2014年9月18日木曜日

青島俘虜郵便‐名古屋バラック収容所 Die Kriegsgefangenenpost Tsingtau - Das Nagoya Baracke Lager

ひと月近く投稿をサボっていました。
自宅近くの特養に入所している母親の入院があったり、…

毎日が日曜日の生活でも、身の回りでいろんな事件が起こります。
ましてや世界では。

今日はイギリスでは、スコットランドの独立を問う投票日。

いずれの立場にも与するものではありませんが、世界資本主義と呼ばれる現代、
ある意味では理想とされるコンパクトにまとまった政治や市場経済といったものは、流れに逆流することで、歴史の後戻りは難しいと…。

酒の世界でいえば、国内を制圧している伏見の超ジャイアントメーカーの酒ほどまずいものは無いと心得ています。
舌に乗せてざらつくような化学製品みたいな酒より、地方の小醸造業の製品の方がはるかにうまいものです。

一部のハイランド/ローランド・スコッチにだけ感じられる、あの「舌に乗せるとトロッとする」感触は全く個性を無くした某清酒メーカーの製品とは無縁のものです。

願わくは、そのような優れた酒の文化は残らんことを。

グレート・ブリテンとなって以降、イギリスが世界の王者でした。
そのイギリスに戦いを挑んだ独墺は負けました。

本日は、歴史の皮肉みたいなリーフです。
前回の久留米に続いて、本国から俘虜宛に届いた絵葉書。

戦争の中心となった北欧はユトランド沖で、主力艦隊同士による決戦がありました。
1916年(大正5年)5月末の出来事です。

結果はドイツ大洋艦隊の勝利です。
絵葉書に描かれた巡洋戦艦ザイドリッツは自ら大破しながらもクイーン・メアリを撃沈しました。
ドイツ国内はこの勝利に沸き立っています。

しかし、残った海軍力はなおもイギリスが遥かに優勢でした。
結局は、1918年の休戦協定を受けて、ザイドリッツは英海軍の基地であるスカパ・フローに回航されます。

















そのときに(おそらく初めて)絵葉書の光景が実現しました。
ザイドリッツが旗艦となって、ヒンデンブルク号やモルトケ号を引き連れて大海原を進んだのです。
 























こう書くと、日本の第二次大戦の切手図案を思いだします。
バタアン半島を進撃する戦車を描く「大東亞戰爭第一周秊記念」切手です。
 















御存じの方も多いと存じます。2+1錢の図案中央、左の日章旗が半旗になっています。
少年のころに読んだ切手の本、北上健さんの「切手の秘密」で知りました。
「このときから、日本は負ける運命にあった」とか…。

リーフの葉書は、あまりのクセ字と私の不勉強のためとで殆ど読めません。
何が書いてあるんでしょう。誰からかも判りません。
"Mein lieb Max!"で始まっていますから奥さんでしょうか。
発信日は前述のユトランド沖海戦から17日後です。

「あなた、喜んで!ドイツが勝ちそうよ。」でしょうか?
収容所での検閲が通らないでしょう。というより、検閲官はこの読みづらい字を判読したのでしょうか。
それとも、毎日の余りの検閲量の多さに「ええい、面倒だ」と印判を叩いたのでしょうか。

御参考までに文面部分を揚げておきます。
どなたかドイツ語にお強い方、判読いただけると大変ありがたいです。
 

























名古屋収容所は俘虜約500人を擁する中規模の収容所ですが、3,500冊になんなんとする蔵書量を誇る図書室があったそうです。
司書も俘虜の下士官と兵卒の三名が担当。
さらに坂東同様、国内の新聞を翻訳したドイツ語の報道紙もあたっとか。

そのような環境の下では海戦の様子も俘虜たちに知れ渡っていたことでしょう。
まして葉書の名宛人は軍曹さんです。

葉書の図案は、なんとなく安っぽい感じがします。
戦意高揚のために軍の肩入れで作られたというより、海戦の勝利に乗じて粗製乱造した民間製と判断したほうがよさそうです。

同じような構図で、もっと粋なものをネットで拾いました。
 
1890年ころのものだそうです。私もどうせならこちらの色っぽいお姉さんの方が良かった。

リーフです。
先日のジャパンスタンプPA83の戦利品です。





































































【自己評】 ザイドリッツ号の型式を示すために右下の図を入れましたが、不要ですネ。
スカパ・フローへの回航写真だけの方がリーフが締まります。
このリーフから、書き込みに俘虜番号を入れることにしました。日本の俘虜情報局で作成した『獨逸及墺洪國俘虜名簿』が日独共通で基本史料として通用しているようです。

ただ、俘虜郵便絵葉書シリーズは次回がいつになるか全く分かりません。
私の現在の手持ちがこれで全部だからです。

いつでも入手できるものでもなく、それぞれが良いお値段でもありますが、一枚のはがきでこれだけ楽しめると十分に元は取れます。

26/09/2014追記
リーフに書き込んだ葉書表書きの模式図に"Feltpost"と書かれているのは"Feldpost"の誤記です。

2014年8月28日木曜日

青島俘虜郵便‐久留米バラック収容所 Die Kriegsgefangenenpost Tsingtau - Das Kurume Baracke Lager

天気予報士の言では「秋雨前線のような」前線が日本海にあって、そこから伸びる寒冷前線が今回の大雨となった ― とのことですがどう見てみても梅雨前線…。

本当は梅雨明けしていないのに、体面だけ取り繕っているのではないかと疑いたくなるような今年の太平洋高気圧の弱さであることよ。

郵趣の世界では嘘は禁物 ―どの世界でもそうですが― 一昨日お知らせしましたDelcampeのチンピラ詐欺師については、昨夜担当者からメールが来て、
「出品者のcentrestampsがこのことをきちんと説明するまでアカウントを一時凍結する」旨知らせてくれました。




























