2019年11月5日火曜日

JAPEX出展反省記 ―感想戦(1)

生まれて初めてJAPEXに出展しました。
結果は残念賞(の中の最高位=大銀賞)。
審査評を読むと、一番気にしていたことをズバリと衝いてくれていました。

衝かれたのは二点です;
〇「郵便史に絵葉書であるかどうかは関係ありません」
〇「現物無しのリーフ・1枚だけのリーフはマイナスです」

もともとの出発点が、靑島俘虜郵便の絵葉書ばかり集めてたのしんでやろうというナマクラ。
途中で方向転換して、せめてマルコフィリーらしくと「俘虜郵便印/SDPDG印」の分類から初めて、逓送経路に興味を持ち、これなら出展の価値が…

勢い付いたはよかったのですが、実際にコレクションを整理し直すと出展締切に何とか間に合わせただけの情けなさ。

帰ってきた出展リーフをスキャンしながら改めて眺めると、審査評の的確なることむべなるかな。

全体に論文風の構成になってしまってせっかくのエンタが挿絵扱い。

しかも、絵葉書と差出/受取の獨墺兵俘虜の特定やら興味を引きそうな文面の紹介やら何やらを1リーフに全て詰め込もうとしたのは、何を言いたいのかわからなくなること必定です。

以前に有馬で、金井コレクション龍百文1枚貼りエンタで地名無し檢査済篆書楷書を並べたものを見たことがあります。

封の大きさ、切手の位置まで揃えて並べた見事なものでした。
当然説明は要りません。

確かにエンタは二つ並べると比較対照ができて、不要の長文説明が略せます。
しかも、今回恥を晒した重ね貼りではなく、きちんと2通の位置を揃えないと効果が下がります。

それでも大銀の評価をしてくれたのは、多少はリーフに真摯な部分もあったのでしょう。

「郵趣」誌には出展者の名前一行だけの紹介でクヤシイから、このブログで興味深い点だけでも派手に宣伝しておきます。

タイトルリーフです。




































(クリックで拡大します 原図は400dpi / W=1600picのjpeg)

これは自分では出来は悪くないと思っていますが、もう少しシンプルにしてスペースを広げた方が見やすいなとの後知恵。

続いて、開戦当初から1916(大正5)年初めまで使用されたシベリアルートです。
凡そ郵便は「最速達の原則」で逓送ルートが決められるため、日欧間逓送で当時最も速かった早かったシベリア鉄道が第一選択となるのは至極当然のことです。

ただ交戦国同士は郵便交換に強い制限を受け、ハーグ条約に定めた俘虜郵便等だけが辛うじて逓送されます。
しかも直接の交換はできず、非参戦国を経由してです。






































シベリアルートの経由する非参戦国はスウェーデンです。フィンランドはロシアの属国でした。







































ところが、シベリア鉄道便に対するロシアの検閲と滞留が酷くなり始め、ドイツは1915年初め頃からこのルートを諦めます。






































この情報は当時まだ参戦していなかった在日アメリカ大使から齎させます。
したがって、シベリア経由で大正5年初め頃の日本到着便は少ないはずですが展示できませんでした。

代わって登場するのが大西洋経由便。経由する非参戦国はスイスとオランダです。






































スイスは国際俘虜情報局の所在地。ここで俘虜郵便のお墨付きを受けてから大西洋に向けて開いた港へ。

平時ならベルギーのアントワープですが、ドイツのシュリーフェン・プラン実行でドイツの管理下に。

大西洋航路の船(殆ど全部が英国船)は寄港できないため、お隣のロッテルダムから出航します。

当時から迅速を以って鳴るカナディアン・パシフィック・レイルウエイ社(イギリスの輸送会社)なら展示葉書のような早業をやってのけます。

大西洋航路の船とカナダを横断する鉄道は同一会社のため連絡が良く、北米西岸からは週1便、日本郵船と大阪商船とが待ち受けています。

当時イギリスも含めて、各国の船舶はほとんど軍需物資の輸送に徴用され、太平洋航路にまでは手が廻りませんでした。






































イギリスはアメリカからも非難を浴びた郵便検閲を実施しています。
Cの丸囲みは消去法ですが、船内検閲印。後にP.C.の丸囲みに変わります。

陸上の固定検閲機関ならリーフに示したような番号入り検閲印(実物は靑野原の項で展示)を使ったはずです。







































この頃のイギリスの郵便検閲はこのリーフに示した通りです。
普通は臨検で済ますのですが、船舶ごとイギリスの港に引致して郵便物を収去する強引さ。
オランダの抗議も聞き入れず検閲を続けます。

