2016年4月29日金曜日

青島俘虜郵便‐松山収容所                        Die Kriegsgefangenenpost Tsingtau                                 - Das Matsuyama (Yamagoe) Lager                                  Gef. -Nr.3175 Alexander Wunderlich

今日は、前回の板東の前身 松山収容所です。
最初に開設された久留米に次いで2番目に古い収容所で、日露戦争の俘虜達もお世話をした"由緒ある"収容所ではあります。

ロシア兵はドイツ兵より良い待遇を受けたそうで、松山では将校さん方は宴会・芸者を堪能されたとか…。

ただ、受入れ人数はドイツ兵の方がはるかに少なく、その分一人当たりスペースは人道的であったはずです。

一箇所に集められるほどの広い施設はありません。仕方なく日露戦のときと同様、三箇所に分散させます。

現城山公園南東角近くの「公會堂」、伊予鉄古町駅南の「大林寺」そして山越地区の五つのお寺。

管理も不便だったようで、開設当初は第22連隊に収容所本部が置かれていました。
その後、大正41月には本部を大林寺に移設、「公會堂」「山越」はそれぞれ「〇〇分置所」と呼ばれます。

アジ歴文書です(RefC03025316100)































脱走兵逮捕劇の報告ですが、「大林寺本部」、「公會堂分置所」と書かれています。
実は他の文書では、「北山越分置所」と書かれていたりして一定しません。まあ、判ればよかったのでしょう。

今日の絵葉書の発信者は、この山越地区収容の 2等軍曹さんです。

新婚さんです。(第一倦怠期といわれる"三年目"ですが…)
さすがに新婚、葉書本文には発信者が"Dein A."としゃれて書かれています。

葉書の写真は山越からの眺望。収容所北東側の丘から西を眺めて、現在久万の台公園になっている山らしきものが正面に見えます。

この時代の付近の地図がネットで拾えず、止むなくGoogleさんのお世話になりました。
山越の五つのお寺は今も健在です。































リーフに貼りつけた地図では、当時の交通の便が不明確です。かなり小さいながらネットでもうひとつ画像を拾っています。















当時の伊予鉄関係の地図ですが「木屋町」駅すぐ西側の南北に走る道を北に進むと五寺に行き当たります。

リーフにもう一枚図面を貼りましたが、俘虜の誰かが3収容所の平板測量をしています。
出色の出来で、山越は五寺南西角から北に延びる道(これが木屋町駅に続きます)と南側の東西に走る道との法線交差角が現状にぴったり一致しています。

軍隊のことですから正確な測量は当然ですが、几帳面な方です。

松山収容所発信便に必ずと言ってよいほど「本宮」印が押されていますが、これは収容所ナンバースリーの本宮中尉とおっしゃる方です。

悪者にされているナンバーツーの白石大尉とともに忙しい毎日を過ごしておられたようです。

リーフです。




































































【自己評】
だんだんとドイツの筆記体にも慣れてきましたが、さっぱり判らない部分はしょっちゅうです。この葉書の宛先市 "Iserlohn"の後に書かれた略号は何でしょう?
どなたかお教えいただけると大変にありがたいです。

2016年4月20日水曜日

青島俘虜郵便‐板東収容所                                Die Kriegsgefangenenpost Tsingtau - Das Bando Lager Gef. -Nr.4321 Josef Weber

久しぶりの俘虜郵便リーフです。
縦書やら丸二やら消印を集めている間もせっせと俘虜郵便(絵葉書)の材料を何十枚か揃えました。

今日はあの板東ラーゲリ ― この葉書以外にも何枚か入手しましたが、とりあえずは全体の整理をしたいので1収容所1リーフのペースで進めてゆきます。

板東については、既に随分深いところまで研究されていることを改めて知りました。
絵葉書を眺めると、それでも判らないことがいくつも出てきて調べ甲斐があります。

御覧いただくエンタの差出人は、Josef  Weber と判読できます。
(「Abs.の欄は「Jos. Weber」ですが通信文末尾に「Josef」と書かれています。)
ところが Schmitt さんの名簿によると、板東在籍の同名さんがお二人。

お一方は III.S.B、もうお一人はM.A.K. 判別できませんが葉書の表書きがヴェストファーレンのお嬢ちゃん宛、しかも随分親しそうな書き方なので、そちらの御出身 ― M.A.K.所属の方と判断しました。

そこまで決まれば、あとはネットで選り取り見取りのデータの山。
収容所内のTapautau 5番小屋大工さんをしておられた ―まで判りました。
(家具屋さんとの解釈もあります。)

タパオタオは、
























のことです。

中国語でもDa(1) pao(4) dao(3) [カッコ内は声調]ですから音を正確に写しています。
青島中心地の北部にある中国人商店街(多分、占領・街路づくり時に追いやられた場所)です。

板東では敷地の南西角に俘虜たちの商い小屋が建ち並びました。

さて、残るは絵葉書の裏(表?)。
富田町は歓楽街、秋田町は遊郭のあったところのようです。

小初さんという名前。この衣装では芸・娼の判別ができかねますが、児ポ法に触れそうな年齢のお嬢ちゃん。

J.Weberさんは知人(或いは姪っ子)の女の子に日本人形でも贈るかのように葉書を選んだのでしょう。

検閲者の「アラカワ」は丸亀から異動で来られた通訳の荒川充雄さんであることが判っています。

リーフです。


【自己評】
リーフ展示のパターンはほぼ安定し、エクセルの原稿作りに余計な時間を割く必要は無くなりましたが、今度は、どんなテーマをどのように伝えたいのか全く分からないリーフの集積になってしまいそうです。

この時代の空気の片鱗を伝えることは面白いと考えていますが、コレクション全体を眺めて何か一貫したものが無いと…。
やってみないと判らないので、とにかくひたすらリーフづくりに励んでみます。