アリ」ではないかと一人で悦に入っております。
最後に、「その後どうなった」という話です。
「壳」という字が使われた菊20銭、左辺に深いシザーの入ったものを最新データとして並べましたが、その後(画像データだけですが)さらに新しいものを見つけました。
そしてこれを最後に以降は「蠣(蛎)殼町」となったと思いきや、関東大震災で復活しました。
御存じの臨時電話所消しですがこれも画像データだけです。
長々と書きましたが、リーフを御覧ください。
【自己評】 切手展に出したら、格好のクレーム対象でしょうな。
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