2014年7月30日水曜日

青島俘虜郵便‐青野原収容所 Die Kriegsgefangenenpost Tsingtau - Das Aonogahara Lager

縦書為替印シリーズも先週やっとこさ郵便電信取扱所までたどり着きました。
緊張しました。
自分のコレクションを客体化するのは面白いんですが、冷や汗も出ます。
と言っても、穴だらけのリーフをゴタゴタ並べてウダウダ駄文を書いただけですが…。

野戦局為替之章など、まだまだ重要な分野がたくさん残っていますが気分転換に分野を変えてみます。

ちょうど百年前に第一次世界大戦が始まりました。1914年(大正3年)728日です。

日本がドイツに宣戦布告したのは翌月の823日ですが、靑島を巡って日本と思惑の異なるイギリスとの事前調整に時間を要したとのことです。

ドイツ軍の靑島要塞五千名に対しその十倍の兵力で侵攻しました。
Waldeck総督は、賢明至極、武士の名誉を保てる程度の抵抗だけを示して自国兵士の命を守りました。

彼らはハーグ陸戦条約批准に基づき1912年(明治45年)公布された陸戰ノ法規慣例ニ關スル條約第2章に定める俘虜として国内12箇所に分散収容されます。






































※「チンタオ・ドイツ兵俘虜研究会」作成

日清戦争での俘虜の取扱との違いは、形式的にはこの条約の有無にあるようです。
実質的には、対欧と対中との姿勢の違いでしょうが…。

私が初めて手に入れた俘虜郵便が靑野原です。
収容所の検閲印や中継印もさることながら絵葉書の女性に目が行き、気に入って買いました。

「兵庫・瀧野」の消印の無いことに気がついたのは手に入れた後です。

郵趣とはいえ、マテリアルは俘虜として来日した生身の人間の葉書です。無事に祖国に帰れたのかまで調べ上げました。

靑野原については、幸い大津留厚先生の「青野原俘虜収容所の世界」という本が一般向けに出版されています。
また、「チンタオ・ドイツ兵俘虜研究会」という詳細なデータを持つサイトがあります。
http://homepage3.nifty.com/akagaki/indexb.html

史料は、「アジア歴史資料センター」で沢山見ることができます。
実に幸せな環境です。

リーフの葉書はただの挨拶状ですが、差出人の名はEwald. A. Königさん。
今はポーランド領となっているPosenのご出身。
海軍砲兵隊の1等砲兵さんだったそうです。

しかし、上述のサイトによると、海軍というのは派兵のときの編制(※)であって実はほとんどが陸軍兵だったとのことです。

        ※ 軍隊の「師団編制」などは、「編成」ではなくこの字を使います。
          現在でも、学校教育法などでは「学級編制」と表記しています。
          軍隊の名残でしょう。

絵葉書には筑前名島の朱印が押されています。最初は、「日本の誰かから貰ったものだろう」くらいに思っていました。

アジ歴で「欧受大日記」を調べると大正8年(1919年)末現在で寄付された絵葉書の累計は8,330枚にもなっていました。
俘虜一人当たり1.8枚ほどです。

ところが差出人の経歴が判明してびっくり仰天。
彼はDas Fukuoka Lagerから収容換された74人の一人でした。

世界中どこでもオッサンは若い女の子が好きなんでしょう。
(たとえ俘虜の身の上であっても)
まさか記念に持っていたSchöne Fräulein [現在は使いません。Frauです] の写真が、100年後に好事家の手によって自己の収容歴を証明されることになるとは。

私にとっては正にビギナーズラック。
リーフには簡単にしか書き込んでいませんが、名島に行ったのは俘虜の半数ほどで、他は他所の公園に行っています。

全てが理解できて、次に気になったのが(本当は最初に気になったのですが…)この生意気そうな小娘美しいお嬢さんのこと。

いろいろとネットで調べると、やはり蛇の道はナントカで、歴とした玄人 ― 新橋の半玉で濱勇という姐さんと判明しました。

これはこれで立派なコレクターズアイテムだそうで、かの有名な新橋の照葉姐さんやもっと若い音丸ちゃんなどと並んで、アメリカにも幾人かのファンを持つ人のようです。

さすがにアメリカまで行くと、ちゃんと名前を呼んで貰えず、Hamaryu / Hawayu みたいな変な呼び方に変わってマシタ。
Her name is not Hamaryu nor Hawayu = How are you. Her correct name is Hamayu, which is the name of flower "Crinum asiaticum". ですぞ。

これら芸妓さんの絵葉書は今の芸能人・アイドルのブロマイドと同じ役割を果たしていたらしく、芸能週刊誌に代ってさまざまなゴシップ本も近デジで見ることができます。

彼女らの社会的地位も芸能人並み ― とはいえ青鞜社に代表される「当時の」女性地位向上運動家から見れば「醜業婦」…。

驚くのは、写真技術です。小川一真氏によって写真絵葉書("rppc"と略称されてます)の印刷用にコロタイプが普及したことと併せて、見事なライティング技術です。

詳細不明ですが、東京は芝区にShisui Naruse氏の営む萬集堂という写真店が有り、このような芸妓さんの写真を手がけていたとか。
他にも、Yoto Tsukamoto氏など優れた写真技師が鎬を削っていた ― 全部受け売りです。

彼女らの写真は好評を博し、当然のように海賊版が大正期まで出回りました。その一枚でしょう。

リーフを御覧ください。
発信者に敬意を表して下手なドイツ語も添えています。異国情緒が出て良いナと…。






































【自己評】 これはこれで自分としては満足してます。

2014年7月27日日曜日

縦書為替印‐郵便電信取扱所  ― 温泉と中宮祠と ― 補遺

二日に亘って中宮祠郵便電信取扱所と温泉郵便電信取扱所とについて色々と書きましたが、やはり私は慌て者のようです。

投稿し終わった後で色々なことに気づくのはあまり褒めたことではありませんが、ほったらかしよりはマシと御勘弁ください。

こんなものを見つけました。
例によって遞信公報令達類篇の抜粋です。






































ちゃんと公達が有りました。
公務員は、こういうことにはクソまじめです。
ともに明治35年分の上巻です。

温泉は明治35521日から、中宮祠は明治35616日から郵便物の逓送・集配事務を行う旨の御触書きです。

たぶん、間違いなくこの日から郵便物に消印を押したのでしょう。
いや、厳密に言えばもっと早い時期からかもしれません。

また、逓送集配は行っても切手に消印を押した証拠にはならないという考え方もできるかもしれません。

でも普通に考えれば、ここに掲げた日からということでいいのではないでしょうか。

また、後知恵で判ったことが有れば投稿します。

2014年7月26日土曜日

縦書為替印‐郵便電信取扱所  ― 温泉と中宮祠と ― その2

昨日御覧いただいた温泉と中宮祠の使用済み。
おさらいですが、
① 温泉の使用済みの日付(明治36518日/明治36830日)は、郵便電信取扱所で書留等にのみ消印を押印することとなった明治3748日以前。
② 中宮祠の普通便カバーは明治37810日付けですが、書留ではありません。

