2015年11月26日木曜日

丸二型日付印 ‐ 神戸 三宮局/和田岬檢疫所内局

今朝の新聞に原節子さんが9月にお亡くなりになっていたとの記事が1面トップで出ていました。
日赤75年記念のモデルでは ―とのうわさが今でも聞かれます。

日本切手ナンバーワンの美人だけに、私もいろいろ調べたことがあります。何かの機会にどこかで公開したいと思いながら温めています。

とまれ、御冥福をお祈り申し上げます。

さて、神戸支局(市内局)の続きですが、三宮のリーフづくりは見事にスベッてしまいました。
何分にも手元のマテリアルが少なく、並べただけのアキュムレーションリーフになっています。

年別に1枚づつ、それから午前の時刻データが少ないようなので手に入ったものを並べてみよう…
殆ど思想性の感じられない駄作です。





































































さて、もうひとつは難関です。
和田岬檢疫所 ―年表を拵えて初めて、「戦後」の局であることを実感しました。

近デジの「明治三十七八年戦役検疫誌」で見ると、和田岬檢疫所は検疫人数が148千人弱。
これに対して大里檢疫所は402千人、似島檢疫所が663千人。

大きな役割は果たしていないように見えますが、将兵の帰還がピークに達する明治3811月から翌年2月までの4箇月で見ると、似島299千人、大里152千人、和田岬135千人(いずれも検疫人数ベース)と頑張っています。

遅れて設置された和田岬司令部内郵便局についてですが、第10師團は空港で言えばさしずめ管制塔の役割を果たしていたのでしょう。

それにしても、両郵便局は300メートルほどしか離れていません。しかも両局とも2等局です。
告示では両局ともに郵便・電報の配達はしないとのことですが、時刻入りもどこかにはあるのでしょうか。

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さてここで、恒例になってしまった「お詫び」です。
大阪の丸二で「大阪停車塲内」について、「日本郵便印ハンドブック」の悪口を書いてしまいました。
「丸一印が使用された」との記述に対して、根拠が不明である旨のクレームを付けたのですが、有りました。

http://www.geocities.jp/m_nari/maruichi/maruichi/v-nichiro.html

私もほぼ毎日お世話になっている「明治の全郵便局所沿革(CD-ROM)」の作者成田さんのサイトです。

したがって、大阪停車塲内局の丸二は存在しないことになります。
日露戦争臨時局で丸二を使用したのは和田岬檢疫所内局だけで、他の局は丸一⇒櫛型のパターンということになります。

(お詫びついでに、リーフ下部の年表で宇品碇泊塲局の櫛型は11日からの使用開始ではなく明治392月中です。他の局も11日付けの印影は確認していません。)
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なお、和田岬にあった両局の消印は「Stampedia Philatelic Journal 2012」で完影を見ることができます。
(今年、ジャパンでも兄弟カバーが売り立てられましたが負けました。)





































































【自己評】和田岬司令部内の印影は半欠けでもラッキーな入手。Delcampeも最近は日本からのバイヤーさんが少しづつ増えてきて、「草刈り場」ではなくなってきていますが、何十枚かの使用済みロットの中にこんなものを見つけるのは、セミプロのディーラーさんでは難しいでしょう。

まあ、逆に誰でもわかるような貴重マテリアルは手を出しにくくなってきています。仕方ありません。日本切手が高値になることが多ければ、出品も多くなるでしょうし将来の楽しみが増えます。

2015年11月14日土曜日

丸二型日付印 ‐ 神戸 神戸郵便電信局兵庫支局/兵庫郵便局

今回から神戸シリーズですが、神戸はマテリアル不足のためスキップします。
いくつか未発表の時刻も有りますが、それだけで納得のゆくリーフ作りはできません。
内心忸怩たるものがありますが、しゃーないです。

いきなり支局からです。
縦書(為替印)ではさんざん苦労させられた兵庫支局ですが、丸二印でも印軸の更新やり放題。
揚句、御禁制の縦書為替印を明治354月まで引き延ばして使用するという傍若無人の振舞い…。







































それでも、花の神戸の中心地 ―何故か愛着が湧きます。
自ずと収集にも力が入って、何とか満足できるところまで来ました。

勿論、素人としての水準での話です。専門家ならあと12リーフはブランクなしで拵えなければならないでしょう。
道楽も厳格に楽しもうとすると険しい坂道みたいになります。





































































丸二印の電信使用は多くありません。東京局と大阪局とでは丸二を使わず、専用の丸一電信印で対応しています。
これは、単に交付を受けた丸二型の印軸が少なかったというだけのようです。

返って支局の方が電信事務にも使えるほど印軸数に余裕があったのでしょう。

明治36年の5月と7月のデータを持っていますが、「神戸」を磨滅のように見せかけて半分削った印影は、意地らしくもあります。

本池さんの教科書では、新たに拵えた(「神戸」抜きで)「兵庫」だけ表示の新活字を明治3810月頃の出現としておられます。

今回、私自身もリーフの書き込みをするまで気がつかなかった最初期データを併せて御覧いただきます。

明治3879日に既に使用されていました。
この「兵庫」だけの印軸には愛称を付けたいような気がします。

本池さんは「新活字」と呼んでおられました。私個人の趣味で言えば「大兵庫」 ―いや、もとよりこんなしょーもないことを声高に主張するつもりはありません。

それにしても、よく本省通信局でこんな局名表示を許可したものだと思います。
根拠は判らず仕舞いですが元から「神戸」を冠しない「兵庫」局だと言われれば、仕方なかったのかも。





































































【自己評】頼信紙は売り下げ時の裁断が乱暴です。リーフに貼ってから気づいたのですが、一旦直角に切った台紙に貼ってからリーフに貼ったほうが見栄えが良かったですね。
もうひとつ、今まで書き込んできた丸二型使用時期の局の年表を入れ忘れています。
「よっしゃ、でけた~」だけで貼り込んでしまわずに、一日二日温めておいた方がミスは少なくて済むのですが…。

