2014年6月30日月曜日

縦書為替印‐京都市内の支局

世間さまが仕事に精出してなさるお天道様の下で、こんな気楽なブログも些少の後ろめたさがあります。

それでも勇気を出して、今日も投稿に精を出します。

前世紀の末(1997 - 1999)にJR西日本が三都物語というキャンペーンをやりました。
葵千智と酒井美紀が出演するテレビCMがありました。

葵千智は、以前に出演して人気を博したロリエのCMでは酒井美紀に取って代わられたのですが、このCMでは二人仲好しの友達同士役でした。

三都はもちろん京都大阪神戸のことです。

そういうわけで、今日は京都の支局です。

京都は私の故郷ではありますが、いわゆる「御当地収集」はやっておりません。むしろまだ見知らない町の方に魅力を感じます。

早い話が完集できていないということです。

京都の支局は三つ ― 五条、今出川、伏見です。

五条支局は今でこそ国道1号沿いで通過道路になってしまっていますが、往時はメインストリートだったようです。
その五条大橋の西詰、北側か南側か定かではありませんが、いわば京都の玄関口に支局を構えたということのようです。

今出川支局は御所の北側の通り、同志社大学との間を東西に走る通りにありました。
好きな通りです。大学の赤煉瓦のキャンパスと御所の緑。

何度か引っ越しをしているようですが、支局を名乗った時期は御所の西北角から数十メートルの場所だったとのこと。

余談ながら(このブログ自体が余談みたいなものですが)、御所の南側を東西に走る通りが丸太町です。
そうです。丸太町為替取扱所のあった通りです。
この通りは、今出川とは逆に北側に御所の緑、南側は江戸時代から続くかという有職の店や五色豆の小さな菓舗が軒を連ねて、良い雰囲気です。

とても便利な労作「明治の全郵便局所沿革」では「まるたちょう」と振り仮名が振られてますが「まるたまち」です。
理由は、「みんなそう呼んでいるから」です。

御所の南と北というだけの違いですので、私は今でもときどき間違えます。支局は今出川、受取所は丸太町 ― です。

残る伏見支局は、現在の伏見郵便局と同じ場所でしょうか、よく知りません。
伏見城の城下町だったところで、郵便局の周囲は京町、両替町、加賀屋敷町、毛利長門町…らしい地名がたくさん残っています。
宇治川をはさんでその南側が宇治の小倉ですが、当時は巨椋池がありました。

切手は、肝心の「支局」の文字が見えません。日付から間違いなく支局と判断できるという、えらい苦しい言い訳の必要な消印です。

京都の支局もかなり遅くまで褐色印を使っていました。中央の言うことを聞かないのは、天子様を東京に連れて行かれて街が寂れてしまった恨みでもあったのでしょうか。

では、リーフです。

 
【自己評】 今出川の大型印なんて見たことがありません。死ぬまでに一度は拝みたいものです。
もうひとつ、現実的な切なさですが、印色が褐色から黒に変わる時期が特定できていないのは情けないです…。

2014年6月28日土曜日

縦書為替印‐神戸市内の支局

昨日は思わぬエラー訂正で一日無駄にしたような気もしますが、所詮は趣味の世界のこと。世界情勢には何の影響もありませんので平気な顔で話を進めます。

最近、「郵趣」誌上を賑わしている不届き者がおります。はい、ヤフオクに出没している2名のガキどものことです

他にも居ります。模造の手彫りを沢山出品して、「真偽の鑑定はしていません」などといけしゃあしゃあと…。

その上を行くのもおります。やらせビッドをほおり込む悪人です。
ただのチンピラ以外にも、性悪のバッタ屋まで登場しています。

こいつら、そのうちまとめて警察の御厄介になるぞ ― と思いながら私も目の訓練をしています。
本当に真偽の区別が難しいのがネギ5銭でしょうか。実に精巧な模造品があります。
故市田ドクターの本では、①中央下部の桐の葉の先端の長短、②「錢」字の点の形
が区別のカギとされています。

eBayでは手彫・旧小判の模造は当たり前になっていますし、海外の一般のゼネラルコレクターに区別を求める方が無理かも…。
先日、nystampという店がトンボの偽造を出品していました。

