2019年7月12日金曜日

靑島俘虜郵便繪端書 - 習志野收容所                              Ansichtskarten der Kriegsgefangenenpost Tsingtau

東京を引き継いだ習志野です。






































表が縦方向に長いのはスペイン風邪の犠牲者が多いことも一因です。






































5年弱の収容期間、1,000人規模の収容施設にしては変化の乏しい郵便物ばかりです。






































収容初期の郵便です。淺草で使っていたゴム印一式を持っての引っ越しでした。もちろん職員も引っ越しです。

所管の衛戍は変わりますが、収容業務終了後は職員は原所属隊に復帰します。
習志野は俘虜解放後、大正9年4月1日にようやく残務処理を終え閉鎖します。
その時の職員の復帰一覧がアジ歴に残っています。








































解放業務は多忙を極め、たくさんの応援部隊が必要だったようです。
後期の郵便に見られる検閲者印「岩崎」はこの表の中尉さんです。







































大日本麥酒の絵葉書を見つけて、俘虜の労役先かと思いながら買った葉書ですが、この時期は習志野では所外通勤はなかったようです。

残念!と思いながら読んでみると、宛先はドイツ軍の部隊名。しかも住所の記載は一切ありません。
記録好きのお国柄 -早速調べるとすぐに見つかりました。

ただこの大隊、1914年に作戦行動で移動しますが名宛人が留守部隊なのか出征部隊なのか、いや留守部隊があったのかどうかも判りません。

米軍のAPO同様ドイツ軍もFeldpostnummerを持っているはずですが、記入がありません。
どうやって届いたのかさえ不思議です。

通信文は「お手紙ありがとう」みたいな内容ですので、名宛人は日本に手紙を差出すときに書いていなかったのでしょう。

宛名の敬称「Musketier」は公式の兵科や階級ではなく、"Privat" 同様二等兵ほどの意味合いのようです。
Muskete という旧式銃(日本でいえば三八式の前、村田銃みたいなもの)に由来しています。

逓送経路の推定は、すっきりまとまりました。
(内容に乏しい書き込みなのでスッキリ…)
リーフをプリントアウトしてから確認したら、喜望峰経由の欧州線所要日数は68日でした。






































大正7年11月の休戦条約成立以降はいずこの収容所ものどかな雰囲気になっているようで、ルンプさん宛の年賀状です。

差出人が何者なのかちょっと梃子摺りました。なんと土管屋さん。雅邦と並び称される川端玉章の絵をお持ちだったようです。

そうなれば、稚拙ながらのびのびした雰囲気の年賀状の作者もきっと美術関係者。
確証はありませんが若き板倉鼎さんのようです。






































掉尾は大正8年製と思われる俘虜製葉書。
葉書表面の「郵便はかき」「SDPDG」は名古屋製のものと同じです。

実はこの葉書、似島でも見つかっています。






































強烈な印象のある葉書なので、どこかのネットオークションの画像だけを失敬して保存しておいたものです。

シラーの詩はドイツの教科書にたくさん掲載されているとのことですが、論語を理解している俘虜は多くいないと思います。

あるいはルンプさんが助言したのかもしれません。原画も尤もらしく作られており、中国や日本の絵画に通じて達者な絵を描ける人も多くはいなかったはずです。

【自己評価】
やはり習志野は、ルンプさんの稲毛海岸葉書がないと締まりません。人気があって値が張るのでドン引きしてしまいます。


靑島俘虜郵便繪端書 - 東京收容所                              Ansichtskarten der Kriegsgefangenenpost Tsingtau

東京收容所と習志野です。いつも通りリーフをご覧いただきます。
(リーフはクリックで拡大します。原寸は横1,200ピクセルです。)








