いずれも為替や貯金とは直接関係有りませんが、便宜上この投稿シリーズに入れておきます。

本論に入る前に、温泉の同日付の2枚の菊はこんなロットでした。
誰も気づかなかったのか、最低値で落札でした。
お雇いのドイツ人で温泉を訪れた人…誰なんでしょう。




























さて、これらの消印やカバーが現存する理由についてです。
上記の「郵便電信取扱所で書留等にのみ消印を押印する」は、次のような公達です。

これだけを読むと普通便に消印は押されません。
念のため、ここで引用されている「郵便取扱規程」第32條~第36條です。
 
この「郵便取扱規程」以外に、「郵便受取所郵便取扱規程」というのが日を接して発出されています。 
先の「郵便取扱規程」が明治3397日、「郵便受取所郵便取扱規程」が明治33918日の発出です。
 
「郵便受取所郵便取扱規程」で郵便電信取扱所にも同じ規程を適用するとしておきながら、明治374月になって、「それはやんぺ」と言ったのです。
 
では、「郵便受取所郵便取扱規程」発出以前に何が適用されていたか。
中宮祠郵便電信取扱所が設置されたときの公達です。
 
十年以上昔の規程を持ちだしました。でも問題は有りません。同じ郵便及電信局官制下での定めです。
 
念のため、その第2條です。

そして、温泉郵便電信取扱所が設置されたときに先ほどの公達は「中宮祠」の三文字が削除されました。(=全郵便電信取扱所に適用)
 
確かにこの「郵便支局及電信支局規程」には「郵便物受付ノ事」と書かれ、実際に支局では日付印が押印されていました。
 
しかし、郵便受取所でも同じ文言の定めが有ります。(明治26721日)

同じ「受付」でありながら、どう違うのか。
実は突き詰めていません。
 
消印を押すかどうかは、大きな問題ではなかったのでしょうか。
ここで引用されている明治19年の公達というのは、地方遞信官官制の時代です。
そこでは、支局と受取所が並んで「郵便物受付ノ事」と定められていました。

支局業務の規定が先に改正され、郵便受取所業務の規定は時間が経ってから改正されました。
 
新設の中宮祠に対して、同じ文言「郵便物受付ノ事」があるのに郵便受取所の規定ではなく支局業務の規定を引用したのは、郵便支局と同じ仕事をさせたのではなかったのでしょうか。
 
もちろん、「それは郵便電信取扱所が支局格だったからそうしたまでのこと。」
という反論も成立すると思いますが…。
 
でも、支局と同じ仕事と考えれば昨日のマテリアルも全て説明ができそうです。
ただ、明治3748日以前に書留にも押印していたかどうかは不明です。
 
多分していなかった― 根拠のない推測です。
 
では、なぜ最初に掲げたような公達を出さざるを得なかったのか。
これも推測です。
 
明治34年から37年にかけて東京市内で相次いで4箇所の郵便電信取扱所が開設されています。
全て丸二型日付印を使用していますが、本池悟さんの研究では、書留押印の事例しか見つかっていないとのことです。(明治37年度末までの郵便電信取扱所時代は、です。)
 
つまり、温泉・中宮祠では普通便に押印をしていた。
これに対し、発足の理由も由来も温泉・中宮祠とは全く異なる東京市内の4箇所にあっては、「郵便受取所郵便取扱規程」を墨守していた。
 
混乱が生じたので、最初に掲げた明治3747日の公達が発出された。
言い換えれば、最初に掲げた公達は新たなシステムを拵えたという性質のものではなく、混乱している現状を整理するためのものであった。
 
― と考えるのが、一番しっくりくるのではなかろうか…という仮説です。
 
1983年に、この問題についての論争がありました。
そのなかで、温泉では明治3551日から郵便物逓送、集配事務、会計事務の取扱を開始したとの記録がある旨、発表がなされています。
 
古い資料ですので若い方のために再掲しておきます。
 
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その前に耳寄りな話を…
 
このブログでお示ししたコルヴィザールカバーは、全てDelcampeで売り立てのあったものです。
出品者は全てYvonnic_92というフランスの方。
十点ほどにもなったでしょうか。
五月雨式に出品されました。
そのうちの1点が日本の方によって落札され、ヤフオクで先日転売されました。
 
はい、封蝋ではなく「男爵/古る宇゛ゐざ留」と書かれた朱印の押されたあのカバーです。
 
 私は、ここに御覧に入れた二通のカバーのほかは麻布局の丸二型が押されたものを入手できただけです。
 
ほかは、ほとんどフランスの方が持って行かれたと記憶しています。或いは未出品のものが在庫として眠っているかも…。
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当時の「フィラテリスト」誌と「郵趣」誌とにまたがっての熱心な議論です。
やはり切手オタクはかくあって然るべきと思っています。
冷やかしではなく、真のフィラテリストたるお二人に改めて深い敬意を表します。
 
議論は郵趣界きっての論客・研究家お二人によるものです。
 
私も当時は何のことか分からずにいたのですが、縦書に興味を持つようになってやっと理解できました。
 
「フィラテリスト」誌19837月号です。
 
 
「フィラテリスト」誌198310月号です。
 
「郵趣」誌19844月号です。
 
こんなに熱心な議論が交わされることは、同じ国の切手を集める者として大変に誇りに思っています。
 

 【おことわり】 これらの論文については、著作者の了解を得ることなく雑誌ページのスキャンを掲載しています。画像掲載が不都合である旨の御連絡をいただきましたら適切に対処します。

