おさらいですが、
① 温泉の使用済みの日付(明治36年5月18日/明治36年8月30日)は、郵便電信取扱所で書留等にのみ消印を押印することとなった明治37年4月8日以前。
② 中宮祠の普通便カバーは明治37年8月10日付けですが、書留ではありません。
いずれも為替や貯金とは直接関係有りませんが、便宜上この投稿シリーズに入れておきます。
本論に入る前に、温泉の同日付の2枚の菊はこんなロットでした。
誰も気づかなかったのか、最低値で落札でした。
お雇いのドイツ人で温泉を訪れた人…誰なんでしょう。
さて、これらの消印やカバーが現存する理由についてです。
上記の「郵便電信取扱所で書留等にのみ消印を押印する」は、次のような公達です。
これだけを読むと普通便に消印は押されません。
念のため、ここで引用されている「郵便取扱規程」第32條~第36條です。
この「郵便取扱規程」以外に、「郵便受取所郵便取扱規程」というのが日を接して発出されています。
先の「郵便取扱規程」が明治33年9月7日、「郵便受取所郵便取扱規程」が明治33年9月18日の発出です。
「郵便受取所郵便取扱規程」で郵便電信取扱所にも同じ規程を適用するとしておきながら、明治37年4月になって、「それはやんぺ」と言ったのです。
では、「郵便受取所郵便取扱規程」発出以前に何が適用されていたか。
中宮祠郵便電信取扱所が設置されたときの公達です。
十年以上昔の規程を持ちだしました。でも問題は有りません。同じ郵便及電信局官制下での定めです。
念のため、その第2條です。
そして、温泉郵便電信取扱所が設置されたときに先ほどの公達は「中宮祠」の三文字が削除されました。(=全郵便電信取扱所に適用)
確かにこの「郵便支局及電信支局規程」には「郵便物受付ノ事」と書かれ、実際に支局では日付印が押印されていました。
しかし、郵便受取所でも同じ文言の定めが有ります。(明治26年7月21日)
同じ「受付」でありながら、どう違うのか。
実は突き詰めていません。
消印を押すかどうかは、大きな問題ではなかったのでしょうか。
ここで引用されている明治19年の公達というのは、地方遞信官官制の時代です。
そこでは、支局と受取所が並んで「郵便物受付ノ事」と定められていました。
支局業務の規定が先に改正され、郵便受取所業務の規定は時間が経ってから改正されました。
新設の中宮祠に対して、同じ文言「郵便物受付ノ事」があるのに郵便受取所の規定ではなく支局業務の規定を引用したのは、郵便支局と同じ仕事をさせたのではなかったのでしょうか。
もちろん、「それは郵便電信取扱所が支局格だったからそうしたまでのこと。」
という反論も成立すると思いますが…。
でも、支局と同じ仕事と考えれば昨日のマテリアルも全て説明ができそうです。
ただ、明治37年4月8日以前に書留にも押印していたかどうかは不明です。
多分していなかった― 根拠のない推測です。
では、なぜ最初に掲げたような公達を出さざるを得なかったのか。
これも推測です。
明治34年から37年にかけて東京市内で相次いで4箇所の郵便電信取扱所が開設されています。
全て丸二型日付印を使用していますが、本池悟さんの研究では、書留押印の事例しか見つかっていないとのことです。(明治37年度末までの郵便電信取扱所時代は、です。)
つまり、温泉・中宮祠では普通便に押印をしていた。
これに対し、発足の理由も由来も温泉・中宮祠とは全く異なる東京市内の4箇所にあっては、「郵便受取所郵便取扱規程」を墨守していた。
混乱が生じたので、最初に掲げた明治37年4月7日の公達が発出された。
言い換えれば、最初に掲げた公達は新たなシステムを拵えたという性質のものではなく、混乱している現状を整理するためのものであった。
― と考えるのが、一番しっくりくるのではなかろうか…という仮説です。
1983年に、この問題についての論争がありました。
そのなかで、温泉では明治35年5月1日から郵便物逓送、集配事務、会計事務の取扱を開始したとの記録がある旨、発表がなされています。
古い資料ですので若い方のために再掲しておきます。
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その前に耳寄りな話を…
このブログでお示ししたコルヴィザールカバーは、全てDelcampeで売り立てのあったものです。
出品者は全てYvonnic_92というフランスの方。
十点ほどにもなったでしょうか。
五月雨式に出品されました。
そのうちの1点が日本の方によって落札され、ヤフオクで先日転売されました。
はい、封蝋ではなく「男爵/古る宇゛ゐざ留」と書かれた朱印の押されたあのカバーです。
私は、ここに御覧に入れた二通のカバーのほかは麻布局の丸二型が押されたものを入手できただけです。
ほかは、ほとんどフランスの方が持って行かれたと記憶しています。或いは未出品のものが在庫として眠っているかも…。
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当時の「フィラテリスト」誌と「郵趣」誌とにまたがっての熱心な議論です。
冷やかしではなく、真のフィラテリストたるお二人に改めて深い敬意を表します。
議論は郵趣界きっての論客・研究家お二人によるものです。
私も当時は何のことか分からずにいたのですが、縦書に興味を持つようになってやっと理解できました。
「フィラテリスト」誌1983年7月号です。
「フィラテリスト」誌1983年10月号です。
「郵趣」誌1984年4月号です。
こんなに熱心な議論が交わされることは、同じ国の切手を集める者として大変に誇りに思っています。
【おことわり】 これらの論文については、著作者の了解を得ることなく雑誌ページのスキャンを掲載しています。画像掲載が不都合である旨の御連絡をいただきましたら適切に対処します。
次回以降は、新たにリーフを作る必要が有ります。
したがって、今までのように手持ちのリーフをホイチョイというわけにはいきませんので間隔をあけて投稿します。
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