デンマークかどこかの方がワンビッド抛り込んでおられただけで、さすがに日本のディーラーさん方は様子見を決め込んだはりました。

それにしても、思わず手を出したくなるような似ノ島俘虜製ppcなんかがズラッと並んで実に壮観でした。

今日は多少趣を変えて、本国から俘虜に届いた「俘虜郵便」葉書です。

名宛人は、かの悪名高き久留米にずっと滞在してはった御方です。
差出人は、葉書を御覧いただきましたらお判りのように"Deine Fraue Martel" と書かれています。
― 名宛人の奥さんです。

仲睦まじいことです。私はとっくに諦めてます。諦めると表向き仲良く見えます。

葉書の絵は、当時おそらく人気を博していたのであろうフランスの画家、アンリ=ロンデル作の肖像画です。
この画家はどうしたことか、Wikipediaにも出てきません。

私は気に入ってます。裸婦を描くこともあり、マリアを題材にした大作の宗教画を発表することもありました。

この絵葉書が印刷された年には未だ御存命だったようです。

葉書そのものを見てみると、外観は収容所発の俘虜郵便とほとんど変わりません。
俘虜宛郵便も無料だったんですね。
私も初めて知りました。

違うところと言えば、
① "Kriegsgefangenen Sendung" と書かれていること。
② 消印の日付が、収容所発の俘虜郵便と逆の順番になっていること。
   (当然ながらドイツの消印の日付が最も古く、日本の消印がその後の日付)
くらいです。

名宛人のReinhold Walzさんとおっしゃる方は、一等兵(=Gefreiter お好みによっては「上等兵」。ドイツは二階級制です。)。

葉書に "I. III.  S.B." とあるのが、「第三海兵大隊第一中隊」の意味です。
以前にも書きましたが、実は編制の都合で海軍を名乗っている陸軍です。

最初に「悪名高き久留米収容所」と書きましたが、それも初めの二人の所長時代くらいまでで次の林銑十郎中佐(もちろんアノ方です)のころからはオーケストラを組織して久留米高等女学校で演奏会を催したり ― と活発な文化交流が行われています。

名宛人のヴァルツさんは、このオーケストラのフレンチホルン担当。

2年前の「チンタオ・ドイツ兵俘虜研究会」会報に、小宮寧さんとおっしゃる方がお孫さんの旦那さんから遺品を譲り受けたという記事が掲載されています。

リーフの御本人の肖像写真もそのときのものです。
併せて、その旦那さんによってeBayでもエンタが何点か売り立てられています。

久留米について、私は最初と二番目の所長だけが悪いとは思っていません。
国内最大規模となる1,300人を超える俘虜を一箇所(=国分第18師団衛戍病院)に集めて管理するとなると、その大変さは判ります。

さらに追い打ちをかけるかのように中央から植田謙吉氏(後の関東軍司令官。ノモンハンの敗戦の将)が巡回視察に来て厳しい指導を行っています。

それに地元の一部の業者。所内の酒保でビールなどを法外な値段で売ったようです。

リーフです。





































































【自己評】 私のプリンタ(Canon PIXUS)は、どうも厚紙とは相性が悪いようで、普通紙ですときれいにプリントアウトできるのですが、リーフくらいの厚さになると御覧のようなインク漏れが生じてしまいます。
画像には多少細工をして、黒くなったところを白っぽくしていますが…。

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Delcampの詐欺事件をきっかけに盗用防止対策を考えるつもりでしたが、当分の間このままで行きます。
ヤフオクは今年に入ってから、流用防止のため画像のダウンロードをできないようにしていますが、私自身も画面のハードコピーを取って欲しい部分を切り取って保存…などという面倒なことをしています。
何か細工をしてもそれをすり抜けるヤツは出てきます。
郵趣関係のネット市場から完全に追放する根本的な対策を考えた方がよいと思っています。

ヤフオクの「評価」やeBay / Delcampefeedbackは重要なものとして考えた方がよいでしょう。
まずい評価が多くてヤフオクで商売できなくなり、他のマイナーなネットオークションに引っ越した京都の業者を知っています。

今月に入ってヤフオクに靑島軍事の偽物を出品したh******_*****や菊軍事の偽加刷を出したm******は、いずれわが身に跳ね返ることを銘記すべきです。
菊軍事にはC欄三星はありません。収集家をナメるとエライことになりますぞ。

2014年8月26日火曜日

緊急のお知らせです! Delcampに詐欺師出現です。

今朝、Delcampを見て驚きました。
私のコレクションが売り立てられています。
730日に御紹介しました靑島俘虜郵便のうち、靑野原收容所発信の絵葉書(濵勇姐さんのRPPC)です。
http://kitte-renshucho.blogspot.jp/2014/07/die-kriegsgefangenenpost-tsingtau-das.html













































もちろん売リ飛ばしたりしていません。今手元にあります。
ネットでそこらへんの画像を拾いまくって、眼腐れ金をせしめようとする輩です。

ほかにも何通かのTsingtau-POWのエンタが同じ売り手によって出品されています。
Centrestampsというのが、このタコのニックネームです。

Delcampの英語担当職員には、すぐに通報しました。

それにしても、制定シートや冠10銭をそれらしい安めの値段で売るように見せかけるのではなく、随分玄人好みの渋いところを狙ってくれます。
結構プロっぽいチンピラですナ。

それから気に食わないのが、安いこと!
10ユーロとは何事ぞ。

出品された画像は、私のスキャナの癖までそのままです。画像が赤味がかってしまうのです。

他の靑島POW便も、当然全てインチキでしょう。

さて、この事件は私にも何か落ち度があるのかな ― と思っています。
リアルさを追求するあまり、こんな盗用にまでは気が回りませんでした。

さりとて、画像にロゴを入れるとせっかくの「リーフ丸ごとアップロード」というコンセプトが崩れてしまいます。
至急に対策を考えます。

とりあえずは、お知らせまで。

2014年8月23日土曜日

青島俘虜郵便‐大阪収容所 Die Kriegsgefangenenpost Tsingtau - Das Osaka Lager

靑島俘虜郵便の絵葉書だけを、それも芸妓・半玉の写真絵葉書だけを全収容所分集めてみようかと思いましたが、2年や3年でどうにかなるようなものではありません。

当然ただの風景写真絵葉書も入ってしまいます。

昨日、ジャパン・スタンプ商会オークションの下見に大阪第三ビルまで出かけて行きました。
坂東や似ノ島の俘虜製絵葉書が沢山あって、ただただ見とれて時間を過ごしてしまいました。