それだけなら日常のことなのですが、誰でもわかるような粗末な偽加刷に2ビッドはいっていました。

同じ業者が、もう一枚やや精巧なものも出品していました。それにも同じビッダー二名が札を。

以前から胡散臭そうな業者とは思っていました。

こういう偽物屋は別として、ネット販売はこちらの目違いも結構あります。
旧小判の紙質は、かなり大きな画像を出してくれていても、なかなか当たらない(=ハズレ)ものが多いですね。

先日旧小判10銭薄青の真っ白い紙があったので、「おお、エスパかひょっとしたら薄紙じゃ」と勇んで落としたら、無地紙だった…。

欲は目を晦まします。
何事にも無心で当たるのが一番かと。

毎日だらだらと駄文を書いているのは、大きい画像が画面右側のアーカイブを示す青文字に邪魔されないようにとの思いからですが、沢山は書けませんので、多少見にくいのは我慢をお願いします。

それでは、今日は神戸支局です。
役所的な順番(「建制順」と言います)では横浜支局かとも思いますが、大阪のお隣ですので。

神戸はおしゃれでどこか品の良さが漂う街です。国道2号のJR神戸駅から西の方に行くと広い道路の両側に三井商船の古いビルがあったり、勝海舟の海軍操練所跡があったりと、車で走っていて気持ちのよいものです。

そのおしゃれ心でもないのでしょうが、神戸郵便電信局のたった一つの支局 ― 兵庫支局の縦書印は「支」抜けから始まります。

その後、月型に変わってもまた「支」抜けが出現。さらに月II Kという風変わりなものまで。

極めつけは、猪野さんが発見された「神戸市」入り年II C1でしょうか。

どう見てもそれとしか思えないものを赤二で持っています。


リーフでは、御本家の10銭と並べて比べています。

そして、この消印の前後に使用された年II Kは同じ印影です。(リーフ上段右)

おまけみたいな位置づけしかありませんが、明治35424日付けの菊3銭をリーフ最下段の締めとして入れています。

兵庫局は、何かと人騒がせな形式の消印が多いのは何故でしょう。
この後の丸二型日付印でも局名に入っていた「神戸」を削ってみたり、最初から本局名「神戸」の入らない大きな文字の「兵庫」を誂えたり ― と好き勝手、自由闊達に営業したはります。

この後、明治364月に通信官署官制が施行されると同時に、消印は監督局で調製することとされたのでなおさら細かいことを言われない状態になります…。

丸二型日付印を使わなかったのか、並用したのか、日付印の形式は気にしなかったのでしょうか。


同名の越前兵庫局は遠の昔に無くなっていますので、間違いなく神戸兵庫郵便電信支局です。

リーフです。


【自己評】 このリーフも、私としてはがんばった方です。年型の「支」抜けは難しいです。
II C1は、赤二のグラシン袋から偶然発見したもので、どこで入手したものやら。
これで一生の運を使い果たしたのかも…。

2014年6月27日金曜日

縦書為替印‐大坂市内の支局その2  訂正です

二、三日投稿をサボっていました。
私の身に何かあったわけではありません。
家庭内乱LANのルータの故障です。うちはかーちゃんがネットワークを組んでくれています。

大坂がやっと終わったと思ったら、ミスをしていました。
他都市の支局を見直していたら、高津の大事なところが抜けているのがわかりました。

明治27年度から28年度にかけての印影変化を御覧ください。

明治27年  8月   年II H  「大阪」  …  印影A
明治27年  9月   月II H  「大坂」  …  印影B
明治27年10月   年II H  「大阪」  …  印影Aと同一
明治28xx月   月II H  「大坂」  …  印影Bと同一
明治28年  7月   月II H  「大阪」

したがって、前回のコメント「何があったのでしょう」は変わりません。ホントに何があったのでしょうか。

画像を見ていただく前に、これも前回の話の続きです。

大阪支局その3で書いた話ですが、アメリカのpapercactusさんに誤送付と思われる勅額切手を返送した話です。
こちらからメールを出した後、御本人から返事が返ってきました。