ドイツは郵便の検閲対象となっただけでなく、生活必需品の禁輸措置まで受けます。イギリスの政策の強引さはトランプ大統領の比ではありません。

ドイツの対抗策はUボートによる無制限潜水艦作戦。有無を言わさず連合国側の船舶を撃沈します。

この作戦が終焉を迎えるのは1917年末です。
地中海もようやく魚雷攻撃の心配なく航行できます。(=スエズ運河が使用できる)

これで定期航路を復活させたのがメッセジェリー・マリタイム社。小判収集家にはおなじみの「MALSEILLE A YOKOHAMA」入り船内八角印の会社です。







































展示のエンタは、アルザス・ロレーヌ陥落後の差出し。連合国同士の郵便交換ですので中立国を経由する必要はありません。

検閲印は「国家警察隊開封」と書かれています。葉書も開封しています。
余談ながらこの警察隊、実は税関職員で編成されています。

検閲する側も軍役免除のはずの公務員です。いやいやだったのでしょう。面倒そうに切手を乱暴にはぎ取っています。

後日見ていただく丸龜收容所のものと比べるとわかりますが、ドイツは自国発便とあって、丁寧に切手を剥がしとり検閲済印を押しています。

あるいは、ドイツ憎しの感極まって乱暴に剥がしたのでしょうか。半世紀の間ドイツ領でドイツ語を話していた地域です。フランスから見れば旧領奪還ではなく敵地占領です。

靑島における日本も同じですが、占領する側は常に住民抵抗を恐れ、過酷な軍政を敷かざるを得ません。

葉書の宛名もムッシュと書かれ、通信文面もシェールで始まっていますが、本文はちゃきちゃきのドイツ語です。

従面背腹とまでは言いませんが、住民は複雑な心境だったのでしょう。

純粋の郵便史はこの第I部までです。
以下は各収容所の俘虜郵便印バラエティーですが、逓送経路の追跡ができるところは随時書き込んでいます。

以下は次回に。














2019年7月12日金曜日

靑島俘虜郵便繪端書 - 習志野收容所                              Ansichtskarten der Kriegsgefangenenpost Tsingtau

東京を引き継いだ習志野です。






































表が縦方向に長いのはスペイン風邪の犠牲者が多いことも一因です。






































5年弱の収容期間、1,000人規模の収容施設にしては変化の乏しい郵便物ばかりです。






































収容初期の郵便です。淺草で使っていたゴム印一式を持っての引っ越しでした。もちろん職員も引っ越しです。

所管の衛戍は変わりますが、収容業務終了後は職員は原所属隊に復帰します。
習志野は俘虜解放後、大正9年4月1日にようやく残務処理を終え閉鎖します。
その時の職員の復帰一覧がアジ歴に残っています。








































解放業務は多忙を極め、たくさんの応援部隊が必要だったようです。
後期の郵便に見られる検閲者印「岩崎」はこの表の中尉さんです。







































大日本麥酒の絵葉書を見つけて、俘虜の労役先かと思いながら買った葉書ですが、この時期は習志野では所外通勤はなかったようです。

残念!と思いながら読んでみると、宛先はドイツ軍の部隊名。しかも住所の記載は一切ありません。
記録好きのお国柄 -早速調べるとすぐに見つかりました。

ただこの大隊、1914年に作戦行動で移動しますが名宛人が留守部隊なのか出征部隊なのか、いや留守部隊があったのかどうかも判りません。

米軍のAPO同様ドイツ軍もFeldpostnummerを持っているはずですが、記入がありません。
どうやって届いたのかさえ不思議です。

通信文は「お手紙ありがとう」みたいな内容ですので、名宛人は日本に手紙を差出すときに書いていなかったのでしょう。

宛名の敬称「Musketier」は公式の兵科や階級ではなく、"Privat" 同様二等兵ほどの意味合いのようです。
Muskete という旧式銃(日本でいえば三八式の前、村田銃みたいなもの)に由来しています。

逓送経路の推定は、すっきりまとまりました。
(内容に乏しい書き込みなのでスッキリ…)
リーフをプリントアウトしてから確認したら、喜望峰経由の欧州線所要日数は68日でした。






