2015年11月7日土曜日

丸二型日付印 ‐ 横濵 長者町局/櫻木局                     附 横濵郵便局 補遺―8分環

前回投稿から間があきました。長者町局と櫻木局とです。
今回の投稿タイトルは局種を付けずに局名だけにしました。

櫻木局は、明治37年に無集配の郵便局に改定されるまでは丸二型は使用されなかったようです。
丸二時期の局の呼称は「横濵櫻木郵便局」のみで変化はありません。

後期の使用開始ということもあり、印軸は8分環のみしか目にしていません。

長者町局はやっかいです。丸二型を使用した期間に
横濵郵便電信局長者町郵便支局 ⇒ 横濵郵便電信局長者町支局 ⇒ 横濵長者町郵便局
と三とおりの名前があります。

しかも、郵便支局としての使用期間は最も多く見積もっても5日間。

印影には何の影響も有りませんが、初期使用でもあり何としても入手したいものです。
8分環の使用は不明です。(確定できるような印影を持っていません)







































































もうひとつ、大事なお知らせです。
先の投稿で横濵局の8分環は無いかもしれないと書きましたが、見つけました。

しかも、結構早い時期の使用データです。



































こういうときのエンタはありがたいものです。全影が出ます。
差出は前にも登場した合名會社茂木商店 ―裏判も前回のと全く同じ。

宛先の七曜星社については、リーフには地元の商業紙と書いてしまいましたが、共同出荷組合だったようです。

時刻無しの25錢の方は縦に裂けています。接合が下手なのではなく、消印の印影を合わせるとこうなります。(― つまり裂けた切手を式紙に貼って使った)
もとより疵切手ですので、リーフに貼るべきではないのですがこれしか持っていません。





































































【自己評】いずれにしてもデータの少ないのは、どう捻くり廻してみても面白くありません。
こういう数少ない局を沢山集めるのが、私のような素人と本物の大家との差なのでしょう。
まだまだ精進せねばなりません。

2015年10月23日金曜日

丸二型日付印 ‐ 横濵 神奈川郵便電信支局/神奈川郵便局

同一日に二つ投稿するのは初めてですが、予告どおり横濵の支局も御覧いただくためです。

最初から難問です。
神奈川支局は丸二の使用以前から表題どおり「横濵郵便電信局神奈川支局」として営業していました。

ところが、通信官署官制施行日以降は「横濵神奈川局」ではなく「神奈川局」に改称したようです。
告示は見つかりません。
神戸の兵庫局も同様に、よく分からない理由で「神戸」を削っています。

しかも、知られているデータは多くありません。やっかいです。
リーフに貼った茶1銭の「35 -4 -9」が今のところ最初期データらしい…。

したがって、ほとんど書くべきことがありません。
仕方ないので、あと1リーフ見ていただきます。

横濵局とのコラボエンタですが、見るからに小汚い葉書 ―。

ただ、薄いながらも変な時刻表示の組み合わせです。






































































どうしたら、こんな組み合わせになるのか考えてみました。
両局の距離から、横濵局の時刻は少なくとも1時間以上の経過(=早くとも「前 7 .30」くらい)が必要です。

推理をリーフに書き入れてみましたが、まず常識的な判断としては
「一つのデータだけでは推定できない」
ということでしょう。

先の「横濵」削りと併せて、安上がりに楽しめる推理ゲームとしておいた方がよさそうです。

大阪支局のリーフをまねて支局地図を拵えてみました。
神奈川局だけが離れています。

もしかして、「郵便区」に関わって「横濵」が削られたのか(富士見橋を町はずれと見做して6間―ちょっと苦しいかな) ― でも兵庫局は神戸局とは離れていない…。

兵庫局は昔から「兵庫」だったから官制改正を機に旧名に復した/兵站基地の和田岬の近くだから神戸局から独立させられた ― いろいろと邪推の悦楽を享受しています。

リーフ2枚です。 








































































































































【自己評】神奈川の時刻空欄は、全く心配していません。
今年中にかなり埋まるでしょう。今までも何度か見ていますが「値が合わんなぁ―」というのが多かっただけです。

いや、負け惜しみではなく…。
実際、投稿した尻からアップ済みリーフの穴がそこそこ埋まってきています。
(だから、リーフ整理は大事と身を以って知りました)

次回は、残りの長者町と櫻木を予定しています。

丸二型日付印 ‐ 横濵郵便電信局/横濵郵便局 (3)

前回投稿の予告に反して、この投稿も横濵局の続きにします。
横濵局発着の葉書があったのを忘れていました。

居留地内の発着で、御覧のとおり随分あっさりとした宛名書です。
住所は、「N180」。

N」は山下町のようです。居留地としての山下町の後に設置された山手町(山下町の南側)と区別するために付けた符号と思われます。

葉書の文面もあっさり。今も東京にある「ドイツ語福音教会」の前身から発せられた礼拝の案内です。

興味を持ったのは、礼拝の時刻が「10  1/2」となっていることです。
確かに英語もドイツ語も時刻の表現に "half" , "quarter" を使用しますが分数表記は初めて見ました。

本池さんも丸二初期の時刻分数表示について「このような発想はどこから生まれたのか」と訝っておられます。

でもこれだけでは「  /6」という表記があったことの根拠にはならないですね。まあ、こんな書き方も有った ―くらいなことでしょう。

先述の東京のドイツ語福音教会のサイトを拝見しますと、牧師さん Dr. Hans Haas さんは1909年までお務めだった方のようで、当然葉書の文面と符合します。

礼拝の時刻は、今も10時半からでした。

リーフです。




































































【自己評】同一局発着の葉書をたくさん集められるとよいのですが、当然限りがあります。判断できるのは、結束や伝送便についての全貌のごく一部…。
多分、午前中の状況はこの先も解明できないかも。
それでも、いくつかのデータが集まれば推測くらいは ―ただの希望です。