そんなものも世の中には有るのですが、とてもとても手に入る値段ではありません。

今日は大阪収容所の俘虜の葉書です。
先に紹介しました「チンタオ・ドイツ兵俘虜研究会」のサイトには該当者の氏名が見当たりません。

広い世界のどこかにはヒットするサイトが有るだろうと、俘虜のフルネームを原語で打ち込んで検索してみますと、ありました!

Tsingtau - historisch-biographisches Projekt というサイトです。
http://www.tsingtau.info/index.html?namen/p.htm

彼の氏名は見つかりましたが、seesoldat=二等水兵でヴェストファーレン出身ということくらいしか判りません。

したがって、このリーフについて書くことはこれで終いです。
それでは面白くないので、消印の日付でも御覧ください。

大正561日となっています。
この3箇月前に大阪収容所で大火があり、収容棟のいくつかが消失しました。

その焼跡にグラウンドを作りラグビー競技が行われています。このチームは似ノ島まで継続し、そこで本邦初の国際試合が行われたとか。

それはともかく、この火事の後は事務方が大忙しでした。
当時の記録では、
「俘虜郵便物ノ檢閲ハ常ニ煩累ヲ極メタル所ニシテ所員及通譯ハ多ク之レニ没頭シタルノ状況ナリ」
となっています。

将校二人と通訳文官だけでは、とても500名を超える俘虜全員の面倒は見きれないでしょう。
私も退職前は、とんでもない大規模府立学校(職員数実に240名)の事務方をしておりましたので、気持ちはよく分ります。

大阪収容所の記録は多くは残っていません。(捜し方が下手なだけかも…)
上述の俘虜の氏名も含めて、いろいろ検索すると面白いものが残っていました。

薄田泣菫が大阪毎日に連載した随筆です。
彼の体験談ではなく伝聞を題材にしていますので、話半分でしょうが ―

















































































もとより全てのロシア兵や全てのドイツ兵がこうではありません。当時の人の目にはこのように写った ― という程度です。

それから、決してヘイトスピーチではありません。念のため。
日露戦争俘虜を道後温泉に連れて行ったら、風習の違いからとんでもない誤解を生じたなどという笑い話もアジ歴の公文書に残っていますが、またの機会に…。

さてリーフです。
白紙みたいなリーフで書き込むべき内容がありませんが、それにしてもこの葉書に押されたゴム印は、誰が拵えたのでしょう。

俘虜が原稿を書いて、日本の印判屋さんが彫ったのでしょうか。























































【自己評】 コレクションとしては誠に貧弱至極ですが、資料調査が面白い分野です。財布の負担を考えながら少しづつ増やしたいですネ。


2014年8月19日火曜日

青島俘虜郵便‐大分収容所 Die Kriegsgefangenenpost Tsingtau - Das Oita Lager

前回の投稿からずいぶん間隔が空いてしまいました。
リーフ整理を少しくサボったこともありますし、盆休みで久しぶりに孫が来たり…いろいろありました。

靑島俘虜郵便の2回目です。

大分収容所は、早めに店じまいされてしまって全員が習志野に収容換(※)されています。

     ※ お役所用語では「シュウヨウカン」と読むのだと思います。
       今でも任命換(=ニンメイカン。異なる任命権者が発令すること。)
       などと使われています。

大分収容所では、兵士・下士官用の宿舎に古い校舎が充てられます。
3棟の建物のうち1棟は棟の半分をまだ学校として使っている状態です。
そのため、子供たちとの良い交流もあったとのことです。

一方、宿舎の周囲は板塀で囲われていましたが、外の田園風景はよく覗くことができ、女性の田植え仕事で胸がはだけたりするのが眺め放題だったとか。

そんな開放的な状況も手伝ってか、日本の風習に通じた将校が3名ほどの下士官・兵士を連れて「脱走」し、遊郭に上がり込んで日本女性との「意思疎通」を堪能した ― という武勇伝が残っています。
当然30日間の営倉入りでした。

将校は全く別棟の赤十字社の建物が割り当てられていましたが、寝泊まりは校舎だったそうです。

お示ししますRPPC(写真絵葉書)は、差出人が何やらロシアめいた名前ですがもともと靑島で鉄関係の商いをしていた方のようです。

それにしても愛想の無い葉書で、住所は8月から東京の近くの習志野というところに変わるよというゴム印と、後は大分よりと書かれているだけです。

多分随分たくさん同様の葉書を出したのでしょう。
それも、葉書を出したくない相手にいやいや書いた…みたいなところが面白いです。

所属の「海軍野戦砲兵隊」というのは、生粋の海軍で、靑島守備の主力であった「第三海軍歩兵大隊」みたいな「本当は陸軍」とは異なるようです。

この方は、解放後も靑島に住むことを希望したようで、大正92月付けで靑島民生部から発出されたこんな報告書が残っています。


























文頭に書かれている2名の解放俘虜のうち「アルクシンンスキイ」とあるのが御本人さんです。
アラブ系ロシア人みたいな変な名前になってしまっています。
「カ(ー)ル」の「カ」を「ア」に写し違えたのでしょう。或いは「カアル」の「カ」が脱落したのか…。

こんな靑島ファンが120数名ほどいたそうで、実に全俘虜の2.5%に及びます
靑島で留守を守った家族や知人も、彼らを迎えるために港にアーチを作って歓迎したという話まで残っています。