大正7年11月の休戦条約成立以降はいずこの収容所ものどかな雰囲気になっているようで、ルンプさん宛の年賀状です。

差出人が何者なのかちょっと梃子摺りました。なんと土管屋さん。雅邦と並び称される川端玉章の絵をお持ちだったようです。

そうなれば、稚拙ながらのびのびした雰囲気の年賀状の作者もきっと美術関係者。
確証はありませんが若き板倉鼎さんのようです。






































掉尾は大正8年製と思われる俘虜製葉書。
葉書表面の「郵便はかき」「SDPDG」は名古屋製のものと同じです。

実はこの葉書、似島でも見つかっています。






































強烈な印象のある葉書なので、どこかのネットオークションの画像だけを失敬して保存しておいたものです。

シラーの詩はドイツの教科書にたくさん掲載されているとのことですが、論語を理解している俘虜は多くいないと思います。

あるいはルンプさんが助言したのかもしれません。原画も尤もらしく作られており、中国や日本の絵画に通じて達者な絵を描ける人も多くはいなかったはずです。

【自己評価】
やはり習志野は、ルンプさんの稲毛海岸葉書がないと締まりません。人気があって値が張るのでドン引きしてしまいます。


靑島俘虜郵便繪端書 - 東京收容所                              Ansichtskarten der Kriegsgefangenenpost Tsingtau

東京收容所と習志野です。いつも通りリーフをご覧いただきます。
(リーフはクリックで拡大します。原寸は横1,200ピクセルです。)








































陸路のコースを図示することができました。Dr.佐藤吉宗という方のブログの御蔭です。

ストックホルムではなくMalmöを通過するコースにしているのは、大正4年9月に俘虜郵便のための支局が設置されたからではありません。

むしろ逆だろうと考えています。北欧3か国の首脳が集まって大戦中立を決したのもこの町です。
交通の要衝だったのでしょう。

瑞典からバルト海を経ずにロシアに通じる唯一の陸路がカルンギという町にたどり着く1本の線路だったとのことです。

その陸路を経て、ペトログラードでさんざん検閲され600キロ離れたモスクワへ。そこからさらに2週間かけてウラジオストック→敦賀という長旅です。

大正3年在ロシアの本野大使からのレポートでは「ストックホルム=ペトログラード間は1日1便、3~4日所要」とのことです。

ぺトログラード=モスクワ間600キロというのは丁度東京神戸間ほどですから20~24時間とみてよいでしょう。

また「浦潮斯德  附西比利亞鐵道案内」(大正4年6月刊)にはウラジオ=モスクワ間は郵便車で14日間との記述があります。







































収容人数は記録によって2~3人の出入りがありますが、実人数ではなく在籍主義を採るとこの表が正しいようです。

廣島衛戍病院から退院の際に収容地を大阪に変更された俘虜については、決裁文書に「俘虜本人との約束だから大阪に行かせる」との付箋まで残っています。








































収容4日目ですが、早くも簡単な挨拶文だけ。兄弟さんか従兄弟さんに宛てた第2信です。
Rüfer - Rungasは検閲者をDEWAとし、「旧版ではHANYUと書いた」と注釈を入れています。
多分、入れ知恵をした日本人をあまり信用していなかったのでしょう。
大正4年5月の職員録です。






















この時期、先任の尉官を「高級」、下っ端の方を「次級」と呼んでいました。郵便担当は次級尉官の仕事です。







































当時の海運をいろいろ調べているうちに H.A.P.A.G. (漢米郵船會社)というのに行き当たりました。
「漢」は漢堡土=ハンブルグです。

どんな経路で入手した絵葉書なのか判りませんが船会社のノベルティーグッズです。
ちょっとうれしくなって貼ってみました。

リーフを拵えた理由付けを後で考えましたが、日本発信で交換局印の押されたものは少なく、その理由をあれこれ推測して書き込むことにしました。







































このリーフが東京収容所の花形です。
葉書の発信地と郵便局で書き込まれた経由地とを地図で調べて、びっくりでした。

丁抹に近いクックスハーフェンから一旦南に下がってスイス国境近くのカールスルーエへ。
一旦ジュネーブまで行って再度北上、オランダは多分ロッテルダム港でしょう。

アジ歴にアメリカ大使の寄こしたメモが残っています。



































原寸は小さく読みづらいので1.5倍に拡大しています。(かえって見難い?)
「via Switserland and via Holland through America only.」