You are an honorable manやと言うて、えらい褒めてくれてはりました。
別に売約済みでも何でもないし、貰うといてくれとのことでした。

しかしそこはネゴシエーションとバーガイニングの国アメリカのこと、
「もし発送済みなら、次回落札品を送るときに同封して返送する」…
しっかりしたはりますヮ。

これほど気を使っているのは、以前に書いた悪徳切手商Hanmartのこともありますが、苦い思い出もあったのです。

もう時効と思います。昔、カメリアスタンプと名前を変える前のカナイスタンプさんから送られてきた落札品に、覚えのない旧小判20銭白紙が混入していました。

それをそのまま頂戴してしまったのです。
今でもその切手を見る度に自己嫌悪に…。

それでは、訂正画像です。


【自己評】 負けの込んだお相撲さんみたいに、膏薬だらけのリーフになってしまいました。
普段は、こういうやり方で我慢しています。
高津の2段目、3枚貼ってあったところの左側に1枚貼り足しています。
そして原稿のエクセルファイルだけは、きれいに4枚貼り用の位置に変更するようにしています。

貼り替えが手間で面倒ということもありますし、何より不要の作業で切手が痛むのを防ぐためです。



2014年6月23日月曜日

縦書為替印‐大坂市内の支局その3

一昨日の土曜から日曜にかけて、うれしいことが二つありました。

その1
国立国会図書館のコピーサービスを初めて利用したら、大当たりでした。
3年ほど前に、府立図書館を通じて国会図書館にレファランスを申し込みました。

農商務省駅逓局時代の「達」と逓信省時代の「公達」とは、法的効果として何が異なるのか。
 ― という禅問答みたいな照会です。

府立図書館司書から「滅多に回答は返ってきませんよ」とのアドバイスがありましたが、そのとおりでした。

今月の13日に必要な登録をして、コピーサービスを申し込みました。
前回のことがあるので、半年くらいかかるかなと思っていたら、一週間後にコピーが届きました。

国立には「駅逓」の合本が所蔵されています。丸二型日付印の詳しいことが知りたかったのですが、手元には本池さんの連載論文のうち後篇しかありませんでした。
長い間前篇を探していました。

府立図書館も最新式の書籍運搬装置があって、5冊づつ小さいコンテナボックスに入れて、閉架書庫からカウンターまで機械で運ぶカラクリです。
同様のものがあるとしても、送料込みで703円では、とても人件費は賄えないはずです。
税金は、こういう文化の香り豊かなところにもっと盛大に使ってほしいものです。
私は酒税・たばこ税の高額納税者です。

しかし、使えるコピーサービス(=外部委託)、使えないレファランス(=司書直営)となると、何だか末期の社会保険庁みたいな…。

その2
eBayのできごとです。
落としたロットを点検していると、有ろうはずの無い目打入り勅額の使用済みが!
しかも読めます。葛飾/20. 9. 1x/東京都
売り手は何度もお世話になったpapercactusさんとおっしゃる方です。

成約済みが紛来したものなら大変ですので、すぐにメールを送って同時に返送してやりました。
御丁寧にも、消印の解説と最近の相場を知らせて…。



同じようなことが過去にもありました。田沢、菊、新小判の使用済みロットに旧小判3銭薄紙の墨点が紛れ込んでいたり。
売り手がギリシャで、当時緊縮財政で大変だった時代です。これも日専のコピーと解説を付けて返送しましたが、初回取引で気味悪がられたのか、お礼のメールもありませんでした。

今回はお得意さんです。「フィラテリストとして他の収集家や切手商に迷惑をかけるわけはいかない」などとメールに書いてイチビッて返送しました。

よいことをした後は気持ちがよいものです。(サヨケ)

ということで、大阪支局の3リーフ目です。

資料数が少ないため、日付データ以外ほとんど書き込みをしていませんが、
高麗橋は開設初年度は資料なし。明治29年度は多分年度当初付近での印顆更新。明治30年度も同様の時期の更新。
明治31年度も時期不明ですが11月までには更新されています。
33年度も8月までには更新。
34年度のみ更新なし。
新小判50銭は、一昨日に到着したホヤホヤです。
売り手はオーストラリアのgabychan2002さん ― 大変フレンドリーな方です。