例によって、写真の美少女は前回にも名前だけ出しました半玉の「音丸」ちゃんです。
この娘については面白い話があります。

養母によって新橋に出されたが一向に売れない。
これを案じた物好きの文士二三名で計略したのが、絵葉書。

明治の末年には既に照葉姐さんみたいにもともとスキャンダラスな娘が腕の良い写真家によってさらに有名になり、スターダムにのし上がっていました。

それにあやかろうと多くの写真を売り出したところ、元来生真面目で努力家だったこともあって一躍有名になり、「半玉七人娘」(揃いの半襟、揃いの帯…さながらAKB48か、ももクロかみたいな)に最若年で名を連ねたとのことです。

また、後に清元の家元に嫁ぎ幸せな生涯を送ったとか。

リーフです。




























【自己評】 収容所の検閲印はいろいろあって面白いので、当分リーフごとに拵えてみようかな。
        

2014年7月30日水曜日

青島俘虜郵便‐青野原収容所 Die Kriegsgefangenenpost Tsingtau - Das Aonogahara Lager

縦書為替印シリーズも先週やっとこさ郵便電信取扱所までたどり着きました。
緊張しました。
自分のコレクションを客体化するのは面白いんですが、冷や汗も出ます。
と言っても、穴だらけのリーフをゴタゴタ並べてウダウダ駄文を書いただけですが…。

野戦局為替之章など、まだまだ重要な分野がたくさん残っていますが気分転換に分野を変えてみます。

ちょうど百年前に第一次世界大戦が始まりました。1914年(大正3年)728日です。

日本がドイツに宣戦布告したのは翌月の823日ですが、靑島を巡って日本と思惑の異なるイギリスとの事前調整に時間を要したとのことです。

ドイツ軍の靑島要塞五千名に対しその十倍の兵力で侵攻しました。
Waldeck総督は、賢明至極、武士の名誉を保てる程度の抵抗だけを示して自国兵士の命を守りました。

彼らはハーグ陸戦条約批准に基づき1912年(明治45年)公布された陸戰ノ法規慣例ニ關スル條約第2章に定める俘虜として国内12箇所に分散収容されます。






































※「チンタオ・ドイツ兵俘虜研究会」作成

日清戦争での俘虜の取扱との違いは、形式的にはこの条約の有無にあるようです。
実質的には、対欧と対中との姿勢の違いでしょうが…。

私が初めて手に入れた俘虜郵便が靑野原です。
収容所の検閲印や中継印もさることながら絵葉書の女性に目が行き、気に入って買いました。

「兵庫・瀧野」の消印の無いことに気がついたのは手に入れた後です。

郵趣とはいえ、マテリアルは俘虜として来日した生身の人間の葉書です。無事に祖国に帰れたのかまで調べ上げました。

靑野原については、幸い大津留厚先生の「青野原俘虜収容所の世界」という本が一般向けに出版されています。
また、「チンタオ・ドイツ兵俘虜研究会」という詳細なデータを持つサイトがあります。
http://homepage3.nifty.com/akagaki/indexb.html

史料は、「アジア歴史資料センター」で沢山見ることができます。
実に幸せな環境です。

リーフの葉書はただの挨拶状ですが、差出人の名はEwald. A. Königさん。
今はポーランド領となっているPosenのご出身。
海軍砲兵隊の1等砲兵さんだったそうです。

しかし、上述のサイトによると、海軍というのは派兵のときの編制(※)であって実はほとんどが陸軍兵だったとのことです。

        ※ 軍隊の「師団編制」などは、「編成」ではなくこの字を使います。
          現在でも、学校教育法などでは「学級編制」と表記しています。
          軍隊の名残でしょう。

絵葉書には筑前名島の朱印が押されています。最初は、「日本の誰かから貰ったものだろう」くらいに思っていました。

アジ歴で「欧受大日記」を調べると大正8年(1919年)末現在で寄付された絵葉書の累計は8,330枚にもなっていました。
俘虜一人当たり1.8枚ほどです。

ところが差出人の経歴が判明してびっくり仰天。
彼はDas Fukuoka Lagerから収容換された74人の一人でした。

世界中どこでもオッサンは若い女の子が好きなんでしょう。
(たとえ俘虜の身の上であっても)
まさか記念に持っていたSchöne Fräulein [現在は使いません。Frauです] の写真が、100年後に好事家の手によって自己の収容歴を証明されることになるとは。

私にとっては正にビギナーズラック。
リーフには簡単にしか書き込んでいませんが、名島に行ったのは俘虜の半数ほどで、他は他所の公園に行っています。

全てが理解できて、次に気になったのが(本当は最初に気になったのですが…)この生意気そうな小娘美しいお嬢さんのこと。

いろいろとネットで調べると、やはり蛇の道はナントカで、歴とした玄人 ― 新橋の半玉で濱勇という姐さんと判明しました。

これはこれで立派なコレクターズアイテムだそうで、かの有名な新橋の照葉姐さんやもっと若い音丸ちゃんなどと並んで、アメリカにも幾人かのファンを持つ人のようです。

さすがにアメリカまで行くと、ちゃんと名前を呼んで貰えず、Hamaryu / Hawayu みたいな変な呼び方に変わってマシタ。
Her name is not Hamaryu nor Hawayu = How are you. Her correct name is Hamayu, which is the name of flower "Crinum asiaticum". ですぞ。

これら芸妓さんの絵葉書は今の芸能人・アイドルのブロマイドと同じ役割を果たしていたらしく、芸能週刊誌に代ってさまざまなゴシップ本も近デジで見ることができます。

彼女らの社会的地位も芸能人並み ― とはいえ青鞜社に代表される「当時の」女性地位向上運動家から見れば「醜業婦」…。

驚くのは、写真技術です。小川一真氏によって写真絵葉書("rppc"と略称されてます)の印刷用にコロタイプが普及したことと併せて、見事なライティング技術です。

詳細不明ですが、東京は芝区にShisui Naruse氏の営む萬集堂という写真店が有り、このような芸妓さんの写真を手がけていたとか。
他にも、Yoto Tsukamoto氏など優れた写真技師が鎬を削っていた ― 全部受け売りです。