この文書の存在は知っていましたが、本当にエンタで証明できるとは…。

葉書の日付は、まだシベリア鉄道ルートが使われていた時期です。
このころからロシアによる郵便の抑留が始まっていたのでしょう。

日本郵船もベルギーのアントワープ港までの命令航路を持っていました。
しかし西部戦線の構築とともにドイツの管理下に置かれたので、ロンドン以遠には行けません。

そこでジュネーブの中央俘虜委員会はアントワープ港隣接のロッテルダム発北米経由を選択したものと思われます。

リーフに書いた通り、とても短い日数で日本到着しています。

さすればそのルートや如何に。

想像を逞しくすれば、カールスルーエの駅舎にジュネーブの出先事務所があって、中央情報局発の郵袋に詰め替えるという便法を使っていた -そこまで親切だったかどうか。

さて、ロッテルダムを出港した船はイギリス船籍と断言できそうです。
軍需物資運搬でどこの国も船腹に余裕はありません。

さらに、尾上一雄さんとおっしゃる方の論文がネットに上がっていましたので、活用させていただきました。

イギリスは欧米間の郵便を執拗に検閲していたとのことです。

前述の論文のもとになった「History of the American People, Vol. II」の該当ページです。






























通俗史本も趣味・道楽になら役に立ちます。

赤色の大きな©は後に青色の「丸にP.C.」印に変わりますが、検閲所番号らしきものが入っていません。

おそらく移動検閲所 ―となれば船内検閲所しかありません。
画像データだけですが同じ検閲印の押印されたエンタがあります。



















淺草局の引受印が無く交換局の東京中央欧櫛もやや不鮮ながら、「9.3.15」と判読できます。

この日付ですと日本郵船で横濱からロンドンへ、その後英国船籍の船でオランダに渡ったのかもしれません。

リーフに貼り付けたものは、28日間という驚異的なスピードで到達しています。
こんな芸当ができるのは、カナダの大陸横断鉄道とそれに都合よく連絡する大西洋ライナーを持った Canadian Pacific Railway Co. くらいです。
しかも当時からその快速は有名でした。

アメリカ西海岸から先は同社の船もありましたが、開戦以来2週1便のところが半減。逓信省のデータでは9月以降毎月1便、11月は欠航という状況です。

素直に日本郵船か大阪商船のシアトル・タコマ線で横濱までと考えた方かよいでしょう。

逓送ルートの解明は、日本発出より到着郵便の方が多くのデータを得られます。
しかしなかなか入手できません。
時間をかけるのは郵趣家の得意とするところですので。待たざるを得ないです。

【自己評価】
かなり郵便史コレクションらしくなってきたと思っていますが、余計な書き込みをどれだけ残してどれを削るか ―まだ迷いがあります。

道楽の世界なので好きなようにリーフを拵えればよいのですが、人に訴える力を考えると…。



2019年3月11日月曜日

縦書為替印‐新発見 内地3局目のダルマ型

内地では3局目となるダルマ型の発見です。

(クリックで拡大します)




























































羽後(秋田)院内郵便電信局です。
後志の南尻別局、對馬の小茂田局以外にもまだ有るのかも知れません。

院内局は明治23年には為替事務を取扱い、明治30年に郵電改定されています。
したがって印顆更新です。

消印日付は 34.12.16 です。小茂田局と同様に34年中の、恐らく同一の印判業者による製作と考えるのが妥当でしょう。

局名部分の字体は、3局ともに水平/垂直な直線を多用していて角張った印象を受けます。

以前ダルマ型のリーフをご覧いただいたときに、
新設の南尻別・更新の小茂田ともに同一発注、同一業者の受注ではないかと書きました。

https://kitte-renshucho.blogspot.com/2014/06/blog-post_13.html


南尻別は明治34.2.1 開局ですので、多分明治33年末ころの出来事と思われます。
当該年度の予算について収支ともにほぼ見通せるのが年末ころ。

廳費に限りませんが、年度当初は手元の歳入現金自体が少なく、日露戦景気に沸く前は慎ましい予算執行であったと思われます。

恐らく、かなりの執行制限がかけられていたのではないでしょうか。
(史料がなく憶測です)

さて件の印判業者ですが、当時の逓信省の規則では、
郵便関係の消耗品については、見積額5円未満は3円以上の納税者でないと入札に参加できませんでした。

このようなスケールの発注区分であるならば、相当の数量を請け負ったと思われます。
あるいは、競争入札に付することなく、随意契約で少量を発注していたのか実態は全く不明です。

南尻別に関してだけでも、縦書以外に丸一や局印・局長印・爲替之章…
多種の印章製作が必要です。
さらに、同時開局の北海道11局も併せて発注されているはずです。
これに加えて、多種多局の更新印顆を抱き合わせて受注 ―となれば、多くの弟子を抱える大業者でしょうか。

想像することしかできませんが、楽しいものです。

以前にご覧いただいたリーフから、収集がほとんど進んでいません。(このクラスの稀少度なれば当然のことです。)

新たにリーフを作ることもできず、ただの臨時ニュースの投稿です。

臺灣の北斗だけでもご覧いただきます。






















































自己評
小茂田のダルマと院内の月IIK33年使用例が無いとリーフは作り直せません。
「生きてるうちに」さえ難しいところです。











2019年3月4日月曜日

靑島俘虜郵便繪端書 - 名古屋收容所                              Ansichtskarten der Kriegsgefangenenpost Tsingtau