ということで規則正しく毎年度境に更新されていると考えるのが妥当かと…。

次の天満はseiun19jpさんのお下がり。

堀江は、以前にも書きましたpostalhistorianさんのロットから。数十枚の菊1銭ロットの画像をルーペで点検、一人北叟笑んで1,001円で落札。


【自己評】 このリーフも、私にとっては大成功の部類です。




2014年6月21日土曜日

縦書為替印‐大坂市内の支局その2

自衛権についての与党協議に集団安保の話が出たり、都議会で女性を侮蔑するやじが飛んだり ― と世の中の喧騒を他所に、気楽にブログを続けます。

前回、大坂市内支局の印顆更新の話の中でいろいろと官僚の悪口を書きました。
誤解のないようにお願いします。
今さら明治期の旧悪を非難する気はありません。
印顆更新について、おそらく実態はこうだったはず ― ということです。

ですから、明治304月の船場支局の例のような場合、明治29年度予算で調達した新しい印顆が3月末(=法律上の納期)を過ぎて、4月の20日に納入されてそれを交付したとしても、公文書上では何の不思議もない日付で処理されてしまっているはずなのです。
だから、「船」の消印は必ず前年度の後半には使用されているはず―という推理が成り立ちます。

今日は、島之内郵便支局と移転改称した後の高津支局です。

島之内は自信がありません。印色の順番はこれで正しいと思うのですが、もう少し資料がほしいところです。

しかも島之内の大型印は、気のせいかわずかに褐色がかっているような…。
弱気になっているのは、憤懣遣る方ない事件があったからです。
 

上図を御覧ください。
昨年12Delcampeでの購入記録です。
赤二の島ノ内大型印(日附部欠け)がおわかりでしょうか。
わずか€10.00Buy It Nowでした。
買いました。書留料も要求どおり支払い到着を待っていましたが、書留で送られてきたのは世界各国のサッカー切手数十枚。
すぐにメールを出し現物を返送しましたが、なしのつぶて!

だます意思はなかったと思います。アホな店員が宛名ラベルを貼り間違えたとしか考えようがありません。

ただ、その後さまざまな手段で連絡を取ろうとしましたが何の返事もありません。
ネットオークションで、こういう切手商に過去二、三回出くわしたことがあります。

フィードバックも100%となっていますが数字のマジックで、実際は、No shipping, No reply, No refundが数件ありました。
多色刷りの沢山のサッカー切手を期待していたかわいそうな少年も、アジアの片隅の国の小汚い古い切手を手にして泣いている次第です。

この切手商はブラックリスト入りです。ポーランドのHanmartです。
併せて、赤二の島之内は指名手配です。見かけたらこのブログにコメントをください。
 


と、さんざん罵詈雑言を並べて少しは気が晴れたところで、リーフを御覧ください。
高津の32年度と33年度の印影が未集です。(川口支局も32年度は未集でした)

その代わり34年の月II K/Hを手に入れています。右辺シザーの半欠けながら「まあこんなもんでしょう」的な、分相応の見栄えを持つ切手かと…。

高津の27年度から28年度にかけての目まぐるしい印影の変わりようには驚きます。
何があったのでしょう。


【自己評】 島之内は当分これで我慢すべきでしょう。高津は鮮消しがほしい~ッ。

2014年6月20日金曜日

縦書為替印‐大坂市内の支局その1

昨日に増して暑い日となっています。

本日からは、いよいよ花の東京を離れて大坂支局の1枚目のリーフです。
以前にも書きましたが、支局は訳もなく好きになってしまっていて力が入っています。

大坂の支局はタイプの変遷だけでなく、字体の違いまで揃えようとしています。

ここで、実は「仮説」を立てています。

仮説:通常、印顆の更新は年度末に残予算を以って執行される。
    (もちろん局名の改称や局種の改定はその都度です。)