 
次回以降は、新たにリーフを作る必要が有ります。
 
したがって、今までのように手持ちのリーフをホイチョイというわけにはいきませんので間隔をあけて投稿します。
 



2014年7月25日金曜日

縦書為替印‐郵便電信取扱所  ― 温泉と中宮祠と ― その1

投稿に数日間のブランクをとりました。
今日御覧いただくマテリアルは、何日もかけて知識の整理を十分にしておかないと混乱を招くだけだからです。

「縦書為替印‐郵便電信取扱所」という投稿タイトルではありますが、温泉と中宮祠という余りにも有名なこの二つの取扱所の為替印はまったく持っていません。

何十万円という相場もさることながら、相場形成の機会もありません。
故田辺猛さんの言葉を借りれば、「押し込み強盗でもしないと手に入らない」品物です。

そのかわり、丸一郵便印を入手しています。
温泉は2年前、中宮祠のカバーは今年の4月でした。
いえ、書留便でも郵便局時期の日付印でもありません。

話を始める前にまず、マテリアル自体を御覧いただきたいと思います。







































肥前 温泉/36. 8. 30/便号不明

もうひとつ(一組)あります。








肥前 温泉/36. 5. 18/ロ便

5月の消印のものは、同じロットに含まれていたものです。
(来歴は後ほど紹介します。)
おそらくは、外国宛絵葉書に貼られていたものでしょう。

中宮祠はコルヴィザールカバーです。
ただ、切手3枚が脱落し(というより剥がされ)別の切手が後貼りされた姿でした。


何とも情けない姿ですが、まごうことなきコルヴィザールの金釘流。
横濵消しの2枚が後貼り。65厘分の切手―おそらく3枚―が脱落しています。
引受の日付は、明治37810日ロ便。

この日付は、郵便電信取扱所では書留に限り引受の日付印を押印するという公達が発せられたあとです。

後貼りを剥がしました。こんな具合です。




















裏の封蝋(La cire à cacheter)と着印です。


オーストリアハンガリー二重帝国の紋章みたいに盾が二つ並んでいます。
封蝋を正位置にもどすと、


























右が天使、左が鷲。そこまでは同じですが、二重帝国の紋章との違いは王冠がひとつ。しかも国王のそれではなく、貴族の冠です。
フランスの制式では、男爵はこんな立派な冠はつけないことになっていたようです。
男爵が冠に真珠を付けるのはドイツやオーストリアの風習だったらしいです。

Capitaine de Lepinière(ルパニエールの代官とでも訳せばよいのでしょうか?フランス語は全く駄目です。いや、英語もドイツ語も中国語も…。)の夫人に宛てた手紙がフォンテーヌブローに転送されています。

色々と調べていると、Wikipediaにコルヴィザールの解説を見つけました。

英語版はこちら。http://en.wikipedia.org/wiki/Charles_Pierre_Corvisart
フランス語版はこちら。http://fr.wikipedia.org/wiki/Charles_Corvisart

先の温泉の単片3枚もリーフに整理しました。

























































こちらは、ルールどおりの書留カバーに押印したものを併せて貼り込んでいます。
宛先は、先ほどの夫人の旦那さんです。

ここまで御覧いただいて、本日は失礼します。
これらに対しての考えを次回に投稿します。

2014年7月22日火曜日

縦書為替印‐郵便電信受取所

昨日は、祝日という理由を考えついて投稿をサボりました。
大したコレクションでもないのに、全リーフを公開するとなると結構気づかれします。

多少宿題は残しているものの、いよいよゴールが近づいてきました。
宿題(=郵便電信局の大型と小郵電の同名局と)は、残すと気苦労になります。
でも、まだできてません…。

今日は郵便電信受取所のリーフです。
こんなブログでも「見てやろうか」というような方なら既に御存知のとおり、明治343月に、従来の郵便受取所・電信受取所制度に代えて郵便電信受取所・郵便受取所・電信受取所の3種の受取所制度ができました。

おかげで、現代の消印収集家が苦労することとなりました。
逓信省年報から作った統計です。
























少ないはずです。
為替取扱所よりマシという程度の数です。
明治20年代に月型を使用した郵便受取所の数より少ない。

ここまで書くと、リーフに貼られた消印の数が少ない言い訳とお気づきかと思います。
そのとおりです。とても少ないです。

しかし、偶々こんなものを手に入れました。







































教科書によれば、全ての縦書為替印を通じて最も遅い(新しい)日付は、明治3835日。
肥前の田助港郵便電信受取所だそうです。

明治3832日。末っ子より3日だけ年上です。
福岡は博多大濵町郵便電信受取所。$15でした。

国名入りは全然入手できてません。

リーフ下部は、臨時郵便電信受取所。
大阪で開催された「第五回内國勸業博覽會」正門外に設置されたとのことです。
調べましたが場所は不明です。
ただ停車場すぐ近くの通用門のようなところに、内國通運の営業所ができています。
もしかするとその場所かもしれません。

ちなみに博覧会支局は正門の中、入って左手に設置されています。

リーフは書き込みすぎです。
近デジで資料を見つけたうれしさで、関係の全文を入れてしまいました。
農商務省の報告書は下の2行だけで事足ります。

それより、下の統計表の方が面白いです。
貯金䑓紙はあまり売れなかったようです。

為替の5,300弱という口数は支局・受取所合わせての数です。
支局は丸二型の下部空欄。時刻入りしか入手できていません。

それでもリーフに貼った菊1/2銭は、まぎれもなく278口の貯金䑓紙のうちの1枚です。

リーフです。
























































【自己評】 郵便電信受取所は地道にたくさん集めることが一番大事です。もっとがんばりましょう。

2014年7月19日土曜日

縦書為替印‐郵便受取所 月型その4

ウクライナの情勢がとんでもない方向に向かって行っています。
それでもポロシェンコ大統領は、ブチぎれることなく冷静な対応を心掛けているようです。

もちろん、まともに戦争して勝ち目がないとの判断もあるのでしょうが、最悪の状態を避けるために右に左に巧妙に舵を取る立派な政治家だと思います。

政治というものはかく有りたいものです。
深い思慮なく戦争をしたがるのは、全世界に責任を持つべき政治とは無縁の外交下手です。

あと10日ほどで第一次世界大戦開始100周年を迎えますが、私たちの集めている切手は二つの大戦の戦火を巧妙にかいくぐって今の世に残ってくれたものです。

後世につなぐ為にも、おろそかにすべきものではありません。
それでも、私も何枚もの貴重な切手やエンタを紙くず同然にしてしまっています。

汚れているからオキシドールの希釈液で洗ってやろうとか、オンペーパーを剥がしてやろうとか、不器用にやると疵をつけるに決まっています。

先日も、麴町十一丁目爲替取扱所の赤二を水剥がししようとして失敗しました。
13紙であることに気がつかなかったのです。
基本は守りましょう。

というわけで、今日は郵便受取所の月型シリーズ最終回です。

ずいぶん前に作ったリーフそのままです。
切手はできるだけ移動させない方が安全です。

言いかえれば進歩の無いリーフです。

II KC ―特殊型です。
所名に市名が冠称されていないけれど消印には市名が入っているというものは、そんなに多くはないと思います。

青森にまだ市制が施行されていない明治29年から使い始めたものなのか、それとも最初は「陸奥/郵便受取所/奥野」が使われて、青森への編入が決まった(又は決まりかけた)ところで新調したのか不明です。

