前回御覧いただいた「大阪局の印軸の大きさの違い」を示すエンタが、たまたま手元にありました。
7.6分環と8分環と双方ともに当時流行した絵封筒です。並べてみました。
マルコフィリーをストイックに且つ厳密に追及するのであれば、本日のリーフは無用の長物であることは承知しています。
しかし私のような移り気の道草好きは、さようなストイシズムから見放された「縁なき衆生」。
もとより生粋の消印研究を否定するものではなく、むしろ憧れます。
トップクラスの郵趣家の方々がその道に没頭なさることを尊敬しますし、そういった発見と蓄積とが無ければ郵便史は暗黒のままです。
さらに、消印を展示すべきリーフに余計なものを差し挟むことは「何を言いたいのか」全く分からなくなってしまう危険性をも生むこととなります。
もちろん、テーマティクとして、「丸二型と日露戦争」といったようなカテゴリーで作品を作るなら別ですが、それはそれでマテリアルが不足しています。
結果として、とても中途半端で訴える力の弱いリーフ展開になることを承知の上で、個人的な興味のみを満たすリーフに甘んじています。
それでも、消印展示のリーフに、その時代の風俗やら何やらの片鱗を覗かせるのも悪くはない ― と手前勝手な解釈をしている次第です。
左のエンタは絵封筒と言いながら文字のみで、篆刻風に「帝國慈惠」「女學院」と書かれています。
調べると「不測ノ惨害二會ヒタル無辜ノ女兒」の教育・授産施設だったそうです。
ただ民間からの寄付のみで運営していたがためにすぐに頓挫して解散しました。
その後始末に現地で頑張っておられた良家の御内儀から旦那さんあてに出した手紙です。
多少不躾ながら冒頭だけを御覧いただきます。
やや薄墨ながら綺麗な良い筆跡(て)です。
でも、以前に東京局の年賀状についても書きましたが「新玉の年を」となっています。
このころにはこの表現が普通だったのでしょうか。
年末年始に旦那をほったらかして大阪に長逗留できるのは、女中さんがようけいてはるお家です。
宛先の武庫郡鳴尾村は、周辺の村々が反対する中、この手紙の年の2年後に阪神電鉄の誘致に成功します。
阪神電車も駅駅に郵便ポストを設けて逓送にも電車が一役買ったとか。
もう一通の方は、国会議員さんあてです。
由緒ある姓ながら大きな業績はあまり聞きません(失礼)。
中央交渉部という会派に属しておられたとか…。
むしろ絵封筒の方に興味が湧きます。
外側の薄紙を剥がしてスキャンしてみました。
日通マークはお馴染みながら、左側の二つの車型を調べましたが判らずじまい。
どうも内国通運愛用のEEマーク
の図案化のようです。
【自己評】本文に書きましたように、いつもながらの道草好きは我ながら悩ましい限りです。
それでも楽しいものは楽しい ― と開き直ってマルコフィリーでもなくテーマティクでもない中途半端なリーフ作りを続けています。
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