今日はまたこの方のエンタです。
Wikipediaから拝借しました。Charles Pierre René Victor Scipion Corvisart さん。
リーフに貼ったのは、横浜から中宮祠にいる家族に宛てた何の変哲もない絵葉書ですが、この日付は、彼=観戦武官が同道すべき第一軍がクロパトキンを遼陽から潰走させた日です。
騎兵中佐としては、見ておかなければいけなかった戦闘のはずです。
彼がこの大事な時に仕事をほっぽり出して何をしていたのか気になりましたので、この絵葉書の日付前後 ―明治37年中ごろの足跡を既知のカバーのデータで辿ってみました。
結果をリーフ最下段に書き込んでいます。
当時のフランス貴族の風習に従ってヴァカンスです。
この年の7月中旬ころから9月初めまで家族と一緒に中宮祠に滞在していたのです。
フランスからの観戦武官は彼を含めて5人で、彼はサブリーダーの立場です。あとの4人がどうしていたのかは判りません。
なお御本人の名誉のために申し上げますが、男爵はこのあと単身で第一軍に戻られたようです。
(現地から発した12月付の軍事郵便が残っています。)
首都大学東京の高田先生が「中禅寺湖畔別荘地の形成過程と近代日本における外国人建築家と施主の関係性に関する研究」という論文をネットで公開しておられます。
それによると、中禅寺湖畔の夏季はさながら赤坂辺りの各国の公使館全部が引っ越してきたような賑わい。
外交官同士の駆け引きなんかもあったのかも知れません。
その論文から引用して拵えたのがリーフにも刷り込んだ地図です。
明治37年も同じだったとは限りませんが、こんな別荘を独・白・伊・英など各国がそれぞれいくつも持っていたとのことです。
図中の「レーキサイドホテル」は欧米諸国の方々御用達…。
コルヴィザール一家の宿泊先までは判明しませんでしたが、この翌年も中宮祠でヴァカンスを楽しんでいたようです。
ただ、面白いデータではありますがこれを主役にするわけにはいきません。
着印は脇役、横濵局の消印が主役です。
そう自戒しながらもやはりリーフに書き込まずにはいられないので、遠慮して下の方に小さく並べて置きました。
【自己評価】横濵局の時刻「后3 .40」は37年では既知。丸二研究から言えば特に新鮮味はありません。
こんな書き込みをすると、丸二のリーフではなくなってしまうことも承知の上の確信犯。
コルヴィザール研究の域も越えてストーキングまがい ―恐縮の至りですが、私の性格なので仕方ありません。
反省しながら、次回は横濵の支局を見ていただく予定です。
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