これも、先達の方々の御教示を仰ぎたく思っています。

下段は、山田宇治型と言われる変則消し。
きれいな物が無いのにとやかく言うのも生意気ですが、或いは「山田」というのは管轄局名というよりは、その地の代名詞的なものではなかったか ― とか色々と思いを巡らして一人で楽しんでいます。





















【自己評】 市名冠称の所名でもいいから、こだわらずにもっと沢山並べないとさみしいですね。

2014年7月18日金曜日

縦書為替印‐郵便受取所 月型その3  蛎殻町(蠣殼町)か蛎売町(蠣売町)か

今日御覧いただくリーフは、一風変わっております。
縦書為替印収集家の間では「蠣売町郵便受取所」として知られる、あの消印です。

赤二を御覧いただくと、確かにそう書かれております。
 











































































 
 しかし、下の菊3銭の方は「売」の足部が「ル股」ではなく「几」です。

地元の方ならお気づきと思いますが「蠣売町」という町名は存在しません。
またかつて「カキウリチョウ」と呼ばれた経過もありません。

答えを先に申し上げます。
「売」という字(現常用漢字や前の当用漢字の)ではなく、
「壳」です。

諸橋先生の大漢和辭典に出ています。


















JISの字体より一画多くなっていますが、当然辞書の方が正しい字です。
「殻」(旧字体は「殼」)の偏だけを取り出した略字です。

そして「売」は、「壳」の俗字体として使われていました。

逓信公報令達類篇は逓信省の内部だけで編纂されました。
これに対し、法令全書は司法省が各省に睨みを利かせながら編纂したものです。

当然、良い加減な告示は全てチェックされます。
したがって、類篇と全書とで字体の異なるものがまま見受けられます。

蠣殼町郵便受取所は、明治2721日に日本橋區の東京堀留町郵便受取所から移転、改称されました。
併せて、為替の取扱も開始されました。

その時の告示の比較です。















































左から、類篇の移転改称告示、全書の移転改称告示、類篇の為替開始告示、全書の為替開始告示です。

大きさが異なるので御覧いただきづらいのですが、御勘弁ください。
法令全書はきちんと正字体「殼」で書かれています。

この略字体、「壳」は当然明治に始まったわけではなく慶應以前から使われていました。
リーフ下部に示したような赤繪もそうですし、商家の屋号の印判もそうです。

証券印紙は、これが欲しいためにわざわざ大枚€4.00もはたいて買ったものです。
ごく適当に「天井向いて」付けた値段でしょうが、売ったイタリアのGiapoz49kさんとおっしゃる切手商さんもびっくりしやはったと思います。

お金を払って買った以上、印判が気になります。
リーフに示したような形に復元してみました。

蠣殼町にあった茗荷屋というと、足袋屋さんでしょうか。
調べると五色おこしを拵えていた「茗荷屋」さんも江戸期にはあったようですが黒門町でした。
それに屋印が抱き茗荷だったようですので、この印判はそのお菓子屋さんではないようです。

足袋の茗荷屋さんだとすると、この「山形に叶」を屋印に使っておいでだったのでしょうか。
事情を御存じのお店関係の方がおられましたら、是非お教えください。

廣重三代の赤繪の方は、わずか3年ほどの期間に「蠣壳丁」「蛎(虫売)町」「蠣壳甼」「蠣壳街」と気まぐれな表記です。
さすが、盗作・流用・作り絵の世界です。

   ― と頑張ってリーフを飾ってみましたが、郵便史カテゴリーの郵趣とはだいぶかけ離れてしまったようです。

理想を言えば、
① 明治27年から明治29の為替印を加える。
② 明治35年から明治37の為替印を加える。(もちろん郵便電信受取所も)
③ 明治37年以降の(蠣殼町と表示のある)書留番号票を並べる。
④ 赤繪は削り、発着住所に「蠣壳丁」等と表示された小さなエンタを貼る。
が正しいと思います。

とても手に入るものではありません。

そして、カテゴリーにこだわらず、明治の空気の片鱗を伝えるこんなリーフ作りも「アリ」ではないかと一人で悦に入っております。

最後に、「その後どうなった」という話です。

「壳」という字が使われた菊20銭、左辺に深いシザーの入ったものを最新データとして並べましたが、その後(画像データだけですが)さらに新しいものを見つけました。








 


そしてこれを最後に以降は「蠣(蛎)殼町」となったと思いきや、関東大震災で復活しました。
 


御存じの臨時電話所消しですがこれも画像データだけです。
 
長々と書きましたが、リーフを御覧ください。
 
【自己評】 切手展に出したら、格好のクレーム対象でしょうな。

2014年7月17日木曜日

縦書為替印‐郵便受取所 月型その2

日を追うごとに暑くなってきます。
九州南部は昨日梅雨明けしたとか。今日は祇園祭(先祭)の山鉾巡行です。

鉾建てが始まるころから三条四条界隈の商店は急に強欲になります。
普段ならだれも手を出さないような値段で物を売り始めます。
先日も悪口三昧、好きなことを書いたのでええかげにしときますが、祇園祭のド最中は喫茶店にもはいらはらへん方がよろしおす。

昨日に続いての郵便受取所月型シリーズですが、もう例の一斉改称まできてしまいました。
明治3111月の改称です。

全国の郵便受取所(540箇所=明治30年度末数)のうち247受取所を改称しています。
浅見さんの本では、改称は259箇所となっています。
私の数え方が悪いのでしょうか、いまだによくわかりません。

これに先立つ明治3011月にも大坂市内25箇所の郵便受取所名に「大阪」を冠しています。

既にリーフに貼ってしまった受取所の名称変化を除くと、手元には改称事例の揃ったものが残りません。

ですのでブランクが目立ちます。

神田佐久間町は、年数字が傾いています。
これも以前に紹介しました金澤郵電局の照復文に述べられていた、「紙を挟んで」云々の類でしょうか。
私の頭の中では、結城郵便電信局の年数字逆立ちと並んで「ケッタイな消印」の双璧です。