明治憲法が明治22年に発布、翌年1129日に施行されると、今も国や自治体予算の根幹となっている「予算単年度主義」・「総計予算主義」の考えのもとに予算が編成され執行されるようになりました。

予算の裏付けのない契約はできず、その契約の履行も当該年度内に完了させなければなりません。

― こう書くと大変結構なことのようです。
   しかし、官僚は決して満足していません。彼らには特権思想があります。
   合法・非合法の例外を沢山作りました。
   契約書類の日付の改竄は常です。

皆が皆そんなことをした訳ではないと信じています。
しかし、自治体職員だった私自身の経験から言えば、終戦から四半世紀経ったかどうかというような時代には、予算・決算に計上されない少額の現金は大概の課にありました。
納期が遅れて4月に検収されても、履行確認書類の日付は3月中です。

私が退職するころには非常に厳しくなって、ほぼ法令の期待するような水準にまでなってきていました。

随分だらだらと書きましたが、そのように考えるとぴったり合点がいくような実態が消印の上にも表れているのです。
これは印顆の更新時期を推定するうえで役に立ちそうだと気づいてから、意識して年度境の日付を好んで集めました。

川口支局です。
大坂の場合は、「坂」と「阪」との違いがまず目につきます。川口の場合は、加えて「口」の形・大きさが目につきます。

船場支局は川口支局よりやや集めにくいのですが、「船」はほとんど「舩」です。
明治3048日付けの青5銭だけが「船」です。
先ほどの仮説に従えば、全年度の後半9月以降くらいに更新されているはずです。

リーフ全体としてはぎっしり詰まった感じになり、右下にデラックス・マツコみたいなのが居座って尚更暑苦しいのですが、これでほぼ全貌が表現できているのではないかと自負しています。


【自己評】 内心、大満足のリーフです。もう少し手直しした方が良い箇所はありますが、とりわけ川口支局の郵電合併直後の日付はラッキーでした。

2014年6月19日木曜日

縦書為替印‐東京市内の支局その5

昨夜せっかく降った雨も止んでしまい、元の暑さに戻ってしまいました。

eBayに東四十物町為替取扱所の半欠けが押印されたUPU1銭を含むロットが出品されていたのですが、つい先ほど逃げられてしまいました。

実に悔しいのですが、人生にはこんなこともよくありますので気を取り直して投稿を続けます。

今日は東京支局の5リーフ目 めでたく最終日です。

青山と飯田町だけのリーフです。

青山支局には月II K/H 型が、飯田町には月II KH 型がそれぞれあります。

このうち青山支局のものが国名を入れたタイプとしては最も古いようです。
「ちょっと待て」とおっしゃる方がおいでになるのは承知しています。
長崎の本博多支局でもっと早く使われています。でも官名詐称です。郵便支局が郵便電信支局となった例のヤツです。
私も未集ですのでこの際無視して話を進めます。

麻布支局と並んで飯田町支局がこの青山に次いで、明治32年に国名入りが出現します。

ところがとんでもないものを見つけました。しかも3枚も。

各局とも為替印の印顆は一個だけと定められていたらしいのですが、明治33515日の日付の月II K 型があります。

察するに、郵便貯金の消印として使用されたものと考えています。

この支局が御婚儀の佳辰(当時の表現です)には東宮殿下の通御の道筋に当たった「お膝元」のようで、おそらく記念貯金の行事でもあったのでしょうか。

国を挙げての盛大なお祝いに猫の手も借りたいほどの忙しさであれば、普段使いの月II KH 型の外にもう一つ使われても不思議はありません。

明治31年の印影をリーフに貼っていますが、どうも異なる印影のようです。
もしかしたら特注の新品かも知れません。


【自己評】 飯田町の月II KH 型は、6月以降の日付も貼っておきたいところ。未調査ですが、記念の切手貯金についてどこかに文献が残っているかも知れません。

時の逓信省通信局がこの紀念切手のためだけに大層な本を拵えて、国立国会図書館の近代デジタルライブラリーで画像を見ることができます。
「東宮御婚儀祝典郵便切手」で検索あれ。

