2015年7月30日木曜日

明治末の芸妓絵葉書  ―新橋煉瓦地藤都の雛妓 濵勇(浜勇) その2  Hamayu, the geisha of Shinbashi

昨日に引き続いて濵勇の絵葉書です。

濵勇についてはその半生がほとんど知られていないようです。
萬龍や照葉、小奴、さかゑ、ぽん太といった有名どころは同時代史料(芸能雑誌風の)が豊富なようですが榮龍や濵勇となると…。

あと残っている収集済み絵葉書は、衣装でいえば、
〇 庇髪の黄八丈2着がそれぞれ2
〇 桃割(或いは島田)の黄八丈2着が計6
〇 澤瀉の中振が3
〇 立湧の小紋が5
〇 澤瀉の中振が3
〇 麻型の小紋が4
〇 絞の浴衣が4
〇 その他不明が4
です。
昨日はリーフ作りをさぼって画像だけに終始しましたので、私自身も違和感を覚えていました。

ついてはもう1リーフ作ってみました。





































































大正期のリプリントです。元の撮影者NS(ナルセ・シスイという方らしいです)のモノグラム・ロゴが判り易く消されているのが御愛嬌。
庇髪姿ではありますが、先に挙げた黄八丈着用のころより前と思われます。

しかし「大阪 濱勇」と書かれております。彼女は大正の初めころには東京を離れ関西に移籍したらしいのです。

神戸の絵葉書資料館には先の立湧小紋衣装の絵葉書に「神戸村や 愛子」の解説が付いています。
(ネットでの展示資料です。一度現地を訪れて根拠をお尋ねしたいと思っています。)

大阪では梅香/千代吉の名を使ったこともあるようです。
リーフを拵えた理由は、資料を見つけたからに外なりません。

近デジです。請求記号350-363「大阪独案内」97コマ目の抜粋をリーフに刷り込みました。

山下席という店で藝妓稼業に精出していました。この本には一本(=15分)当たりの値段まで紹介されていますが、新町では藝妓は娼妓の倍ほどの値です。

この資料のお陰で、少なくとも大正3年の前半ころには大阪新町で営業していたことが確定です。

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さらにリーフ作りに励みたいのですが、やはり表面の制作商店名の分析やら何やら、随分と手間がかかりそうなので、前回同様画像のみの一気出しとします。

【庇髪-黄八丈格子】
(収集済み)



































(未集)


























紬を黄八丈と特定した理由は特にありません。織上がりの端正さ、売れっ子になった彼女なら高額の紬にも手が届くようになったのでは ―という程度です。


【庇髪-黄八丈縞】
(収集済み)






































































(未集)



























【黄八丈細縞】
(収集済み)



































(この細縞はこの2枚しか見たことがありません。)


【澤瀉柄中振】
(収集済み)



































(未集)




























【立湧小紋】
(収集済み)






































































(未集)






















































【麻型小紋】
(収集済み)






































































右側の1枚は特に気に入っています。本気で落籍させたくなります。

(未集)





























【海辺風景-絞浴衣】
(収集済み)






































































濵勇シリーズの最初に御覧いただいた海岸風景‐絽の着物と同日の撮影と思われます。

(未集)





























【詳細不明の4枚】
(収集済み)






































































下段左は、実に珍しく歯を見せて微笑んでくれています。
ものの本では、この時代、ワンテイクに1分以上必要だったとのこと。笑顔が少ないのは納得です。


【以下すべて未集です】
(打掛)



























(秋草柄中振)




























(身支度‐襦袢姿)



























(詳細不明)




























でき得れば、襦袢姿のは入手したいものですナ。

これで濵勇レゾネ(素稿)はおしまいです。
前回も書きましたが、(未集)としたものは、ネットから無断で画像を借用しています。
問題があればお手数ながら御連絡ください。
すぐに対処いたします。
ただ、レゾネ作成という野望に免じて寛大な御処置をいただければ誠に幸いです。

また未見絵葉書や新しい情報を入手しましたら、リーフ姿で御覧いただきます。
こんなものもあるぞ ― という方がおいででしたら是非お知らせください。
抗議も情報提供もいずれも mich.yamada あてにお願いします。
            (※アットマーク以下は、グーグルのメールです。)
                                   
                 

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次回からは元に戻って、とりあえず丸二シリーズの大阪とその支局から再開です。

2015年7月29日水曜日

明治末の芸妓絵葉書  ―新橋煉瓦地藤都の雛妓 濵勇(浜勇)  Hamayu, the geisha of Shinbashi

過日、大阪切手まつり2015(マッチャマチの味覚糖UHA館 7/20海の日)に寄せていただきました。
これという収穫はありませんでした。
(当然ながら「掘り出しもの」はごろごろ見つかるものではありません。)