2015年10月12日月曜日

丸二型日付印 ‐ 横濵郵便電信局/横濵郵便局 (2)                         中宮祠郵便電信取扱所着コルヴィザール令嬢宛の絵葉書

今日はまたこの方のエンタです。































Wikipediaから拝借しました。Charles Pierre René Victor Scipion Corvisart さん。

リーフに貼ったのは、横浜から中宮祠にいる家族に宛てた何の変哲もない絵葉書ですが、この日付は、彼=観戦武官が同道すべき第一軍がクロパトキンを遼陽から潰走させた日です。
騎兵中佐としては、見ておかなければいけなかった戦闘のはずです。

彼がこの大事な時に仕事をほっぽり出して何をしていたのか気になりましたので、この絵葉書の日付前後 ―明治37年中ごろの足跡を既知のカバーのデータで辿ってみました。
結果をリーフ最下段に書き込んでいます。

当時のフランス貴族の風習に従ってヴァカンスです。
この年の7中旬ころから9月初めまで家族と一緒に中宮祠に滞在していたのです。

フランスからの観戦武官は彼を含めて5人で、彼はサブリーダーの立場です。あとの4人がどうしていたのかは判りません。

なお御本人の名誉のために申し上げますが、男爵はこのあと単身で第一軍に戻られたようです。
(現地から発した12月付の軍事郵便が残っています。)

首都大学東京の高田先生が「中禅寺湖畔別荘地の形成過程と近代日本における外国人建築家と施主の関係性に関する研究」という論文をネットで公開しておられます。

それによると、中禅寺湖畔の夏季はさながら赤坂辺りの各国の公使館全部が引っ越してきたような賑わい。
外交官同士の駆け引きなんかもあったのかも知れません。

その論文から引用して拵えたのがリーフにも刷り込んだ地図です。


























明治37年も同じだったとは限りませんが、こんな別荘を独・白・伊・英など各国がそれぞれいくつも持っていたとのことです。
図中の「レーキサイドホテル」は欧米諸国の方々御用達…。

コルヴィザール一家の宿泊先までは判明しませんでしたが、この翌年も中宮祠でヴァカンスを楽しんでいたようです。

ただ、面白いデータではありますがこれを主役にするわけにはいきません。
着印は脇役、横濵局の消印が主役です。

そう自戒しながらもやはりリーフに書き込まずにはいられないので、遠慮して下の方に小さく並べて置きました。





































































【自己評価】横濵局の時刻「后3 .40」は37年では既知。丸二研究から言えば特に新鮮味はありません。
こんな書き込みをすると、丸二のリーフではなくなってしまうことも承知の上の確信犯。
コルヴィザール研究の域も越えてストーキングまがい ―恐縮の至りですが、私の性格なので仕方ありません。

反省しながら、次回は横濵の支局を見ていただく予定です。

2015年10月6日火曜日

丸二型日付印 ‐ 横濵郵便電信局/横濵郵便局 (1)

今日から横濵局シリーズを見ていただきます。
このリーフを作るに当たってちょっと困惑しました。

今までさんざん書き倒してきた「8分環」が見当たらないのです。
「無いもんは無いねんし、まぁええか」で済ませばよいのですが、でき得れば「無い」と断言したくなります。

そこで、新兵器を導入。
今まで使っていた「VIEW CRAFT」を止め、「SCOTT MULTI-GAUGE」を買いました。

これです。(左画像は従来の愛用品)

私を直接悩ましていたのは、この切手です。
左の画像は一見8分環のような堂々とした風合いがあります。
それでもVIEW CRAFTで測ってみると外径は24mmありません。

くどいようですが、7.6分環と8分環との違いは外径です。
内径は、活字の互換性を担保するために7分(≒21mm)に統一されています。
 

















模式図のとおりですが、換言すれば7.6分環と8分環とは外枠の厚みの違いに過ぎないということです。

しかしこのわずかな差が、一瞥したときの印象を大きく変えてくれるのですから面白いものです。
さて、MULTI-GAUGEの出番です。

3銭の右図ですが、
① まず内径が2.1mmですので、そう測れるようにゲージの位置を決めます。
② その上で外径を見れば、正しく測定できます。

上図の切手についての結論は、「余分のインクが外環の内側に回り込んで外枠に1.5mmの厚みが出てしまった」でした。

これで、「横濵局の印軸には、8分環は多分無いだろう」くらいのことは言う自信がつきました。

さてリーフ作りに取り掛かるのですが、頼りになるのは本池さんの教科書だけです。
明治35年度末までの時刻表示一覧は推測を交えています。

既知の時刻一覧を眺めて目についたのは、「前 6」と「前 6.30」とがどの年度にも出現していることでです。
本池さんは「季節的なことか」と考えておられます。

同日使用の可能性も否定できませんが、とりあえずは「交替現象」としておきます。
      ※ リーフでは「交代」としましたが、「交替」が正しいですね。

(同日使用の例が見つかれば、丸一で言う「ワ便」ではなく、「イ便」に対して「イダッシュ便」を使ったことになります)

リーフ最下段の時刻空欄は、
8分環が無い≒最終年度まで7.6分環が使われた
ことを示すために並べましたが、ちょっと苦しいですね。




































































理屈だけは一人前ながら、並べると実力のメッキが剥げます。
でも、半分埋められただけでも上出来と甘い点数を付けています。

ブランクを一つでも減らすためにエンタのリーフを援用します。
35年度の「后 5.40」です。



































































それだけで終われば心正しいスタディーリーフですが、道草です。
単片リーフでも靑島の独軍少尉を引っ張り出しましたが、横濵ならこの人でしょう。

後の横浜松坂屋になった旧野澤屋さん。
「入九」の屋印は、「2代目茂木惣兵衞が信州から横浜に出てきたときに、蟇口に9銭しか残っていなかったから」というのは後世のこじ付けのようです。