2014年6月18日水曜日

縦書為替印‐東京市内の支局その4

eoさんのDDoS攻撃はDNSサーバとかいうものを使うことで何とか解決しました。 ― 利用者の側での解決に過ぎませんが ―

東京郵便電信局にはこの時期には19支局もありますので、リーフもゆったり並べるとなると沢山必要です。

こうして眺めてみると5リーフの中で一番味気ない様な気がします。
珍しい大型印=見せ場が少ないのせいでしょうか。あるいは桃3銭が多数決になってしまってるせいでしょうか。

それでも、芝口の年III Hはまだ良いものが入手できていません。
他にも不満一杯なのがちらほら…。

地味ながら結構しんどい5支局ではあります。

東京の芝口支局と大坂の船場支局、それに横浜の長者町支局だけが最後まで意地を張って電信を扱いませんでした。
それでも、船場支局の方は丸二型日付印の時代になって、しかも親方が大阪中央という名称になって初めて電信を扱っています。

芝口支局は丸二型日付印の時代に閉局になるまで郵便支局でした。

長者町支局は丸二型日付印の交付を受けた途端に電信を扱っています。
多少悩ましい事情があって、公式の記録では、明治353月の15日から丸二型が使われ、同月の21日に電信を扱い始めたことになっています。
ところが、厄介なことに長者町の丸二型最古データは明治35420日です。
つまり、明治35315日にはどの消印を使ったのか確証がありません。
もちろん、「郵便電信支局の縦書為替印は無い」と考えた方が自然ですし心の健康にも良いことですが…。



【自己評】 穴が無くなった ― という意味でなら「完集」ですが…、

2014年6月17日火曜日

縦書為替印‐東京市内の支局その3  新発見!両国郵便支局月II H

DDos攻撃を受けたeoさんは、トラフィック負荷半減のため10分間隔くらいでサーバに繋げたり切ったりしておられるようです。
原始的な方法ながら実に確実で、利用者をいらいらさせる絶好の手法かと…。

本日は東京市内支局の3リーフ目、麻布・両国・本所です。

明治22年度の為替取扱実績は、全国平均で1局・支局当たり2.2件/毎時でした。
これに対し東京監督区内の実績は、1局・支局当たり9.7件/毎時でした。 
 
          
もちろん平均の値ですから、これより忙しい局や支局も当然あったはずです。
平均値そのままでも、5分ごとに為替の受払を求めるお客さんが窓口に来たことになります。
まさに「行列のできる」為替窓口!

為替取扱所の設置に躍起になったのも無理ありません。
このデータの詳細は、後日為替取扱所のリーフを御覧いただく際に縷々申し上げる予定ですが、それだけ印顆の磨滅も早く、常に最新流行のタイプを常備していた支局も少なくなかったようです。

麻布支局は切手への押印が開始された明治234月には既に大型印は無く、年II H を使用しています。

これに対し、市街から少し外れた両国やその向う河岸 ― 本所などは業務量も比較的少なかったのか、大型印が残っています。

両国支局は、なぜか厄介な印影が多く、このあと明治34年に登場する丸二型日付印でも郵便電信取扱所時代のものは入手に苦労しています。

その両国支局で、大変なものを手に入れてしまっています。
この支局が郵電合併で「郵便電信支局」となるのは明治2781日。

局種の改定までおとなしく年II H を使っているかと思いきや、さっさと月II H を誂えて半年も経たないうちに郵電支局に衣替えしたようです。

縦書の大家猪野さんがウェブで予言されておられたと記憶していますが、正に的中です。
そして、これは現在のところユニークアイテムです。

 

下辺にシザーが入っているとは言え鮮明な消印で満足していましたが、こうしてスキャナ画像を眺めてみると右上に小さな裂けが入っていました。
昨年(2013年)の1月eBayで$11.50でした。売り手はstejlgabetさん。
デンマークの方ですが、明治期の面白い消印を時々出品してくれています。