神戸の北長狹通はこんなところに貼るものではありません。
為替取扱所のリーフです。

まあ、御本尊が入手できませんのでお許しを。
お隣の北長狹七丁目は改称されませんでしたが、面白いので並べて貼っておきました。

一斉改称後は、いろいろおもしろいバリエーションが見られます。最終的には1,270箇所を超える受取所ができていますので、毛色の変わったものが頻出して当然でしょう。

バランス型には、これも悔しい思いい出があります。
「備後宇/津戸村 郵便受取所」です。









(オークション画像より切出し)


201210月にeBayで落としたのですが、その直後ハリケーンサンディがアメリカ東部を襲い、ワシントン郊外にあった出品者の店も被害を受けたようでした。

eBay主催者も関係落札者全員に「商品の到着が遅れると思われるが待ってほしい」旨のメールを送ったくらいですので、さもあらんとておとなしく待っていました。

しかし遂に商品は到着せず、こちらから「いつ発送したか」との照会を送ってもナシのつぶて…。
真相は闇の中で終わってしまいました。
商品をちゃんとスキャンせずにシャメで間に合わそうかという横着な店です。
bygonemementos01と名乗ったRevathi Aravindというヤツでした。

横須賀大瀧町はルーペでなら「町」の字がかすかに見えます。

リーフです。





【自己評】 最上段はこのリーフのミソですので、早く改善しましょう。

2014年7月16日水曜日

縦書為替印‐郵便受取所 月型その1

郵便受取所で使用された縦書為替印の歴史を辿ってやろうという着想は面白いのですが、そのリーフを埋めるだけのコレクションができていません。

とりわけ月型の初期使用は、大変にプアなものです。
手持ちの最初期使用が明治298月。月型といえど郵便受取所となるといかに難しいかを実感させられます。

ですから推測だけでリーフの書き込みをしてしまった部分があります。
一番怪しいのが、新潟本町。
明治2812月に「本町」から「新潟本町」に改称ですが、これで本当に新しい印顆を作るでしょうか。
年型にも「新潟/郵便受取所/本町」と彫られていたはずです。

そして月型は何という形式名で呼べばよいのでしょう。月II C バランスでしょうか。いや、田中式命名法にいちゃもんをつけるつもりではありません。

命名法は単純で分かりやすい方が優れています。問題はその使い方です。
私のリーフの中でも不統一になっています。

上記の場合でも、月II C とだけ呼べばよいと思います。単純明快な命名法に、理屈をこねくり回してわざわざ「バランス型」としたり「市名無し」とする必要はないのかなと思っています。

それはさて置き、改めてリーフを眺めると「よく集めたものよ」の感も湧いてはきますが為替を扱う受取所が百数十もある時期ですから、集まって当たり前との思いも…。

リーフです。











【自己評】 肝心の初期使用に力を入れてもっと頑張りましょう。

2014年7月15日火曜日

縦書為替印‐郵便受取所 年型その3

リーフ構成を思い切り理屈っぽく組み替えたのは良いのですが、やはり後が続きません。
年型を持つ郵便受取所のうち、為替取扱所ではなかった14箇所から厳選して偶々手元にあるものを並べたててみました。

上段の立売堀(「イタチボリ」と読みます)は書き込みと現物が相違しています。
間違えたのではなく、実は現物を部屋の中で紛失しました。
そのうち出てくると思います。

こういうことがよくあります。
私の整理の悪さに起因するものです。
入手した切手はすぐにリーフを作って入れてやりましょう。

もうひとつ紛失の原因になるものが有ります。
この縦書為替印は何度も何度もリーフを貼り替えてています。

それはコレクションの進歩として良いのですが、マウントを二度使い三度使いします。
接着力が弱くなってリーフから自然に剥がれ落ちることが複数回ありました。

卑近な話で恐縮です。

それにしても、戸部町の表記のイレギュラーぶり ―
Wikipediaによれば旧戸部町の一部が市に編入されずに残ったとか…。
よくわかりません。
野毛町郵便受取所は月型しかありませんが、きちんと「横濵/野毛町」と表示されています。

事情を御存じの方、お教えください。

リーフです。








【自己評】 これも客観的に見て、赤点。(今に見ておれ)

2014年7月14日月曜日

縦書為替印‐郵便受取所 年型その2

今日からは、為替取扱所を名乗っていなかった郵便受取所の縦書印です。
昨日書きました新規営業の14箇所(明治272月に為替取扱を開始した受取所)ですが、これも簡単そうでなかなかの難関が潜んでいそうです。

まず、東京は市ヶ谷田町です。
年型の日付が明治3111月の一斉改称を過ぎています。区名入り月型との間に、区名なしの月型は無かったと考えてもよさそうです。

しかし後日御覧いただくような例外もあります。油断はできません。

これは考えてわかる話ではないので、放っておくことにします。 ― 少なくともどなたか親切な先達の方が教えてくださるまでは。

小為替受領証は、後期の印影。
新しい月型では、一旦「牛込市谷田町」と「ヶ」を抜いて詰め込んでみたものの、クレームでも出たのか苦労して「ヶ」を入れています。

受領証に透しが入っているのは初めて知りました。
しかも、随分達者な草書体で―
そして、とてもおしゃれに千鳥に入れています。

同じ字でも少しづつ違って見えるのは、全て手書きしたのでしょうか。

どなたか、この透しを上手にスキャンする方法をお教えいただければ大変に嬉しいです。


【自己評】 この一箇所だけを見れば、まずまずの出来上がり。あとが悪いので70点。

2014年7月12日土曜日

縦書為替印‐郵便受取所 年型その1

為替取扱所が無くなり、郵便受取所で為替事務を取り扱いうようになった過程はドラマチックです。
(少なくとも私にとっては…)

明治268月から為替事務を扱った郵便受取所は全国で51箇所だけでした。
これは、為替取扱所の数そのままです。名称もそのままです。

新たに為替を取り扱い始めた郵便受取所が出現するのは、明治272月になってからです。
それでも14箇所だけです。

たまたまこの時に配布された郵便受取所印が、年型の最終交付となります。
(新規に為替を取り扱った郵便受取所に対する交付としては、です。)