【自己評価】道草とは言いながら、御当地の英雄所縁のエンタ。
このくらいの道草は許される範囲でしょう。
私は、横浜の消印を並べるからには必要不可欠の話題 ―と思っています。

次回も再度道草。コルヴィザールさんに登場願います。

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【追記】

以上を106日の午前に投稿しました。
その日の午後に、eBayの落札品が届きました。

届いたロットの中に何とも名状しがたい菊25銭が入っておりましたので、ありのままを御覧いただきます。







































8分環と言えなくもない ― 或いは8分環かも知れない ― と言う以外に何も言えません。
外径で24mmに掠っています。
実測で23.6mm23.8mmほどでしょうか。

消印の日付は384月で、使用開始から3年経過しています。
しかも、当時の我が国経済の大きな部分を担った横濵局です。印軸の稼働量も大阪に比すべきほどだったでしょうか。
印軸の磨滅が無かった=印軸の更新が無かったなどということはあり得ないと思います。

或いは「逓信博物館75年史」に記されているとおり、
「最も磨滅しやすい局名も、その度ごとに印軸全部を替える必要はなく、単に局名活字だけの取替えで鮮明となる便利なもの」
だったのでしょうか。

横濵局の8分環の有無についての結論は持ち越しです。
もっと沢山のデータが必要です。

以上、追記しておきます。(108日午後)

2015年9月25日金曜日

丸二型日付印 ‐ 大阪 心齋橋・梅田・天王寺・玉造・停車塲内局

大阪市内局の最終リーフです。
この辺りも集めるのに苦労するエリアではあります。

以前から書いている印軸の大きさについてですが、幸運にも梅田局で7.6分環と8分環との両方が揃いました。

しかも、明らかな字体違いのおまけつきで。

丸二のそもそものコンセプトは、活字を使用することで
「最も磨滅しやすい局名も、その度ごとに印軸全部を替える必要はなく、単に局名活字だけの取替えで鮮明となる便利なもの(逓信博物館75年史)」
だったはずです。

7.6分環は築地活版所の製品だったのですが、8分環は別のお店の作製に係るものだったのでしょう。

梅田局に外径の異なる印軸が2種類あるなら、心齋橋局も多分同様だろう ―という良い加減な憶測でリーフのレイアウトを決めました。

天王寺・玉造の両局はさっぱり分かりませんが、手元にある3枚が全部8分環なのでとりあえずは7.6分環は無いものとしておきました。

次の停車塲内局についてですが、JPSの「日本郵便印ハンドブック」(2008年刊)には、
「大坂停車場内には丸一印が確認されており、丸二印は使用されていないと推定される。」(上掲書p75 原文のまま)
と書かれています。

一方鳴美さんの「郵便消印百科事典」(2007年刊)には、
「明治38年中の10日間は、丸二型日付印を使用した筈である。」となっています。

「ハンドブック」には参考文献として本池さんの「詳説」が掲げられていますので、勘違いでしょう。

郵趣協会さんは、たまにこういう不注意をやらかさはります。以前の「郵趣」誌で印刷局の彫刻者列伝みたいな記事がありましたが、斎藤知三を斉藤と表記して平気な顔でした。

記事そのものは結構読みごたえのある面白いものでしたが、こういう不注意は全体をぶち壊しにしてしまいます。

かく申し上げる私自身も、不注意と軽率のミルフィーユみたいなところがありますので偉そうなことは決して言えません。

リーフです。





































































【自己評価】相も変わらず穴だらけですが、このエリアで揃えておられる方は何名もおられないと承知しています。
大きな顔ができるリーフではありませんが、まずます平均的なところと自身を甘やかしています。

別件ですが、全く歯の立たなかった「新橋」局をやっと1枚手に入れました。






























オーダーキャンセルながら、時刻入りです。

これで、局名だけは完集です。(時刻入り・無しを区別しなければの話です)
停車場内だけはこの世で誰も持っていませんので、これも別です。

次回は、建制順に従って横浜局の予定です。

2015年9月12日土曜日

丸二型日付印 ‐ 大阪 博覽會郵便電信支局/博覽會郵便局 (2)

やはり何の準備も無くリーフを白紙から作り上げるというのは骨が折れます。

二通のエンタを 1 リーフにまとめようとしましたが見事に失敗。
結局一通づつ貼って 2 リーフになってしまいました。

そのような次第ですので、本日は 2 リーフを一度に御覧いただきます。
まずは、ノーマルに且つスタディーリーフ風に拵えたものからです。

幸いにも封書の宛先が大阪市内ですので、封筒の裏に薄いながらも大阪中央局の着印が押されています。

本町通の一本北側が安土町(旧東區 北船塲とも呼ばれる地域)です。配達局は船塲局か高麗橋局の所管と思うのですが、消印は中央としか読めません。

無理すれば船塲と読めなくはありませんが、船塲局には「后8 .30」は未見です。
不思議に思いながらも、そういう消印やししゃーないか ― とリーフを作りました。

 
 博覽會局は既知データが少ないので、多少なりとも熱心な方々のお役にたてればと両局の伝送便の対応―いわゆる「結束」で想定されるものを書き込みました。

単に珍しい局のエンタをリーフに貼って喜んでいるだけとちゃうで…というアピールでもあります。
実際、 博覽會局の時刻はこのリーフに書き込んだだけしか判明していないようです。


次は、世に言う「コルヴィザール=エンタ」です。




































































しかし、ちょっとおかしい。コルヴィザールの字はこんな丸文字と違うぞ ―と思われた方は正解です。

リーフにコピーだけを貼ったモノクロの方が、男爵御自身の金釘流です。
このエンタは、男爵の御令嬢 Solange Corvisart さんの自筆です。

男爵は奥さんと一緒に来日されたことは知られていますが、お嬢ちゃんも連れてきたはったんですな。

昨年の春から五月雨式にコルヴィザールカバーがDelcampeで大量に売り立てられました。
私も何通かは入手しましたが、売られた全てのカバーは同一人物宛です。

以前に郵便電信取扱所(中宮祠・温泉)を取り上げたときに御紹介したラピニエール領主さん宛です。
http://kitte-renshucho.blogspot.jp/2014/07/1_25.html