今回は、失敗作です。
ですから気乗りせず、いやいや書いています。

沢山あった収容所は、最終的に6箇所に収斂します。
500人規模3箇所と1,000人規模3箇所です。

名古屋はそれらのうちの小規模収容所に属しますが、大規模収容所の大量生産風画一エンタでない手作りの面白さ=収集家しか喜ばないような小さなヴァリエーションがあります。

前回の福岡同様、俘虜郵便印/SDPDG印の変遷をテーマにリーフ展開したつもりだったのですが、全体を眺めてみると、その流れがさっぱりわからなくなってしまっています。

それぞれのリーフ自体はまずまずの出来と思っていたのですが…。
リーフづくりはできても、リーフ展開の技量は無かったということでしょう。

リーフにはもう一つテーマを放り込んでいます。
郵便史コレクションのマストアイテム=逓送ルートです。

大雑把に言うと、
① 1915(大正4)年末ころまで    シベリア鉄道輸送がメイン
                  南太平洋・インド洋でドイツ軍が
                  通商破壊
                  その後、対英海上封鎖で海運停滞

② 1916(大正5)年初めころから   ロシア政府の俘虜郵便検閲や
                  妨害回避のため、ドイツは海運を
                  選択

③ 1915(大正4)年10月ころから   U-Boot が地中海で通商破壊活動
                  このためスエズ運河経由の海運が
                  激減

※ したがって日本からの東回り航路がメインになります。
  しかしパナマ運河の崩落事故が続発、北米西岸⇒陸路⇒北米東岸⇒大西洋
  という航路がメインの選択肢でした。

  さらに軍需物資の輸送・各国軍による船舶徴傭で船腹不足が常態化し郵便逓送や民需
  は打撃を受けます。

※ なお、1918(大正7)年3月から俘虜郵便以外の全郵便物もシベリヤ経由は廃止に
 なります。

もとより開戦中のことですので、独⇔日の郵便物は全て中立国を経由するという迂回ルートまで強いられています。
(シベリア経由はスエーデン、大西洋経由はスイス)

これらのこと全てをリーフ展開の中で示すのは、マテリアルの良否もさることながら、全リーフにわたる統一表示が必要なのかと思います。

では、お目汚しの失敗作を。
クリックで拡大します。












































収容所の俘虜の出入りと所在は基本中の基本ですので、表づくり・地図作りは、私自身が理解して納得するために続けてゆこうと思っています。












































見物人との混乱回避のため、はるか南の熱田駅で降車させたようです。

さて、リーフに貼り付けた Firma Kunst&Albers 漢口支店の E. Hueschelrath さん宛のクリスマスカードには、第18号室に収容された11名の署名があります。

もちろん金品寄贈を期待しての挨拶カードと思いますが、署名の中ほど左側に
Fritz Krautwurst という署名があります。キャベツソーセージという姓は初めて見ました。
一等海兵さんです。


ようやく本題 ―まず、大谷派本願寺別院時代の3リーフです。












































































































俘虜郵便印・檢閲濟印ともに枠付きと枠無しとがあります。理由は分かりません。
日露戦でもこの別院が使われましたが、その時の印顆とも異なります。

新発見を一つ。
R-R本では (u) とされた検閲印が郵便担当ではない方の先任中尉長長成さんの印と判明しました。

大正4年5月の「職員錄」に載っています。


























続いて、バラック時代です。











































ペトログラードで検閲していたようです。
検閲印無しの郵便も残っていますので、抽出検閲と思われます。

それでも順番が回ってくるまで一箇月以上待たされます。
失礼ながらそのおかげで、バラック初期便になりました。










































































































































































さすがに収容期間が長くなると、このリーフのような恨み言も言いたくなります。
初期の「元気溌剌でここに到着」とエライ違いです。

最後は、解放の日の切手を貼った葉書です。












































リーフ下部に小さい神戸市内の地図を入れましたが、「KOBE」局と「KOBE2」局とが併存したかどうかは不明です。

欧文印ですので引受時刻は不明ですが、必ずしも俘虜引渡し後に差し出されたとは考えていません。

朝の6時に三宮に着いてお昼まで随分時間があります。まだ俘虜身分のままだからと郵便局に掛け合うこともなかったでしょう。

気前よく4銭切手を貼ったことと思います。

【自己評】
反省点は本文のとおりですが、諸事象の変化や流れを明示するためには、1リーフに葉書2枚を貼り付けるような方法も検討してみます。