では、リーフの全体画像です。
 

【自己評】 両国の月II Kが未集ですがそのうちに手に入るでしょう ―と楽観しています。
それよりも、本所の「所」字体違いに目が行くようになったのは、自分でも成長したなと思っています。(還暦過ぎて「成長」も無いやろ~)
集め始めは、タイプ違いを手に入れることだけしか関心がありませんでした。
それでも、先達の方々から御覧になれば、「まだまだ」ということでしょうが…。

2014年6月16日月曜日

縦書為替印‐東京市内の郵便電信支局、郵便支局その2

先週から東京市内各支局の縦書印を御覧いただいています。
この「支局」には無闇にハマってしまいまして、力を入れています。

しかし、いくら力を入れてもそれだけでは集まらないものです。
執念としか言いようのないくらい力んでますが、念力は持ち合わせがありません。

それでも妄念の甲斐あって結構な数がリーフを飾ってくれています。
本所郵便支局(大型印)が切手上に現れるのは2箇月間、牛込郵便支局は3箇月間です。

表面に疵があったり日付が見えなかったりと満足できる状態ではありませんが、$0.99と£7.00ではこんなものでしょう。

簡単そうに見えますが神田支局の年II H型は難しいのでしょうか?
神戸兵庫支局の年II H型「支」抜けもなかなか手に入りませんでした。(今も半欠けしかありません。)
縁みたいなものもあるのかも…。

度しがたき縁なき衆生のリーフ上で、緑色が全部赤色に変わるのは、いつのことやら…。

 

【自己評】 一応リーチ!(品の無い表現で恐縮です。)

2014年6月14日土曜日

縦書為替印‐東京市内の郵便電信支局、郵便支局その1

eoDDos攻撃を受けたとかで、ネットに繋がりにくくなっているのを我慢して今日も続けます。

昨日までが、郵便電信局と郵便局の為替印でした。
(途中、大型の郵便電信局で使用した2タイプと小郵電の同名局とは、「またそのうちに」ということにしています。)

今日からは、郵便電信支局と郵便支局とで使われた為替印を御覧いただきます。

全支局の全タイプが目標です。
目標=まだ完集できていないということです。
あと少しなのですが、もちろん難関ばかりです。

支局は、タイプ別を揃えれば一応のコレクションとしての恰好がつきます。
そういう意味では、深い考察の必要が無い分野のようですが、月型のKHタイプやK/Hタイプは同時多発的に出現していますので、それをどう表現するか ― などと考え始めると難しくなります。

まだまだその境地に至っていません。
そういうものは、考えを熟成させる一定の期間が必要だと思います。
いわゆる「年季の入ったコレクション」と呼ばれるものは、やはり「切手の製造/使用の流れ」を強く訴えているものが多いと思います。

以前にもこのブログに書きましたが、ネット販売・ネットオークションのお陰で収集のテンポは急上昇しました。
しかし、コレクションに対する「考え」「見方」は急上昇してくれません。
何年もかけて、自身の中で作り上げていくものなのでしょう。

今回、「練習帖」名目とはいえ、公開するに当たって痛切にそういうことを感じました。
「こんなのを持ってるぞ」は「コレクション」の必要条件であって十分条件ではないということです。

以上、昨日までで一区切りついた反省でした。

では気を取り直して、まず東京の各支局からです。その1です。


【自己評】 タイプ別だけに限っても、やはりいろいろな消印が手元に集まってきます。「同じタイプだからいらない」としてしまわずに、面白いと思ったものは、どんどん貼り足していっています。
麹町の異体字は、先頃初めてお目にかかりました。
下谷の行間が広いものは青山支局にもあります。あまりにも行間が広いので、思わずエンガワ女優の誉れ高い多部未華子とあだ名をつけそうになってしまいました。
多部さんファンの皆さん、ごめんなさい。

明日は日曜日ですのでお休みをして、次回の投稿は月曜日です。

2014年6月13日金曜日

縦書為替印‐ダルマ型  ―アルバムの千両役者です―

昨日はお見苦しいものを御覧いただき恐縮至極です。
お口直しに今日は飛び切りの貴重アイテムを御覧いただきます。

「ダルマ型」という呼称は、縦書のパイオニア田中寛さんによって名付けられたものですが、親しみの湧く名前です。

従前から後志の南尻別のみが知られ、しかも所有者が故村田守保さんでした。
その後、猪野知昭さんが対馬の小茂田を発表されました。
また、外地(台湾)でも複数の局で同型のものが発見されています。