いかに男爵が手紙マニア(切手マニア)でも度の過ぎる通数です。
売られた手紙の中に、一通だけこんなものがありました。






























私が落札したものではなく、Delcampeからの無断借用です。
落札された日本の方にもお詫びを申し上げます。すみません。

このカバーの筆跡も先述のお嬢ちゃんです。
(裏は、例の「男爵/古る宇゙ゐざる」の角印です。)

宛先の住所は他と一緒ですが、このカバーだけが Monsieur Didier Corvisart という人に宛てられています。
この名前の人は、コルヴィザール家の開祖のはずです。

でもナポレオン I 以前の人ですので、その人ではありえません。
もしかすると、故郷に残した男爵の御令息ではと思っています。しかもこんな名前を付けるくらいですので、跡取り息子さんでしょう。

この領主さん宛の手紙は、ほとんどが書留です。
養育費を送っていたのかも知れません。

今日御覧いただいた絵葉書のお陰で、コルヴィザール男爵の令嬢の名前が判りました。

また、数ある男爵のカバーの中で丸文字を見つけたら、それは秘書代わりの仕事をさせられていたソランジュ=コルヴィザールちゃんの代筆だということも。

【自己評価】エンタのリーフは、何を書き込もうかいろいろと迷います。
そのために、丸二のリーフ全体をながめたときに不都合な不統一感が出てしまいます。

そこは「練習帖」ですので御容赦を。いろいろとやっていく内に「これや!」というレイアウトの決定版ができればよいのですが…。

余談ながら、目ざとい方はお気づきでしょう。リーフにモノクロで印刷した横浜の丸二の絵葉書、着印はあの「中宮祠郵便電信取扱所」です。

また横浜の丸二のリーフで実物を御覧いただきますので、今回はこの辺で。
次回は、大阪の市内局の続きの予定です。

2015年9月8日火曜日

丸二型日付印 ‐ 大阪 難波局/博覽會局          (付―明治43年の「大阪中央」櫛型印)

前回の続きで大阪の支局(市内局)ですが、今回以降は丸二型の使用期間中に設置された局です。

本日は2局だけです。出し惜しみではなく、この両局だけが7.6mm環を交付されました。
これ以降の4局(梅田・心齋橋・天王寺・玉造)は、その開設時期から8mm環しか無いものと思われます。

難波局が明治3511月、博覽會局が明治362月の開設ですので東京には7.6mm環の手持ちがまだ有ったのでしょう。

――以前に、このブログで丸二型はどこで拵えられたのでしょう…みたいなことを書きましたが、「逓信博物館75年史」が地元の図書館に所蔵されていました。

読むと、「築地活版所」という民間の印刷屋さんに作らせたと書かれていました。
7.6mm環の製作者はこれで確定です。

8mm環は判りません。水牛製の丸二を売り込むハンコ屋さんが現れるほどに競争が激しかったようです。

私のデータでは、大阪での8mm環の初期データは「明治36 -12 -25」(大阪局)です。

難波局も博覽會局も集めやすい局ではありません。数のありそうな既出の6局でもタイプ別に分けると穴だらけですので、まずはこんなところでご勘弁のほどをお願いします。

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ここで、リーフを御覧いただくのですが、先日とても変なものを入手しました。


























鳴美さんの「郵便消印百科事典」p275にも掲載されていますが、消印の印影上は「大阪中央」はY型の現れる大正2. 4. 1以降のはずです。
何度か前の私のブログにも一覧表を付して、東京局と大阪局との局名表記の変遷を御覧いただいています。
http://kitte-renshucho.blogspot.jp/2015/08/4.html
http://kitte-renshucho.blogspot.jp/2015_05_01_archive.html

明治434月の新遞信官署官制施行で東京局と大阪局とはそれぞれ局名に「中央」が付きましたが、印影には表れていません。

大正24月施行の地方遞信官署官制で初めて「中央」表示の消印が出現する ―と思っていました。

もしかしたら、新発見でしょうか。

出所は明確です。先日のeBayです。





























Buy It Nowでした。
どうか、櫛型にお詳しい方々の御意見を賜りますようお願いします。
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それでは、リーフを御覧ください。




































































【自己評価】
大阪博覧会のことは、縦書丸一の「大阪博覽會前郵便電信受取所」のリーフ作りのときに調べておいたので、一部はコピペです。

確か、博覽會郵便電信支局の写真が掲載された本が近デジにあったと記憶していますが、データ保存していませんでした。
結構きれいな建物でしたので、見取図と並べてもよかったのですが…。

次回は、その博覽會局のエンタ2通を御覧いただく予定です。

2015年9月6日日曜日

丸二型日付印 ‐ 川口郵便電信支局/大阪川口郵便局

今日は川口局消しの官製はがきを御覧いただきます。

さして取り柄の無い、どちらかと言えば小汚い部類に入りそうな枚ですが、大坂市内の丸二が複数押されています。

以前に「今昔マップ」というサイトを御紹介しましたが、先日もうひとつ面白いサイトを見つけました。
「ポストマップ」という名前です。

























名前のとおりですが、昔の郵便局の場所がグーグルマップにロケーティングされていて、
















川口局の場所と現在の地名(大阪市西区江之子島1-9-15)とが判ります。

そこで、今日のエンタに登場する四局を今昔マップに落としてみました。


































こんな具合です。

局同士はさして離れていません。何度も御紹介している本池さんの本によると、
当時の結束で、川口局⇔大阪局間が12分、船塲局⇔大阪局間が16分、高津局⇔大阪局間が26分です。