ですから、年型を持つ郵便受取所は全国で65箇所だけということになります。
逓信省年報では明治26年度末の為替取扱受取所数を64箇所としています。
どこか廃止された受取所でもあったのかどうか追跡していません。
また気が向けば、そのうちやります…。エエかげんなこって、えらいスンマヘン。

その次に新規開業する受取所が現れるのは明治275月(熊本 迎大工町)、
そしてその次は明治281月です。(前橋桑町 移転改称)

最初は随分遅いペースです。

明治27年度末で全国に535箇所郵便受取所が有りました。うち、為替取扱は65箇所です。
明治28年度末は全国523箇所の郵便受取所中、為替取扱は66箇所。
明治29年度末は全国535箇所の郵便受取所中、為替取扱は146箇所。
明治30年度末は全国540箇所の郵便受取所中、為替取扱は173箇所。
明治31年度末は全国571箇所の郵便受取所中、為替取扱は236箇所。

爆発的に増加しています。

このことを知って、リーフ構成を全部変えました。
細かいタイプ違いや「村」付きを集めて満足していたのですが、この歴史の流れに沿って集めるのが理屈に合うと思いました。

為替取扱所のコレクションは一箇所ごとの変遷(取扱所⇒受取所年/月型⇒郵電受取所)を追いかけていましたので、ずれが生じます。
抽象的にいえば、歴史を縦に切るか横に切るかの違いです。

気にしません。少なくとも全部作り変えるまでは…。
見る側からすれば、迷惑千万・わかりにくいリーフ構成です。

またそのうち、何か新たな座標軸の下でリーフを再構成することになるのでしょう、きっと…。

ということを念頭に置いていただいて、リーフを御覧ください。
最近気がついたことですので、気にしていなかった年型の使用例がほとんど集まっていません。
それでも、新機軸に満足しています。完集してやろうという気力がでてきます。


【自己評】 御覧のとおりの穴だらけのリーフです。
今は自分ひとりだけが赤点(30点くらい)で満足しています。

2014年7月11日金曜日

縦書為替印‐地方の為替取扱所 その3 宇都宮大工町

今日で為替取扱所シリーズも終わりです。

棹尾を飾るのは宇都宮大工町。
II C バランス型と呼ばれる特殊型です。

告示を御覧いただきましたらお判りと思います。どこまでが市名でどこからが所名なのか判然としません。

当時は、所名について法律用語みたいに厳密に考えなかったと思います。
ですから出来上がった印顆も、どう見ても「市」を削ったようなバランスの悪さになっています。

或いは、発注時に「宇都宮市/大工町」としてしまって、検収時に削らせた ― のかも。
告示の書き方が、そのことを伺わせます。
(前橋市立川町と御比較あれ)

時代が下がって明治36年の郵便電信受取所のときは、さすがに厳密な(=わたし好みの)告示にしています。
「宇都宮市宇都宮大工町」 こうこなくちゃ!

郵便受取所も年II K1型は、市制施行前だったためちゃんとルールどおりの表示になっています。

ところが市制施行後は、また元に戻ってしまうという楽しさ…。

ヤフオクで小包送票を入手しました。
二重丸の朱の所印は、
真ん中に「宇都宮」 = 市(町)名です。
外側に「宇都宮大工町」 = 所名です。

この所印の性格については明治28年分の令達類篇に長野郵電局からの照会が有ります。
回答は、早い話が「勝手に拵えたもんやから知らんで。良きに計ろうといてな。」とのことです。

後ほど御覧ください。リーフです。






長野郵電局照復




































【自己評】 よく頑張りました。努力賞です。

2014年7月10日木曜日

縦書為替印‐地方の為替取扱所 その2

間もなく台風8号本体が近畿地方を通過することとなりますが、なぜか京都の南山城地方は静かです。

今日は三都以外の為替取扱所2回目。

台風と同じで、次第に勢力を弱めて、統一感が無くなってきます。

為替取扱所自身も満足な消し方のものが少なくなって、その後継の受取所も持っていたり持っていなかったり。

それでも、ブランクフィラーがあるだけマシという程度です。

金澤の片町は、取扱所の初めのリーフで、「本当に必要だったのか」みたいな悪口を書きましたが最後まで律儀に丁寧な押印を続けてくれています。
やっぱりヒマやったんでっしゃろか。

II K1という珍しい型式の肥後島原は、遅くまで使い続けたようですが月型の有無は知りません。
どなたか教えてください。

大阪木津大國町は入手の機会が有ったのか無かったのかも不明です。リーフ作りのときはデータを整理しますので判りますが、普段はどの受取所がどこの後継なのかほとんど忘れてしまっています。

リーフです。





【自己評】 これも、私としては何とか及第点を付けたいリーフです。ただ「可」以上にはなりません。

2014年7月9日水曜日

縦書為替印‐地方の為替取扱所 その1

明日は、近畿地方にも台風8号がやってきそうです。
沖縄の守りは立派でした。人的被害は今のところ負傷者数名で留まっているようです。

昨年の5月は、我が家の周囲が水だらけになりました。
木津川の水位が異常に上昇しました。
土地の古老に聞くと、市役所敷地も含むこの付近は蓮根畑だったとのことです。

自分の家の敷地だけは土盛りをしておいたのが役に立ちました。

さて、今日からは東京・京都・大坂以外の都市です。
「地方」などと書くと(私も「地方」住みです)失礼とは思いながら、他に適切な言葉が思い当たりません。

我慢して御覧願います。

まず、バランス型で有名は東四十物町。
為替取扱所だけが未集です。
先頃のブログで書きましたが、UPU1銭に半欠け印の入ったものを入手できるせっかくの機会を
逃してしまいました。

あれに3万円もの札を放り込んだんは誰や?―と思いながらあきらめてます。
多分私を遥かに凌駕するオタクでしょう。
また数年のうちに新たな機会も有ることでしょう。こっちには、郵便電信受取所が有るわい!