そのかわりに、絵葉書の方でちょっと面白いものを見つけました。
500円也。

早速リーフを拵えて貼ってみました。





































































木村梅次郎會長の下、「類鑑」刊行など当時の郵趣界をリードした郵樂會の発行。
畳紙や解説書はうれしいオマケ。東京市の記念行事の「紀念印」は印刷です。

葉書表の1/2線上に銘版があって、「合資會社日本美術寫眞印刷所」。
パッと見は宜しきながらもルーペで見ると、原色版は2、30年前の芸能誌並み。
それでもこの時代ならば上の部類。

不発行4種のレイアウトが気に入りました。

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絵葉書屋さんに立ち寄ったのは、実は密かに集めている「濵勇」という芸者さんの絵葉書が目的。

この時期、多くの芸妓が絵葉書モデルとして名を馳せましたが、このお嬢さんは一世紀を超えた現在なお、海外マニアまでをも魅了し続けています。

で、その絵葉書屋さんとのやりとりの中、日本絵葉書会の会報「ヱハカキ」最新号をいただいた上、濵勇の絵葉書についても情報なりを調べてみるとのお話までいただきました。

そういう次第ですので、今回の投稿は丸二型日付印シリーズを少し休んで、私の濵勇コレクションの整理旁々、ウォントリストを掲載します。

ただ「やっつけ仕事」ですので、水準の低い図鑑程度にお考えください。

さりとてこのブログのコンセプト「リーフをそのまま御覧いただく」を枉げるわけにもゆかず、自慢できるものを1リーフだけ掲載して、あとは絵葉書画像のみとします。

まずその自慢品です。





































































背景の書割も絽と思しき一重、半襟も全て同一です。
1枚は切手が剥がされていますが、表を見ますと贈り主(注文消しですので送り主ではありません)はともに Emile Clément とおっしゃるお方。
贈り先も同じ Alice Flageollet というお嬢さんです。

2013年と今年とに別々のところから入手しました。並べてみて私が一番びっくりしています。

何より興奮したのは、天津の消印の日付 ― 明治4312月です。
幾人かの熱心な先達の方々によって、濵勇の絵葉書は初発が明治43年であることが解明されています。

しかし惜しむらくは、海賊版です。
東京や横浜でこんなものを売ったら、すぐに足が付いてしまいます。
欧米人向けの土産品として長崎あたりなら十分に複製品の製造販売が推測できます。

以前に靑島俘虜郵便で御紹介した筑前名島の遊覧土産に使われたのも納得できます。
http://kitte-renshucho.blogspot.jp/2014/07/die-kriegsgefangenenpost-tsingtau-das.html

天津の消印があるのも大きな無理なく説明できます。乗船前は船内で購入したものでしょう、
きっと。

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さてリーフ展示の義理は果たしましたので、以下はただの写真集です。
サイズだけは揃えました。

彼女の様々な表情もよく見ると、ふっくらした丸顔と面やつれした姉顔とが見られます。
ふっくら顔がごく初期の撮影と思われますので、概ねその順に並べます。

まず、最初期と思われる店の他の芸妓さんとの写真からです。
帯の柄行きがよく判別できませんが雲形とも見えますので仮にそう呼んでおきます。
現在では考えられませんが、このころは振袖に紋を入れていたそうです。

京都の呉服屋さんは婚礼などで着る大振袖に対してそれ以外のものを中振袖―略して「中振(ちゅうぶり)」と呼んでいます。
ここではその語を使用します。

【胡蝶の中振・雲形の丸帯・揚羽の半襟】
(収集済み)





























(同一衣装で他のものは未見です)

【胡蝶の中振・華文の丸帯・揚羽の半襟】
※画像のタッチや化粧の感じ、半襟のずれ具合などから三度ほどの撮影と思いますが、衣装が同一ということで便宜的に一括します。
全て同一日の撮影とは考えていません。
(収集済み)












































































































































(以下は未集)




























































































































※ 未集の画像については、ネット上から拾い集めたものです。
   明らかに出典の判るものも含まれていますが、不都合があればお知らせください。
   速やかに対処します。
   併せて、でき得れば掲載を御勘弁いただかれんことをお願い申し上げます。

【ぼかし小紋】
(収集済み)



































まだ駆け出し故、とにかく種類を増やすことにしています。お見苦しい汚れ・疵は御容赦ください。
(同一衣装で他のものは未見です)

【白川女】
俗に誤って大原女と言われるコスプレ。大原女は薪を白川女は花を売ります。
(収集済み)





































(未集)




























【切取中振】
熨斗柄の総絵羽かと思いましたが、切取(パッチワーク状の柄)のようです。更紗だとやや年行きがしますので他の何かと思いますが不明です。
(収集済み)






































