ただし、支局間の交換便は無かったそうです。

リーフ左側の葉書では川口局が「前 10」、大阪局が「后 0」です。この葉書は大阪局で消印を押してもらうまで随分長い間待たされたことになります。

もう一方のリーフ右側の葉書は、わずか34時間の間に大阪市内の中心部を駆け巡りました。
船塲の消印が押されているのは、どうも紛来としか思えません。下手な字の葉書をより見苦しくしている葉書右上の汚れは転送付箋の跡と考えれば納得できます。

そこで、この葉書に押された三つの局の間に隠された大阪局の交換便時刻を推定してみました。

既知のデータではこの時期には、
「后 2」、「后 3」、「后 4. 30」、「后 5. 30」があるとのことですので、真ん中の二つが当てはまります。

ただ、そこは初心者の悲しさ ― リーフに貼るべき現物が満足に有りません。
2銭は一年以上前のデータ、しかも年賀状対応で特別結束を組んでいる可能性の高い時期です。説得力に欠けますので、何とかしてましなものと取り換えたいところです。





































































【自己評】字の下手くそさで見た目の悪くなった青枠葉書でも、こうしてリーフに整理してみると愛着の一つも湧いてきます。
前回に御覧いただいた6局にもっとこだわってリーフ展開したいのですが、とりあえず先を急ぎます。
次回は丸二の使用期間中に設置された局です。

2015年9月3日木曜日

丸二型日付印 ‐ 大阪6郵便(電信)支局/大阪市内6郵便局

今日から暫く大阪の支局(市内局)にお付き合い願います。

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本題に入る前に、一言お詫びと訂正をば…(汗)

とんでもない思い違いをしていたということが判明しました。
東京局の印軸の大きさについてです。

改めて以前のブログページを眺めてみると、「東京中央」局の時代からは全て8分環が使用されているような書き方になっています。

画像を見ただけで判別できる方は相当のスペシャリストと存じますが、リーフに現物をお示ししたとおり「東京中央」の時代は8分環は未見です。

無いと断言はできませんが、多分無いでしょう。
そして、通信官署官制改正後に初めて8分環が出現しますが、7.6分環との混用です。

以上、お詫び旁々訂正します。
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東京の支局でも同じ構造でリーフを作ってみましたが、大阪でも懲りずにやってみます。
丸二の使用期間中、一貫して局名に変更がなく移転改廃がなかったのは6局です。

ただし、船塲局だけは、郵便電信支局ではなく郵便支局です。

この6局で、大阪局で試したのと同様に印軸の大きさを調べてみました。
データが少ないので大雑把な傾向くらいの話ですが、8分環は高津局以外は見つかりました。

手持ちの中で最初期は、明治3711日です。

リーフでは天滿局がブランクになっていますが、本池さんの教科書の写真で判別しました。






















先述の東京局についての訂正も、実はこの写真での判別がきっかけです。
測定せずとも一目で判別できるようなことも書いたかと思いますが思い込みが入ったり、全影が見られないと、かなり難しいですね。( ― 弁解です)

リーフです。





































































【自己評価】相も変わらず穴が目立ちますが、自分ではよく頑張った方だと思っています。大阪は結構集めるのに苦労します。70点。
川口局の8分環は、時刻入りではと思いますが読めないので、暫定的に時刻無しの方に入れました。

2015年8月22日土曜日

丸二型日付印 ‐ 大阪郵便電信局/大阪中央郵便局/大阪郵便局 (4)

以前に、東京局について丸二型日付印使用時期の電信業務やら電話業務の消印(=丸一電信/電話印)を御覧いただきました。
(この話、御存じの方はスルー願います。)

その大阪局バージョンです。

東京局のリーフをコピペするだけで出来上がりなんですが、一箇所だけ異なります。
明治43年に「中央」局が再び出現します。

ただし制度上だけのことで、郵便日付印は「東京/大阪」の名称のままです。
電話業務用の日付印だけが「東京中央」に変わりました。

しかし大阪は変わらず丸二型の料金収納印のままです。何故だか分りません。
もうひとつ面白いのは、丸一ファンにはおなじみの横バーがたくさん(三本だけです)入った丸一電話印。

相も変らぬ穴だらけ品で恐縮ですが、普段から気を付けていれば一年ほどで完集できそうな ―いや、完集できてから言います。





































































【自己評】在庫を漁ればあるような気もするのですが、根気のいる作業なので遠慮しています。
      (そういうズボラが収集を阻害するものであることは承知です…ハイ。)
     次回からは大阪の支局(市内局)に移ります。

2015年8月20日木曜日

丸二型日付印 ‐ 大阪郵便電信局/大阪中央郵便局/大阪郵便局 (3)   ― 日露戦争負傷兵救済葉書

前回の大層な議論を続けるなら、今日御覧いただくエンタもただの外郵到着印に過ぎません。
ただの到着印として扱うなら、わざわざ1リーフを割くほどのものではありません。

さらに、貴重な葉書であるがゆえにこんなところに貼るのは場違いとも思っています。

左様思いながらも敢えて丸二のリーフに貼っているのは、実は一昨年Delcampeで訳が分からないままに「珍しい葉書の着印」として$25.00で落とした代物だからです。

後で調べると、ロシア赤十字が日本の露軍俘虜の扱いに謝するため発行したものとか。

「関西郵趣」に連載された「日露戦争の俘虜郵便と、最も大きかった大阪地区の俘虜収容所」という大西二郎さんの労作を一冊にまとめた「日露戦争と大阪の俘虜収容所」から1ページ抜粋します。




























































               ※ 著者や発行元の転載許可をいただいておりません。
                  問題がありましたらすぐに削除しますので下記まで
                  御連絡をお願いします。
                  mich.yamada
                  (※アットマーク以下は、グーグルのメールです。)                               
                 

青島の日独戦で収容した俘虜将兵は5千人ですが、日露戦争ではその14倍の将兵を国内に受け入れています。

葉書は、ロシア赤十字が知日派のベルギーを通じて発売したものです。
この論文に書かれているように俘虜の扱いに「感激」したのか、何か術数があったのか不明ですが、素直に謝意の表明とみて良いと思います。