地図で調べると、今はもう地名としては西四十物町しか残っていませんでした。
東は「あいものちょう」、西は「あいもんちょう」と読むとの説ですが、地元ではそれぞれ両方の呼び方があるようです。

富山の地元の方が居られたら御教示いただければ幸いです。

岡山の東中島町や静岡の追手町は、富山・高知に比べると地味な感じがします。
やはり、意表を突く地名の方が消印収集家には人気があるのでしょう。

静岡馬場町には、国名/市名/局名が三段書になった丸一郵便印がありますが、受取所制度が無くなった後なので、貼るのを止めました。

岡山中島町は、リーフに貼った以外の表記は無いのでしょうか。
何があるか分からないから面白い…とも言えますが。

リーフです。


【自己評】 何とか赤点だけは免れて、65点というところでしょうか。

2014年7月8日火曜日

縦書為替印‐大坂市内の為替取扱所

昨日に続いて市内取扱所全揃いシリーズ―大坂の巻です。

大坂市内の為替取扱所は全部で6箇所。(移転・改称をダブルカウントしない場合です。)
うち、5箇所が制度発足当初からの設立です。

制度と書きましたが、郵便及電信局官制下ではそのような規定がないため、厳密には為替取扱所は「制度」ではないと言わざるを得ません。
単に「為替を取り扱っている所」という事実行為です。

大坂のリーフも、為替取扱所から始まって郵便受取所年型⇒郵便受取所月型ときれいに揃いそうなので、郵便電信局振分型と同様にマトリックス風に並べてみました。

ただ、瓦町と靭は月型を見たことがありません。

為替取扱所としての寿命は半年ほどしかなかった天神橋筋もあまりお目に掛かりません。
天滿市塲(郵便受取所/郵便電信受取所)の方がさらに少ないかも。

持っていない切手は、滅多に現れない少ないものということにします。

長堀は、堀江⇒阿彌陀池と二度改称します。
高校生のころ聞いた上方落語を今でも覚えています。

米朝師匠が若かりし頃 ―故小松左京さんとお二人でKBSラジオのディスクジョッキーなどやったはったころです― にやらはった演目「阿弥陀ヶ池」です。

和光寺の庵主さん、入ってきた強盗に「わが夫は過ぐる日露の戦いで…」と諭す場面、オチが「誰に唆された?」「阿弥陀が行けと言いました」。

故枝雀師匠がやらはったのも面白いですが、俗に阿弥陀ヶ池のお寺と言われていた和光寺、このネタができる十年ほど前から既に有名だったのでしょうか。

余計な話は止めて、リーフです。


【自己評】 これも、あと2枚は揃えないと表に出せないですな。50点。

2014年7月7日月曜日

縦書為替印‐京都市内の為替取扱所

今週は、梅雨の終いの曇り空が続くようです。週の後半には雨を満載した台風8号まで来てくれるとか。

雨が降るとワンコの散歩が面倒なのですが、この程度の心配なら天下泰平としなければいけないでしょう。
まだ暫くは戦争の心配はしなくても…。

さて、東京市内為替取扱所のリーフが無事に終わって、今日は京都市内です。

京都市内の為替取扱所は3か所だけです。
先日書きました丸太町(まるたまち)、六條そして四條繩手です。

丸太町は明治34年に寺町丸太町と改称。月II KC 型(厳密には月II K バランス型)の「山城京都/郵便受取所/寺町丸太町」を見たことがあります。

リーフではそのための指定席を空けていますが、欲しいときには無いものです。

六条為替取扱所は、もとは「卜味金佛町」という名の郵便分局だったそうです。
今の六条郵便局と同じ位置だったのかどうか。
その後卜味金佛町(ぼくみかなぶつちょう)から油小路魚棚(あぶらのこうじうおのたな)に改称していますので多分現在位置より西側と思われます。

そして、油小路を200メートルほど下がれば(=南に行くことを京都ではこう言います)老舗フジスタンプさんの本店です。

高校生の頃、毎月通いました。店主の渡辺さん、今は鬼籍に入ったはりますが私には怖い感じの人でした。

二、三年前に大阪のフジスタンプさんを訪ねましたが、息子さん(多分お兄さんの方)が当時のお父さんにそっくりでした。

これの月型は見たことがありません。どなたかお持ちであれば是非ヤフオクに御出品を。

最後の四條繩手(現祇園郵便局と同じ場所と思います)は、誠に結構な場所です。
局の南側を走る四条通。100メートルほど西へ行くと先斗町、東へ行くと北側が祇園東、南側が祇園甲部。

今のこの界隈の四条通は観光客相手のお店が軒を連ねてます。食べるもんも身の回り品もホンマにええもんは期待しやはらへん方がよろしおす。

 ― 以前に祇園町郵便電信取扱所がpostalhistorianさんのヤフオク出品からと書いたと思いますが、よく調べると違いました。(ゴメンナサイ)
eBayの出品物でした。古いリーフに菊の20銭が2枚重ねて貼ってあって見え隠れしている下の方の切手に祇園町の文字を発見。£3.45落札 ―

リーフです。


【自己評】 集め始めのころは、丸太町の三種揃いだけで感激していました。
今見ると勘どころがほぼ全滅。四條繩手の月型もこの世にあるのかどうか。まだまだ修行が…。

2014年7月5日土曜日

縦書為替印‐東京市内の為替取扱所(2)

さて今日は東京市内為替取扱所の2リーフ目です。
そして東京は今日で終いです。

1リーフ目の勢いで15箇所(所名ベースのカウント)ある東京市内の為替取扱所の消印変化
を全部展開すると2リーフでは収まりません。

完集できるほどの年季は入っていませんので2リーフ目で終いです。

また、十分な知識も有りません。神田淡路町郵便受取所に月型があるのかどうか。
どなたか御教示いただけると大変にうれしいのですが…。

そして、ことによると為替取扱所より郵便受取所の年型の方が少ないものもあるかもしれません。

浅いながらも経験からは、所によって為替取扱所・郵便受取所年型・郵便受取所月型のどれが少ないかまちまちかも ― という気がしてきました。

ということで、並べられるものは全部並べてこの程度です。竜頭蛇尾です。







【自己評】 リーフに貼ってある以外にも、郵便受取所の月型だけとか年型だけとか、手元に単体でばらばらと残っていますが売り払うわけにもゆかず、さりとてリーフに貼るには材料不足。
いかにとやせん、この思い。― と悩み続けています。
やはり為替取扱所は難しい…。


2014年7月4日金曜日

縦書為替印‐東京市内の為替取扱所(1)

昨日の投稿で御覧いただきましたとおり、東京市内の為替取扱件数は日本一です。

振出件数に比べて払渡件数が大きいことにお気づきいただけましたでしょうか。

東京監督区(東京と埼玉)は、とんでもない輸出超過=貿易黒字国でした。
忙しさを表すための統計ですので金額を書いていませんが、
明治22年度の為替振出金額は1,016,910
         為替払渡金額は3,131,233
です。
トリプルスコアです。