彼女らの写真は好評を博し、当然のように海賊版が大正期まで出回りました。その一枚でしょう。

リーフを御覧ください。
発信者に敬意を表して下手なドイツ語も添えています。異国情緒が出て良いナと…。






































【自己評】 これはこれで自分としては満足してます。

2014年7月27日日曜日

縦書為替印‐郵便電信取扱所  ― 温泉と中宮祠と ― 補遺

二日に亘って中宮祠郵便電信取扱所と温泉郵便電信取扱所とについて色々と書きましたが、やはり私は慌て者のようです。

投稿し終わった後で色々なことに気づくのはあまり褒めたことではありませんが、ほったらかしよりはマシと御勘弁ください。

こんなものを見つけました。
例によって遞信公報令達類篇の抜粋です。






































ちゃんと公達が有りました。
公務員は、こういうことにはクソまじめです。
ともに明治35年分の上巻です。

温泉は明治35521日から、中宮祠は明治35616日から郵便物の逓送・集配事務を行う旨の御触書きです。

たぶん、間違いなくこの日から郵便物に消印を押したのでしょう。
いや、厳密に言えばもっと早い時期からかもしれません。

また、逓送集配は行っても切手に消印を押した証拠にはならないという考え方もできるかもしれません。

でも普通に考えれば、ここに掲げた日からということでいいのではないでしょうか。

また、後知恵で判ったことが有れば投稿します。

2014年7月26日土曜日

縦書為替印‐郵便電信取扱所  ― 温泉と中宮祠と ― その2

昨日御覧いただいた温泉と中宮祠の使用済み。
おさらいですが、
① 温泉の使用済みの日付(明治36518日/明治36830日)は、郵便電信取扱所で書留等にのみ消印を押印することとなった明治3748日以前。
② 中宮祠の普通便カバーは明治37810日付けですが、書留ではありません。

いずれも為替や貯金とは直接関係有りませんが、便宜上この投稿シリーズに入れておきます。

本論に入る前に、温泉の同日付の2枚の菊はこんなロットでした。
誰も気づかなかったのか、最低値で落札でした。
お雇いのドイツ人で温泉を訪れた人…誰なんでしょう。




























さて、これらの消印やカバーが現存する理由についてです。
上記の「郵便電信取扱所で書留等にのみ消印を押印する」は、次のような公達です。

これだけを読むと普通便に消印は押されません。
念のため、ここで引用されている「郵便取扱規程」第32條~第36條です。
 
この「郵便取扱規程」以外に、「郵便受取所郵便取扱規程」というのが日を接して発出されています。 
先の「郵便取扱規程」が明治3397日、「郵便受取所郵便取扱規程」が明治33918日の発出です。
 
「郵便受取所郵便取扱規程」で郵便電信取扱所にも同じ規程を適用するとしておきながら、明治374月になって、「それはやんぺ」と言ったのです。
 
では、「郵便受取所郵便取扱規程」発出以前に何が適用されていたか。
中宮祠郵便電信取扱所が設置されたときの公達です。
 
十年以上昔の規程を持ちだしました。でも問題は有りません。同じ郵便及電信局官制下での定めです。
 
念のため、その第2條です。

そして、温泉郵便電信取扱所が設置されたときに先ほどの公達は「中宮祠」の三文字が削除されました。(=全郵便電信取扱所に適用)
 
確かにこの「郵便支局及電信支局規程」には「郵便物受付ノ事」と書かれ、実際に支局では日付印が押印されていました。
 
しかし、郵便受取所でも同じ文言の定めが有ります。(明治26721日)

同じ「受付」でありながら、どう違うのか。
実は突き詰めていません。
 
消印を押すかどうかは、大きな問題ではなかったのでしょうか。
ここで引用されている明治19年の公達というのは、地方遞信官官制の時代です。
そこでは、支局と受取所が並んで「郵便物受付ノ事」と定められていました。

支局業務の規定が先に改正され、郵便受取所業務の規定は時間が経ってから改正されました。
 
新設の中宮祠に対して、同じ文言「郵便物受付ノ事」があるのに郵便受取所の規定ではなく支局業務の規定を引用したのは、郵便支局と同じ仕事をさせたのではなかったのでしょうか。
 
もちろん、「それは郵便電信取扱所が支局格だったからそうしたまでのこと。」
という反論も成立すると思いますが…。
 
でも、支局と同じ仕事と考えれば昨日のマテリアルも全て説明ができそうです。
ただ、明治3748日以前に書留にも押印していたかどうかは不明です。
 
多分していなかった― 根拠のない推測です。
 
では、なぜ最初に掲げたような公達を出さざるを得なかったのか。
これも推測です。
 
明治34年から37年にかけて東京市内で相次いで4箇所の郵便電信取扱所が開設されています。
全て丸二型日付印を使用していますが、本池悟さんの研究では、書留押印の事例しか見つかっていないとのことです。(明治37年度末までの郵便電信取扱所時代は、です。)
 
つまり、温泉・中宮祠では普通便に押印をしていた。
これに対し、発足の理由も由来も温泉・中宮祠とは全く異なる東京市内の4箇所にあっては、「郵便受取所郵便取扱規程」を墨守していた。
 
混乱が生じたので、最初に掲げた明治3747日の公達が発出された。
言い換えれば、最初に掲げた公達は新たなシステムを拵えたという性質のものではなく、混乱している現状を整理するためのものであった。
 
― と考えるのが、一番しっくりくるのではなかろうか…という仮説です。
 
1983年に、この問題についての論争がありました。
そのなかで、温泉では明治3551日から郵便物逓送、集配事務、会計事務の取扱を開始したとの記録がある旨、発表がなされています。
 