ことほどさように、個人と個人との関係では残虐な大量殺戮など生ずるものではありません。
国家権力や偏狭なナショナリズムが介在することによってのみ「戦争」を生み出すのでしょう。

国家として感激したのであれば第二次大戦後のシベリヤ抑留は無かったはずです。スターリン一人が悪者であったわけでもなく、なべて個人を超越した国家”権力”のなせる業 ―。

俘虜への対応は「美談」ではありますが、戦争を美化する意思は毛頭ありませんので念のため。

先に「貴重な葉書」と書きましたが、ネット・オークションではあまり見かけないものの、今春にはジャパンさんがフロアで扱っておられました。
ただ、説明に困ったのか説明書きは「恤兵葉書」 ― 広義には正しいと思いますが…。





































































【自己評】場違いなリーフながら、これはこれで良いのかも。
エンタでの道草道楽はこの辺にして、次回は大阪局の丸二の最終のつもりです。

2015年8月18日火曜日

丸二型日付印 ‐ 大阪郵便電信局/大阪中央郵便局/大阪郵便局 (2)

前回御覧いただいた「大阪局の印軸の大きさの違い」を示すエンタが、たまたま手元にありました。
7.6分環と8分環と双方ともに当時流行した絵封筒です。並べてみました。

マルコフィリーをストイックに且つ厳密に追及するのであれば、本日のリーフは無用の長物であることは承知しています。
しかし私のような移り気の道草好きは、さようなストイシズムから見放された「縁なき衆生」。

もとより生粋の消印研究を否定するものではなく、むしろ憧れます。
トップクラスの郵趣家の方々がその道に没頭なさることを尊敬しますし、そういった発見と蓄積とが無ければ郵便史は暗黒のままです。

さらに、消印を展示すべきリーフに余計なものを差し挟むことは「何を言いたいのか」全く分からなくなってしまう危険性をも生むこととなります。

もちろん、テーマティクとして、「丸二型と日露戦争」といったようなカテゴリーで作品を作るなら別ですが、それはそれでマテリアルが不足しています。

結果として、とても中途半端で訴える力の弱いリーフ展開になることを承知の上で、個人的な興味のみを満たすリーフに甘んじています。

それでも、消印展示のリーフに、その時代の風俗やら何やらの片鱗を覗かせるのも悪くはない ― と手前勝手な解釈をしている次第です。

左のエンタは絵封筒と言いながら文字のみで、篆刻風に「帝國慈惠」「女學院」と書かれています。
調べると「不測ノ惨害二會ヒタル無辜ノ女兒」の教育・授産施設だったそうです。

ただ民間からの寄付のみで運営していたがためにすぐに頓挫して解散しました。
その後始末に現地で頑張っておられた良家の御内儀から旦那さんあてに出した手紙です。

多少不躾ながら冒頭だけを御覧いただきます。






































やや薄墨ながら綺麗な良い筆跡(て)です。
でも、以前に東京局の年賀状についても書きましたが「新玉の年を」となっています。

このころにはこの表現が普通だったのでしょうか。

年末年始に旦那をほったらかして大阪に長逗留できるのは、女中さんがようけいてはるお家です。
宛先の武庫郡鳴尾村は、周辺の村々が反対する中、この手紙の年の2年後に阪神電鉄の誘致に成功します。
阪神電車も駅駅に郵便ポストを設けて逓送にも電車が一役買ったとか。

もう一通の方は、国会議員さんあてです。
由緒ある姓ながら大きな業績はあまり聞きません(失礼)。
中央交渉部という会派に属しておられたとか…。

むしろ絵封筒の方に興味が湧きます。
外側の薄紙を剥がしてスキャンしてみました。




































日通マークはお馴染みながら、左側の二つの車型を調べましたが判らずじまい。
どうも内国通運愛用のEEマーク








の図案化のようです。





































































【自己評】本文に書きましたように、いつもながらの道草好きは我ながら悩ましい限りです。
それでも楽しいものは楽しい ― と開き直ってマルコフィリーでもなくテーマティクでもない中途半端なリーフ作りを続けています。



2015年8月16日日曜日

丸二型日付印 ‐ 大阪郵便電信局/大阪中央郵便局/大阪郵便局 (1)

暫くぶりの丸二です。
本日からは大阪とその支局(市内局)にお付き合い願います。

東京とその支局の印軸の大きさ別やら時刻表示の分数/小数の区分、日付表示の8駒型/3駒型などという面倒な作業から解放され一息つけます。

― と思ってリーフ作りを始めましたが、世の中は思いどおりに行かないのが常。
やっぱり大阪にも印軸の大きさに違いがありました。

東京の部で何度も書きましたが、大阪局でも
〇 初期のものは外径が7.623.03mm
〇 その後に        8.024.24mm
が現れます。

大阪に限っては、明治35315日の公達第181號に拘わらず明治3541日以前の使用例が見つかっておりません。

したがって、この公達の施行以前に姿を消した分数型/日付表示の8駒型はありません。
しかし印軸の大きさは何の定めも無く、担当者の裁量一存で決めることができたのでしょう。

何度も引用させていただいています本池論文(詳説)に「逓信博物館七十五年史」の引用があります。
丸二の製作に至る過程を孫引きします。

「浅草蔵前の高等工業学校、小石川橋の陸軍造兵厰、大阪造幣局等と協議を重ねた」
と書かれているそうです。

この記述だけでは印軸がいずれで作られたのか不明ですが、上記の複数箇所の製作である可能性もあります。

製作場所によって印軸の外径が異なっていたのでしょうか。

また、初期において印軸の活字以外の部分のみを大量に拵えておいて、活字部分は後から製作したのかも知れません。

或いは、本池さんが上述の論文で述べておられるように、大阪だけが予算の都合で使用開始が遅れたということであれば、東京の古い印軸を再使用した

……想像を逞しくすれば、さまざまなことが考えられます。

外径8.0分のものは、改正通信官署官制の施行時にようやく現れます。
(私の持っている最古データは明治36年12月25日です。)