振り出された為替の主な送り主は関八州とその近傍の一次問屋、東京で換金された為替の送り主は全国(とりわけ上方)の二次、三次問屋と想像できます。

この明治23年度でこそ1,000余りの取扱局しかありませんでしたが、それでも銀行に比べればユニバーサルサービスとしてダントツでした。

手元に明治28年度の銀行の資料があります。(銀行総覧 明治28630日現在)

全国で950行 支店・営業所・出張所等の総数502店舗   計1,452店舗   です。
為替を取り扱かう郵便局所数は、同年度末で            2,495局所   です。

銀行は今でいう地方銀行が多く、本店一店舗だけの営業も少なからず ― との次第でした。
中には、この翌年合名会社茂木商店(=後の松坂屋)とともにその金融部門を独立させて設立された茂木銀行のような銀行もかなりあったと思われます。

「花の東京の為替取扱所」でした。

それでも局に比べて消長は激しく、移転や改称、閉鎖・再開を繰り返しています。
今のコンビニみたいなもんですな。

リーフです。
移転改称など、可能な限りその消長を記録し、併せて所名表示のタイプ違いを時代順に並べるようにしています。
 
【自己評】 縦書きを集め始めたころは教科書に載っている沢山の表示バリエーションを見て、「こんなにたくさん集められるのだろうか」と心細い思いでした。

一枚、また一枚と集まって行くうちに急に勢いづいてイッキに沢山入手できたリと山あり谷あり、
え~ィめんどくせェー まとめてやっちめェ ―!
あえてリーフにブランクを拵えることで、最難関にも挑戦してやろうという思いが湧いてきました。

郵便電信受取所が難しいのは先刻承知。やれるとこまでやってみようと思っています。

2014年7月3日木曜日

縦書為替印‐為替取扱所 概説

今日は、梅雨の終い近くの雨です。

昨日で支局もさらけ出し終わって、いよいよ為替取扱所・郵便受取所の部となります。

昨日までの感想ですが、心に悶々と抱えていたものがすっきりしました。
こんな未完のリーフでも、公開してみると何故か気が晴れます。

切手展でかしこまって一分の隙なくリーフを拵えて展示し、謹んで拝見してというルール以外の方法も 「ありじゃん」 - という感想です。

御覧いただく方(そんなに大勢様とは考えていませんが…)には雑なリーフ作りでやや御迷惑かもしれませんが、誤りや欠点は大いに突っ込んでいただいて私の今後の肥やしにしようとする試みですので、盛大にコメントをいただけますと大変にありがたいです。

さて、為替取扱所のことですが、こんなルール外の機関を拵えなければならないほどの焦眉の課題だったのか疑問でした。
逓信省年報には「局や支局だけでは処理しきれないので」為替取扱所の設置は名案だった―みたいなことが誇らしげに書かれています。

数字を見てみると、為替取扱所設置の前年度=明治22年度は東京監督区の44局・支局で732千件の為替の受払を扱ったとしています。


さて、1時間当たり何件扱ったのか計算してみました。
パソコンのハードコピーそのままの画像ですが、御覧ください。


明治22年度のカレンダーを拵えて局・支局の為替の毎日の営業時刻と時間数とを算出しています。

御存じのとおり、明治22919日に為替窓口の営業時刻が定められています。
その日以前については「夏季営業時間」の定めはあったようですが、詳細不明です。
少なくとも営業の実態については、公達と同じであると仮定して計算しました。

答えは、1,715時間です。
すると東京監督区内の局・支局の平均は、1時間当たり9.7件となります。
全国平均は、1時間当たり2.2件です。

これは平均ですので、これより忙しい支局も暇な支局もあったはずです。
忙しい支局は、10分当たり複数人の来客 ― 「行列のできる」為替窓口だったと想像できます。
時間外営業も相当あったはずです。

しかし、金沢の片町でも本当に必要だったのでしょうか。
後日御覧いただく片町の消印は磨滅していません。丁寧に扱うだけの余裕時間があったのではと思いたくなります。
私が現役のときに「中央(=政府)は東京しか見ていない」という声を先輩から聞かされたことがあります。

東京市内支局の毎日の悲鳴を聞いて迅速に対策をとったのはとても良いこととは思いますが、地方都市も同じと考えたのでしょうか。

こういう新たな仕事を計画するときは、普通各監督区の一等郵便電信局に通知を出して、為替取扱所設置の候補を内申させます。
「お前の内申どおりしてやったから、責任は取れよ」みたいな決め方です。

いわゆるボトムアップではありますが、地方によっては、
「せっかく言ってきたのだから、特に必要とは思わんが中央の機嫌を損なわんように一つ二つは内申しておくか」
的な捉え方をするところもあります。(平成の今でもあります ― 地方なんてそんなもんです)

まあ、必ずしもこんな風ではなかったかも知れません。
また、ことほど左様に常に悪意に解する必要もないと思います。
しかし、ときにはこのようなこともあり得たし、あったはずと考えた方がよく理解できるのが中央の木端役人の考える「政策」というものです。

今日は、愚痴だけでご勘弁ください。
明日から、東京市内の為替取扱所を御覧いただきます。


こんなシチメンドクセェ難しい話はともかく、15日が「新年宴会」という祝日になっているのは、とてもとても気に入りました。

祝日序でに、再来年から設置される「山の日」 ― 私の誕生日祝いで二日酔いになった時のために設けていただいたのでしょうか。

毎日が祝日と日曜ですよって、お気づかい御無用でっせ。

2014年7月2日水曜日

縦書為替印‐長﨑市内の支局

支局シリーズも今日が最終です。

長﨑の支局も一つだけです。本博多(町)。
明治343月に郵便電信支局になるまでは「本博多町」、郵便電信支局以降は「本博多」を称したようです。

明治28年に出現する「肥前長崎/郵便電信支局/本博多町」と書かれた郵便支局の印は未集です。(欲しくて欲しくてたまらないのですが…)

明治291月に、一旦支局から郵便受取所に降格されます。
受取所といえど何度も印顆を更新したようで、手元には半欠けを含めて3種あります。
出現の順序はこれで正しいのでしょうか。

名古屋の赤塚支局と熊本の坪井支局も完敗。
くやしいので、せめて支局に昇格する前の為替取扱所や郵便受取所だけでも ― と思っても、これもままならず。

リーフです。


【自己評】 喜寿を迎えるまで、あと5年以上あります。
それまでに何とか全支局完集したいものです。できればそのタイプ違いも…。