古い資料ですので若い方のために再掲しておきます。
 
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その前に耳寄りな話を…
 
このブログでお示ししたコルヴィザールカバーは、全てDelcampeで売り立てのあったものです。
出品者は全てYvonnic_92というフランスの方。
十点ほどにもなったでしょうか。
五月雨式に出品されました。
そのうちの1点が日本の方によって落札され、ヤフオクで先日転売されました。
 
はい、封蝋ではなく「男爵/古る宇゛ゐざ留」と書かれた朱印の押されたあのカバーです。
 
 私は、ここに御覧に入れた二通のカバーのほかは麻布局の丸二型が押されたものを入手できただけです。
 
ほかは、ほとんどフランスの方が持って行かれたと記憶しています。或いは未出品のものが在庫として眠っているかも…。
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当時の「フィラテリスト」誌と「郵趣」誌とにまたがっての熱心な議論です。
やはり切手オタクはかくあって然るべきと思っています。
冷やかしではなく、真のフィラテリストたるお二人に改めて深い敬意を表します。
 
議論は郵趣界きっての論客・研究家お二人によるものです。
 
私も当時は何のことか分からずにいたのですが、縦書に興味を持つようになってやっと理解できました。
 
「フィラテリスト」誌19837月号です。
 
 
「フィラテリスト」誌198310月号です。
 
「郵趣」誌19844月号です。
 
こんなに熱心な議論が交わされることは、同じ国の切手を集める者として大変に誇りに思っています。
 

 【おことわり】 これらの論文については、著作者の了解を得ることなく雑誌ページのスキャンを掲載しています。画像掲載が不都合である旨の御連絡をいただきましたら適切に対処します。

 
次回以降は、新たにリーフを作る必要が有ります。
 
したがって、今までのように手持ちのリーフをホイチョイというわけにはいきませんので間隔をあけて投稿します。
 



2014年7月25日金曜日

縦書為替印‐郵便電信取扱所  ― 温泉と中宮祠と ― その1

投稿に数日間のブランクをとりました。
今日御覧いただくマテリアルは、何日もかけて知識の整理を十分にしておかないと混乱を招くだけだからです。

「縦書為替印‐郵便電信取扱所」という投稿タイトルではありますが、温泉と中宮祠という余りにも有名なこの二つの取扱所の為替印はまったく持っていません。

何十万円という相場もさることながら、相場形成の機会もありません。
故田辺猛さんの言葉を借りれば、「押し込み強盗でもしないと手に入らない」品物です。

そのかわり、丸一郵便印を入手しています。
温泉は2年前、中宮祠のカバーは今年の4月でした。
いえ、書留便でも郵便局時期の日付印でもありません。

話を始める前にまず、マテリアル自体を御覧いただきたいと思います。







































肥前 温泉/36. 8. 30/便号不明

もうひとつ(一組)あります。








肥前 温泉/36. 5. 18/ロ便

5月の消印のものは、同じロットに含まれていたものです。
(来歴は後ほど紹介します。)
おそらくは、外国宛絵葉書に貼られていたものでしょう。

中宮祠はコルヴィザールカバーです。
ただ、切手3枚が脱落し(というより剥がされ)別の切手が後貼りされた姿でした。


何とも情けない姿ですが、まごうことなきコルヴィザールの金釘流。
横濵消しの2枚が後貼り。65厘分の切手―おそらく3枚―が脱落しています。
引受の日付は、明治37810日ロ便。

この日付は、郵便電信取扱所では書留に限り引受の日付印を押印するという公達が発せられたあとです。

後貼りを剥がしました。こんな具合です。




















裏の封蝋(La cire à cacheter)と着印です。


オーストリアハンガリー二重帝国の紋章みたいに盾が二つ並んでいます。
封蝋を正位置にもどすと、


























右が天使、左が鷲。そこまでは同じですが、二重帝国の紋章との違いは王冠がひとつ。しかも国王のそれではなく、貴族の冠です。
フランスの制式では、男爵はこんな立派な冠はつけないことになっていたようです。
男爵が冠に真珠を付けるのはドイツやオーストリアの風習だったらしいです。

Capitaine de Lepinière(ルパニエールの代官とでも訳せばよいのでしょうか?フランス語は全く駄目です。いや、英語もドイツ語も中国語も…。)の夫人に宛てた手紙がフォンテーヌブローに転送されています。

色々と調べていると、Wikipediaにコルヴィザールの解説を見つけました。

英語版はこちら。http://en.wikipedia.org/wiki/Charles_Pierre_Corvisart
フランス語版はこちら。http://fr.wikipedia.org/wiki/Charles_Corvisart

先の温泉の単片3枚もリーフに整理しました。

























































こちらは、ルールどおりの書留カバーに押印したものを併せて貼り込んでいます。
宛先は、先ほどの夫人の旦那さんです。

ここまで御覧いただいて、本日は失礼します。
これらに対しての考えを次回に投稿します。

2014年7月22日火曜日

縦書為替印‐郵便電信受取所

昨日は、祝日という理由を考えついて投稿をサボりました。
大したコレクションでもないのに、全リーフを公開するとなると結構気づかれします。

多少宿題は残しているものの、いよいよゴールが近づいてきました。
宿題(=郵便電信局の大型と小郵電の同名局と)は、残すと気苦労になります。
でも、まだできてません…。

今日は郵便電信受取所のリーフです。
こんなブログでも「見てやろうか」というような方なら既に御存知のとおり、明治343月に、従来の郵便受取所・電信受取所制度に代えて郵便電信受取所・郵便受取所・電信受取所の3種の受取所制度ができました。