(未集)



























【水仙中振】
(収集済み)






































































(未集)




















































柄行きがいかにも田舎向けみたいで粋さが感じられません。
撮影者も誰なんでしょう。他のシリーズと比べてセンスが感じ取れません。
ところで、丸帯は或いは最初に掲げた雲形と同じものかも。


【海辺風景】
この衣装はこの1枚のみで、他は見たことがありません。少し変顔になっています。
大正4年の消印。
(収集済み)





































【絣柄小紋】
(収集済み)









































(未集)



























次回に続きます。

2015年7月22日水曜日

丸二型日付印 ‐ 日本橋駿河町郵便電信取扱所/郵便局と麴町櫻田門外郵便電信取扱所/郵便局と

前回に続いて面倒、厄介、苦境の2局(所)です。
今回はミステリーまで加わって立ち往生しています。

丸二を集め始めたころはこのあたりの局(所)は、時刻空欄でも台切手はどうでも、とにかく1枚入手できれば満足していたものです。

しかし、それだけではやはり物足りなくなります。とは言え売り物も少なく、年季だけが物を言う世界かと思わざるを得ません。

丸二だけでも穴だらけの上に、後継印の櫛型/丸一まで揃えようとしています。
はい、日本橋駿河町だけは歴史を逆戻りして後継印に丸一が再登場します。

この二つの郵便電信取扱所は生まれ育ちがよく似ています。
ともに、明治3841日に無集配2等郵便局に格付けされますが、そのあと櫛型の時代が始まるや日本橋駿河町は3等局に改定されます。

この改定は明治38413日ですので41日からの12日間は2等局だったのですが、櫛型印の交付は受けられませんでした。

格付けと櫛型印の交付との関係以外に、何か局長人事上の私怨でも絡んでいるのでは―と勘繰りたくなるほど冷たい仕打ちではあります。

この時期は、日露戦争のさ中 ― 中央官庁は並べて「行け行けドンドン」の風潮ではなかったでしょうか。

身につまされる愚痴は暫く措くとして、本日は2リーフを一度に御覧いただきます。

単片のリーフです。





































































日本橋駿河町の25銭時刻入りは、何年なのかさっぱり判りません。本池さんの説では郵便局時代の時刻入りは一点しか見つかっていないとかで、仮に郵便電信取扱所の時代としておきました。

唯一の慰めは、後継の櫛型印 ― D欄に入っている「☆」が通常の櫛の上に乗っかっているものと異なり、黒地に白抜きで「大」の字のようになっていることくらいです。

これは、他の無集配局にも間々見かけるものだそうです。

麴町櫻田門外局は、格付けの2等局はそのままに明治39年櫛型の使用開始と同時に「司法省内」郵便局(無集配)に改称されます。



負け組の日本橋駿河町がかわいそうなので、後継印のエンタに力を入れてやりました。





































































差出人/名宛人ともに同一の兄弟エンタですが、明治42年と44年との比較です。
名宛人は御当地壬生町の特産品=干瓢の製造業を営む方のようです。

状入りでしたので、手紙の文言をたどたどしく読むと「長造り」の代金を送る旨が書かれていました。

はて「長造り」とは何ぞや ― 封筒表書きの「野州壬生町」を頼りに特産品を調べると干瓢! しかも確かに「長造り」という表現があります。
巻きずしに使われる、まな板からはみ出る長さのものをそう呼んだそうです。

正徳2年に壬生藩に国替えになった鳥居忠英公が元の水口藩で成功した干瓢の栽培奨励に端を発した特産品のようです。
壬生町の地図上には「雄琴神社」も見つかります。これも鳥居公の勧請になるものでしょう。

なお、リーフに「㈱東海銀行の手形」と書き込んでいますが、これはUFJの前身の東海銀行ではなく明治22年設立/昭和2年第一銀行に合併の別銀行です。
(両行ともアタマ㈱なので紛らわしいのですが…)

で、問題になるのはそんなことではなく、明治44年の櫛型印の方です。
先に述べましたD欄の「☆」は黒地でもなく、「大」の字でもありません。

単片のリーフで御覧いただいた印軸とは別物のようです。
そして驚くべきことに、時刻表示はX1型です。

もう一方の明治42年の丸一はルーペで眺めても便号らしきものの痕跡が見当たりません。

明治の末になって、繁盛するようになったのでしょうか。
全く見当がつきません。
どなたか御教示いただけると幸いでございます。


【自己評】この辺りの小局は、時刻入りが一生手に入らないものとは思っていません。
ただ、人目に付かずひっそりとネットオークションに出てくるのは数年に一度というだけであると確信しています。
それにつけても、「年季の入ったコレクション」がいかに尊いものか痛感します。
「年季」は買えません。