陸路のコースを図示することができました。Dr.佐藤吉宗という方のブログの御蔭です。

ストックホルムではなくMalmöを通過するコースにしているのは、大正4年9月に俘虜郵便のための支局が設置されたからではありません。

むしろ逆だろうと考えています。北欧3か国の首脳が集まって大戦中立を決したのもこの町です。
交通の要衝だったのでしょう。

瑞典からバルト海を経ずにロシアに通じる唯一の陸路がカルンギという町にたどり着く1本の線路だったとのことです。

その陸路を経て、ペトログラードでさんざん検閲され600キロ離れたモスクワへ。そこからさらに2週間かけてウラジオストック→敦賀という長旅です。

大正3年在ロシアの本野大使からのレポートでは「ストックホルム=ペトログラード間は1日1便、3~4日所要」とのことです。

ぺトログラード=モスクワ間600キロというのは丁度東京神戸間ほどですから20~24時間とみてよいでしょう。

また「浦潮斯德  附西比利亞鐵道案内」(大正4年6月刊)にはウラジオ=モスクワ間は郵便車で14日間との記述があります。







































収容人数は記録によって2~3人の出入りがありますが、実人数ではなく在籍主義を採るとこの表が正しいようです。

廣島衛戍病院から退院の際に収容地を大阪に変更された俘虜については、決裁文書に「俘虜本人との約束だから大阪に行かせる」との付箋まで残っています。








































収容4日目ですが、早くも簡単な挨拶文だけ。兄弟さんか従兄弟さんに宛てた第2信です。
Rüfer - Rungasは検閲者をDEWAとし、「旧版ではHANYUと書いた」と注釈を入れています。
多分、入れ知恵をした日本人をあまり信用していなかったのでしょう。
大正4年5月の職員録です。






















この時期、先任の尉官を「高級」、下っ端の方を「次級」と呼んでいました。郵便担当は次級尉官の仕事です。







































当時の海運をいろいろ調べているうちに H.A.P.A.G. (漢米郵船會社)というのに行き当たりました。
「漢」は漢堡土=ハンブルグです。

どんな経路で入手した絵葉書なのか判りませんが船会社のノベルティーグッズです。
ちょっとうれしくなって貼ってみました。

リーフを拵えた理由付けを後で考えましたが、日本発信で交換局印の押されたものは少なく、その理由をあれこれ推測して書き込むことにしました。







































このリーフが東京収容所の花形です。
葉書の発信地と郵便局で書き込まれた経由地とを地図で調べて、びっくりでした。

丁抹に近いクックスハーフェンから一旦南に下がってスイス国境近くのカールスルーエへ。
一旦ジュネーブまで行って再度北上、オランダは多分ロッテルダム港でしょう。

アジ歴にアメリカ大使の寄こしたメモが残っています。



































原寸は小さく読みづらいので1.5倍に拡大しています。(かえって見難い?)
「via Switserland and via Holland through America only.」

この文書の存在は知っていましたが、本当にエンタで証明できるとは…。

葉書の日付は、まだシベリア鉄道ルートが使われていた時期です。
このころからロシアによる郵便の抑留が始まっていたのでしょう。

日本郵船もベルギーのアントワープ港までの命令航路を持っていました。
しかし西部戦線の構築とともにドイツの管理下に置かれたので、ロンドン以遠には行けません。

そこでジュネーブの中央俘虜委員会はアントワープ港隣接のロッテルダム発北米経由を選択したものと思われます。

リーフに書いた通り、とても短い日数で日本到着しています。

さすればそのルートや如何に。

想像を逞しくすれば、カールスルーエの駅舎にジュネーブの出先事務所があって、中央情報局発の郵袋に詰め替えるという便法を使っていた -そこまで親切だったかどうか。

さて、ロッテルダムを出港した船はイギリス船籍と断言できそうです。
軍需物資運搬でどこの国も船腹に余裕はありません。

さらに、尾上一雄さんとおっしゃる方の論文がネットに上がっていましたので、活用させていただきました。

イギリスは欧米間の郵便を執拗に検閲していたとのことです。

前述の論文のもとになった「History of the American People, Vol. II」の該当ページです。






























通俗史本も趣味・道楽になら役に立ちます。

赤色の大きな©は後に青色の「丸にP.C.」印に変わりますが、検閲所番号らしきものが入っていません。

おそらく移動検閲所 ―となれば船内検閲所しかありません。
画像データだけですが同じ検閲印の押印されたエンタがあります。



















淺草局の引受印が無く交換局の東京中央欧櫛もやや不鮮ながら、「9.3.15」と判読できます。

この日付ですと日本郵船で横濱からロンドンへ、その後英国船籍の船でオランダに渡ったのかもしれません。

リーフに貼り付けたものは、28日間という驚異的なスピードで到達しています。
こんな芸当ができるのは、カナダの大陸横断鉄道とそれに都合よく連絡する大西洋ライナーを持った Canadian Pacific Railway Co. くらいです。
しかも当時からその快速は有名でした。

アメリカ西海岸から先は同社の船もありましたが、開戦以来2週1便のところが半減。逓信省のデータでは9月以降毎月1便、11月は欠航という状況です。

素直に日本郵船か大阪商船のシアトル・タコマ線で横濱までと考えた方かよいでしょう。

逓送ルートの解明は、日本発出より到着郵便の方が多くのデータを得られます。
しかしなかなか入手できません。
時間をかけるのは郵趣家の得意とするところですので。待たざるを得ないです。

【自己評価】
かなり郵便史コレクションらしくなってきたと思っていますが、余計な書き込みをどれだけ残してどれを削るか ―まだ迷いがあります。

道楽の世界なので好きなようにリーフを拵えればよいのですが、人に訴える力を考えると…。