おかげで、現代の消印収集家が苦労することとなりました。
逓信省年報から作った統計です。
























少ないはずです。
為替取扱所よりマシという程度の数です。
明治20年代に月型を使用した郵便受取所の数より少ない。

ここまで書くと、リーフに貼られた消印の数が少ない言い訳とお気づきかと思います。
そのとおりです。とても少ないです。

しかし、偶々こんなものを手に入れました。







































教科書によれば、全ての縦書為替印を通じて最も遅い(新しい)日付は、明治3835日。
肥前の田助港郵便電信受取所だそうです。

明治3832日。末っ子より3日だけ年上です。
福岡は博多大濵町郵便電信受取所。$15でした。

国名入りは全然入手できてません。

リーフ下部は、臨時郵便電信受取所。
大阪で開催された「第五回内國勸業博覽會」正門外に設置されたとのことです。
調べましたが場所は不明です。
ただ停車場すぐ近くの通用門のようなところに、内國通運の営業所ができています。
もしかするとその場所かもしれません。

ちなみに博覧会支局は正門の中、入って左手に設置されています。

リーフは書き込みすぎです。
近デジで資料を見つけたうれしさで、関係の全文を入れてしまいました。
農商務省の報告書は下の2行だけで事足ります。

それより、下の統計表の方が面白いです。
貯金䑓紙はあまり売れなかったようです。

為替の5,300弱という口数は支局・受取所合わせての数です。
支局は丸二型の下部空欄。時刻入りしか入手できていません。

それでもリーフに貼った菊1/2銭は、まぎれもなく278口の貯金䑓紙のうちの1枚です。

リーフです。
























































【自己評】 郵便電信受取所は地道にたくさん集めることが一番大事です。もっとがんばりましょう。

2014年7月19日土曜日

縦書為替印‐郵便受取所 月型その4

ウクライナの情勢がとんでもない方向に向かって行っています。
それでもポロシェンコ大統領は、ブチぎれることなく冷静な対応を心掛けているようです。

もちろん、まともに戦争して勝ち目がないとの判断もあるのでしょうが、最悪の状態を避けるために右に左に巧妙に舵を取る立派な政治家だと思います。

政治というものはかく有りたいものです。
深い思慮なく戦争をしたがるのは、全世界に責任を持つべき政治とは無縁の外交下手です。

あと10日ほどで第一次世界大戦開始100周年を迎えますが、私たちの集めている切手は二つの大戦の戦火を巧妙にかいくぐって今の世に残ってくれたものです。

後世につなぐ為にも、おろそかにすべきものではありません。
それでも、私も何枚もの貴重な切手やエンタを紙くず同然にしてしまっています。

汚れているからオキシドールの希釈液で洗ってやろうとか、オンペーパーを剥がしてやろうとか、不器用にやると疵をつけるに決まっています。

先日も、麴町十一丁目爲替取扱所の赤二を水剥がししようとして失敗しました。
13紙であることに気がつかなかったのです。
基本は守りましょう。

というわけで、今日は郵便受取所の月型シリーズ最終回です。

ずいぶん前に作ったリーフそのままです。
切手はできるだけ移動させない方が安全です。

言いかえれば進歩の無いリーフです。

II KC ―特殊型です。
所名に市名が冠称されていないけれど消印には市名が入っているというものは、そんなに多くはないと思います。

青森にまだ市制が施行されていない明治29年から使い始めたものなのか、それとも最初は「陸奥/郵便受取所/奥野」が使われて、青森への編入が決まった(又は決まりかけた)ところで新調したのか不明です。

これも、先達の方々の御教示を仰ぎたく思っています。

下段は、山田宇治型と言われる変則消し。
きれいな物が無いのにとやかく言うのも生意気ですが、或いは「山田」というのは管轄局名というよりは、その地の代名詞的なものではなかったか ― とか色々と思いを巡らして一人で楽しんでいます。





















【自己評】 市名冠称の所名でもいいから、こだわらずにもっと沢山並べないとさみしいですね。

2014年7月18日金曜日

縦書為替印‐郵便受取所 月型その3  蛎殻町(蠣殼町)か蛎売町(蠣売町)か

今日御覧いただくリーフは、一風変わっております。
縦書為替印収集家の間では「蠣売町郵便受取所」として知られる、あの消印です。

赤二を御覧いただくと、確かにそう書かれております。
 











































































 
 しかし、下の菊3銭の方は「売」の足部が「ル股」ではなく「几」です。

地元の方ならお気づきと思いますが「蠣売町」という町名は存在しません。
またかつて「カキウリチョウ」と呼ばれた経過もありません。

答えを先に申し上げます。
「売」という字(現常用漢字や前の当用漢字の)ではなく、
「壳」です。

諸橋先生の大漢和辭典に出ています。


















JISの字体より一画多くなっていますが、当然辞書の方が正しい字です。
「殻」(旧字体は「殼」)の偏だけを取り出した略字です。

そして「売」は、「壳」の俗字体として使われていました。

逓信公報令達類篇は逓信省の内部だけで編纂されました。
これに対し、法令全書は司法省が各省に睨みを利かせながら編纂したものです。

当然、良い加減な告示は全てチェックされます。
したがって、類篇と全書とで字体の異なるものがまま見受けられます。

蠣殼町郵便受取所は、明治2721日に日本橋區の東京堀留町郵便受取所から移転、改称されました。
併せて、為替の取扱も開始されました。

その時の告示の比較です。















































左から、類篇の移転改称告示、全書の移転改称告示、類篇の為替開始告示、全書の為替開始告示です。

大きさが異なるので御覧いただきづらいのですが、御勘弁ください。
法令全書はきちんと正字体「殼」で書かれています。

この略字体、「壳」は当然明治に始まったわけではなく慶應以前から使われていました。
リーフ下部に示したような赤繪もそうですし、商家の屋号の印判もそうです。

証券印紙は、これが欲しいためにわざわざ大枚€4.00もはたいて買ったものです。
ごく適当に「天井向いて」付けた値段でしょうが、売ったイタリアのGiapoz49kさんとおっしゃる切手商さんもびっくりしやはったと思います。

お金を払って買った以上、印判が気になります。
リーフに示したような形に復元してみました。

蠣殼町にあった茗荷屋というと、足袋屋さんでしょうか。
調べると五色おこしを拵えていた「茗荷屋」さんも江戸期にはあったようですが黒門町でした。
それに屋印が抱き茗荷だったようですので、この印判はそのお菓子屋さんではないようです。