さらに面倒なことに、官制改正以降(=「大阪郵便局」の時期)も7.6分環が見つかっています。

また、本池さんが東京とその支局に関しては相互間の結束時刻に由来すると看破された時刻表示についても、首をひねっておられます。

大阪とその支局の時刻表示に関しては、結束時刻との不一致があるそうです。
単純そうな大阪でも解明されていないことが多いのですが、リーフです。





































































【自己評】
使用開始初年度の時刻表示を一緒に並べてみました。(いつもながら穴だらけではありますが…)

現在見つかっているのは11種類(=11便)ですが、これでは一便少ないです。
「午前7時/午前730分」に「未見」と入れているのは未見だからですが、この直後の大阪中央郵便局の時代には、午前5時と午前7時とが見られます。


























午前に3便だけというのは間尺に合いません。大阪中央と名前が変わったから頑張って一便増やしたというのも説明に無理があります。

山師みたいなリーフになってしまいましたが、ここは12便/日を前提にして一山当ててやろうと思っています。

もうひとつ、予算が単年度主義となっていますので、お金の要る仕事に関してはやはり暦年ではなく会計年度を基本に考えてゆくべきであろうと思っています。

東京以外は時刻表示ルール未解明だそうですが、とりあえずデータ作りは局別・年度別・時刻別でやっています。( ― 遅々として進みませんが)

2015年7月30日木曜日

明治末の芸妓絵葉書  ―新橋煉瓦地藤都の雛妓 濵勇(浜勇) その2  Hamayu, the geisha of Shinbashi

昨日に引き続いて濵勇の絵葉書です。

濵勇についてはその半生がほとんど知られていないようです。
萬龍や照葉、小奴、さかゑ、ぽん太といった有名どころは同時代史料(芸能雑誌風の)が豊富なようですが榮龍や濵勇となると…。

あと残っている収集済み絵葉書は、衣装でいえば、
〇 庇髪の黄八丈2着がそれぞれ2
〇 桃割(或いは島田)の黄八丈2着が計6
〇 澤瀉の中振が3
〇 立湧の小紋が5
〇 澤瀉の中振が3
〇 麻型の小紋が4
〇 絞の浴衣が4
〇 その他不明が4
です。
昨日はリーフ作りをさぼって画像だけに終始しましたので、私自身も違和感を覚えていました。

ついてはもう1リーフ作ってみました。





































































大正期のリプリントです。元の撮影者NS(ナルセ・シスイという方らしいです)のモノグラム・ロゴが判り易く消されているのが御愛嬌。
庇髪姿ではありますが、先に挙げた黄八丈着用のころより前と思われます。

しかし「大阪 濱勇」と書かれております。彼女は大正の初めころには東京を離れ関西に移籍したらしいのです。

神戸の絵葉書資料館には先の立湧小紋衣装の絵葉書に「神戸村や 愛子」の解説が付いています。
(ネットでの展示資料です。一度現地を訪れて根拠をお尋ねしたいと思っています。)

大阪では梅香/千代吉の名を使ったこともあるようです。
リーフを拵えた理由は、資料を見つけたからに外なりません。

近デジです。請求記号350-363「大阪独案内」97コマ目の抜粋をリーフに刷り込みました。

山下席という店で藝妓稼業に精出していました。この本には一本(=15分)当たりの値段まで紹介されていますが、新町では藝妓は娼妓の倍ほどの値です。

この資料のお陰で、少なくとも大正3年の前半ころには大阪新町で営業していたことが確定です。

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さらにリーフ作りに励みたいのですが、やはり表面の制作商店名の分析やら何やら、随分と手間がかかりそうなので、前回同様画像のみの一気出しとします。

【庇髪-黄八丈格子】
(収集済み)



































(未集)


























紬を黄八丈と特定した理由は特にありません。織上がりの端正さ、売れっ子になった彼女なら高額の紬にも手が届くようになったのでは ―という程度です。


【庇髪-黄八丈縞】
(収集済み)






































































(未集)



























【黄八丈細縞】
(収集済み)



































(この細縞はこの2枚しか見たことがありません。)


【澤瀉柄中振】
(収集済み)



































(未集)




























【立湧小紋】
(収集済み)






































































(未集)






















































【麻型小紋】
(収集済み)






































































右側の1枚は特に気に入っています。本気で落籍させたくなります。

(未集)





























【海辺風景-絞浴衣】
(収集済み)






































































濵勇シリーズの最初に御覧いただいた海岸風景‐絽の着物と同日の撮影と思われます。

(未集)





























【詳細不明の4枚】
(収集済み)






































































下段左は、実に珍しく歯を見せて微笑んでくれています。
ものの本では、この時代、ワンテイクに1分以上必要だったとのこと。笑顔が少ないのは納得です。


【以下すべて未集です】
(打掛)



























(秋草柄中振)




























(身支度‐襦袢姿)



























(詳細不明)




























でき得れば、襦袢姿のは入手したいものですナ。

これで濵勇レゾネ(素稿)はおしまいです。
前回も書きましたが、(未集)としたものは、ネットから無断で画像を借用しています。
問題があればお手数ながら御連絡ください。
すぐに対処いたします。
ただ、レゾネ作成という野望に免じて寛大な御処置をいただければ誠に幸いです。

また未見絵葉書や新しい情報を入手しましたら、リーフ姿で御覧いただきます。
こんなものもあるぞ ― という方がおいででしたら是非お知らせください。
抗議も情報提供もいずれも mich.yamada あてにお願いします。
            (※アットマーク以下は、グーグルのメールです。)
                                   
                 

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次回からは元に戻って、とりあえず丸二シリーズの大阪とその支局から再開です。