今朝の新聞に原節子さんが9月にお亡くなりになっていたとの記事が1面トップで出ていました。
日赤75年記念のモデルでは ―とのうわさが今でも聞かれます。
日本切手ナンバーワンの美人だけに、私もいろいろ調べたことがあります。何かの機会にどこかで公開したいと思いながら温めています。
とまれ、御冥福をお祈り申し上げます。
さて、神戸支局(市内局)の続きですが、三宮のリーフづくりは見事にスベッてしまいました。
何分にも手元のマテリアルが少なく、並べただけのアキュムレーションリーフになっています。
年別に1枚づつ、それから午前の時刻データが少ないようなので手に入ったものを並べてみよう…
殆ど思想性の感じられない駄作です。
さて、もうひとつは難関です。
和田岬檢疫所 ―年表を拵えて初めて、「戦後」の局であることを実感しました。
近デジの「明治三十七八年戦役検疫誌」で見ると、和田岬檢疫所は検疫人数が14万8千人弱。
これに対して大里檢疫所は40万2千人、似島檢疫所が66万3千人。
大きな役割は果たしていないように見えますが、将兵の帰還がピークに達する明治38年11月から翌年2月までの4箇月で見ると、似島299千人、大里152千人、和田岬135千人(いずれも検疫人数ベース)と頑張っています。
遅れて設置された和田岬司令部内郵便局についてですが、第10師團は空港で言えばさしずめ管制塔の役割を果たしていたのでしょう。
それにしても、両郵便局は300メートルほどしか離れていません。しかも両局とも2等局です。
告示では両局ともに郵便・電報の配達はしないとのことですが、時刻入りもどこかにはあるのでしょうか。
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さてここで、恒例になってしまった「お詫び」です。
大阪の丸二で「大阪停車塲内」について、「日本郵便印ハンドブック」の悪口を書いてしまいました。
「丸一印が使用された」との記述に対して、根拠が不明である旨のクレームを付けたのですが、有りました。
http://www.geocities.jp/m_nari/maruichi/maruichi/v-nichiro.html
私もほぼ毎日お世話になっている「明治の全郵便局所沿革(CD-ROM)」の作者成田さんのサイトです。
したがって、大阪停車塲内局の丸二は存在しないことになります。
日露戦争臨時局で丸二を使用したのは和田岬檢疫所内局だけで、他の局は丸一⇒櫛型のパターンということになります。
(お詫びついでに、リーフ下部の年表で宇品碇泊塲局の櫛型は1月1日からの使用開始ではなく明治39年2月中です。他の局も1月1日付けの印影は確認していません。)
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なお、和田岬にあった両局の消印は「Stampedia Philatelic Journal 2012」で完影を見ることができます。
(今年、ジャパンでも兄弟カバーが売り立てられましたが負けました。)
【自己評】和田岬司令部内の印影は半欠けでもラッキーな入手。Delcampeも最近は日本からのバイヤーさんが少しづつ増えてきて、「草刈り場」ではなくなってきていますが、何十枚かの使用済みロットの中にこんなものを見つけるのは、セミプロのディーラーさんでは難しいでしょう。
まあ、逆に誰でもわかるような貴重マテリアルは手を出しにくくなってきています。仕方ありません。日本切手が高値になることが多ければ、出品も多くなるでしょうし将来の楽しみが増えます。
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