足袋の茗荷屋さんだとすると、この「山形に叶」を屋印に使っておいでだったのでしょうか。
事情を御存じのお店関係の方がおられましたら、是非お教えください。

廣重三代の赤繪の方は、わずか3年ほどの期間に「蠣壳丁」「蛎(虫売)町」「蠣壳甼」「蠣壳街」と気まぐれな表記です。
さすが、盗作・流用・作り絵の世界です。

   ― と頑張ってリーフを飾ってみましたが、郵便史カテゴリーの郵趣とはだいぶかけ離れてしまったようです。

理想を言えば、
① 明治27年から明治29の為替印を加える。
② 明治35年から明治37の為替印を加える。(もちろん郵便電信受取所も)
③ 明治37年以降の(蠣殼町と表示のある)書留番号票を並べる。
④ 赤繪は削り、発着住所に「蠣壳丁」等と表示された小さなエンタを貼る。
が正しいと思います。

とても手に入るものではありません。

そして、カテゴリーにこだわらず、明治の空気の片鱗を伝えるこんなリーフ作りも「アリ」ではないかと一人で悦に入っております。

最後に、「その後どうなった」という話です。

「壳」という字が使われた菊20銭、左辺に深いシザーの入ったものを最新データとして並べましたが、その後(画像データだけですが)さらに新しいものを見つけました。








 


そしてこれを最後に以降は「蠣(蛎)殼町」となったと思いきや、関東大震災で復活しました。
 


御存じの臨時電話所消しですがこれも画像データだけです。
 
長々と書きましたが、リーフを御覧ください。
 
【自己評】 切手展に出したら、格好のクレーム対象でしょうな。

2014年7月17日木曜日

縦書為替印‐郵便受取所 月型その2

日を追うごとに暑くなってきます。
九州南部は昨日梅雨明けしたとか。今日は祇園祭(先祭)の山鉾巡行です。

鉾建てが始まるころから三条四条界隈の商店は急に強欲になります。
普段ならだれも手を出さないような値段で物を売り始めます。
先日も悪口三昧、好きなことを書いたのでええかげにしときますが、祇園祭のド最中は喫茶店にもはいらはらへん方がよろしおす。

昨日に続いての郵便受取所月型シリーズですが、もう例の一斉改称まできてしまいました。
明治3111月の改称です。

全国の郵便受取所(540箇所=明治30年度末数)のうち247受取所を改称しています。
浅見さんの本では、改称は259箇所となっています。
私の数え方が悪いのでしょうか、いまだによくわかりません。

これに先立つ明治3011月にも大坂市内25箇所の郵便受取所名に「大阪」を冠しています。

既にリーフに貼ってしまった受取所の名称変化を除くと、手元には改称事例の揃ったものが残りません。

ですのでブランクが目立ちます。

神田佐久間町は、年数字が傾いています。
これも以前に紹介しました金澤郵電局の照復文に述べられていた、「紙を挟んで」云々の類でしょうか。
私の頭の中では、結城郵便電信局の年数字逆立ちと並んで「ケッタイな消印」の双璧です。

神戸の北長狹通はこんなところに貼るものではありません。
為替取扱所のリーフです。

まあ、御本尊が入手できませんのでお許しを。
お隣の北長狹七丁目は改称されませんでしたが、面白いので並べて貼っておきました。

一斉改称後は、いろいろおもしろいバリエーションが見られます。最終的には1,270箇所を超える受取所ができていますので、毛色の変わったものが頻出して当然でしょう。

バランス型には、これも悔しい思いい出があります。
「備後宇/津戸村 郵便受取所」です。









(オークション画像より切出し)


201210月にeBayで落としたのですが、その直後ハリケーンサンディがアメリカ東部を襲い、ワシントン郊外にあった出品者の店も被害を受けたようでした。

eBay主催者も関係落札者全員に「商品の到着が遅れると思われるが待ってほしい」旨のメールを送ったくらいですので、さもあらんとておとなしく待っていました。

しかし遂に商品は到着せず、こちらから「いつ発送したか」との照会を送ってもナシのつぶて…。
真相は闇の中で終わってしまいました。
商品をちゃんとスキャンせずにシャメで間に合わそうかという横着な店です。
bygonemementos01と名乗ったRevathi Aravindというヤツでした。

横須賀大瀧町はルーペでなら「町」の字がかすかに見えます。

リーフです。





【自己評】 最上段はこのリーフのミソですので、早く改善しましょう。

2014年7月16日水曜日

縦書為替印‐郵便受取所 月型その1

郵便受取所で使用された縦書為替印の歴史を辿ってやろうという着想は面白いのですが、そのリーフを埋めるだけのコレクションができていません。

とりわけ月型の初期使用は、大変にプアなものです。
手持ちの最初期使用が明治298月。月型といえど郵便受取所となるといかに難しいかを実感させられます。

ですから推測だけでリーフの書き込みをしてしまった部分があります。
一番怪しいのが、新潟本町。
明治2812月に「本町」から「新潟本町」に改称ですが、これで本当に新しい印顆を作るでしょうか。
年型にも「新潟/郵便受取所/本町」と彫られていたはずです。

そして月型は何という形式名で呼べばよいのでしょう。月II C バランスでしょうか。いや、田中式命名法にいちゃもんをつけるつもりではありません。

命名法は単純で分かりやすい方が優れています。問題はその使い方です。
私のリーフの中でも不統一になっています。

上記の場合でも、月II C とだけ呼べばよいと思います。単純明快な命名法に、理屈をこねくり回してわざわざ「バランス型」としたり「市名無し」とする必要はないのかなと思っています。

それはさて置き、改めてリーフを眺めると「よく集めたものよ」の感も湧いてはきますが為替を扱う受取所が百数十もある時期ですから、集まって当たり前との思いも…。

リーフです。











【自己評】 肝心の初期使用に力を入れてもっと頑張りましょう。