使用データは、内地の2局が明治34年の2月から10月。
外地(台湾)が、その前年―明治33年です。

さすれば、
① 明治33年の後半に逓信省が多くの日付印を発注した際、全部の局をいくつかのグループに分けて外注し、
② その中の一グループに「辺境の地(と言えば大変失礼ですが)グループ」があり、
③ 成果品のうちのいくつかがこのダルマ型であった。
― ということは想像に難くないと思われます。

しかし、台湾局のデータは明治338月があり、内地の2局は明治34年ですから、もしかしたら発注は2回あったのかもしれません。

これらは全て推測ですが、小茂田局既知データの前年度=明治334月は月IIK型でした。
ですから、全くの空想ではなく確度は高いかと思います。

南尻別は、実は四半世紀ほど前にデパートの切手バザールで入手したものです。
三軒目くらいに立ち寄ったブースで、赤二の縦書を大量にストックブックに入れて売っておりました。
150円。その頃は何の知識もなかったのですが順番に眺めて行くうちに、1枚だけ年月日の文字の無いものが目に留まりました。
1枚だけでごめんね」と言いながら買いましたが、切手屋の親父さん、私の後を追いかけて「後学のために理由を教えてくれ」と言ってきたものでした。

その後、「フィラテリスト」誌に浅見さんの連載が始まって初めて全貌を知りました。
連載の終りに為替印各タイプの台切手一覧があり、
「よし、全タイプを赤二で揃えたろ」などとアホなことを気楽に考えていました。

スタンプレーダーに澤護さんの「郵趣反古集」28として縦書のことが書かれました。
あの澤さんでさえ「ゴールはまず見えない」と。
当時の事情を物語る面白い記事ですので、コピーを併せて御覧いただきます。
(雑誌1冊の全体の半分以下ですので、著作権には触れないと思います)



【自己評】 大袈裟な言いようですが、この切手はどうしても早く世に出してやりたかったのです。私みたいな三流収集家が陋屋の書斎に埋もれさせたらバチが当たります。

さりとて、切手展に出品するほどの実力もなし、今さらあがいても老い先も知れて、それならということで「練習帖」の名目を拵えました。

もとより、リーフ作りに先達の方々のアドバイスをいただくためというブログの趣旨も変わっておりませんが、このようなものを後数枚御覧いただくことも大きな悦びです。


沢さんの記事です。スキャナの使い方が下手で読みにくい部分があります。



2014年6月12日木曜日

縦書為替印‐鎌倉型、月IIK郡名入り

今日は、お見せするのも恥ずかしいようなリーフです。
IIK型のヴァリエーション2枚です。

ひとつは、鎌倉型と呼ばれている月IIK1型。
もうひとつは、月IIK型の郡名入りです。

鎌倉型は半欠け。郡名入りは、以前に御覧いただいたような菊多郡植田局のリーフとは大違いで、1枚だけ入手できたのを機に植田局と同じリーフ作りをしてやろうという予告編だけの代物です。

問題外のソトですが「練習帖」なので、あえて公開します。















【自己評】 評価以前のものです。いつになったら手に入るやら…。

2014年6月11日水曜日

縦書為替印‐貯金使用

御存じのとおり、縦書為替印は明治2741日から「爲替貯金用日附印」と名称を変えることとなります。(同年公達第31號)

明治1931日から使用されていた貯金印が廃止になり、為替印を使うこととなりました。

郵便局の扱う事務の種類ごとに日付印を定めていたのが煩雑となり、簡素化される第一歩です。

先日ヤフオクで古い貯金通帳が出品されていました。その通帳の日付に上掲の明治2741日が含まれていました。
餌を見せられた犬みたいに、すぐに飛びついて手に入れました。 ( ^ェ^U) ≡≡≡ 3

エンタ類は1点だけでリーフが構成できるので楽です。

この御薗局は早い時期に月型の交付があったようで、実によい具合です。

しかし面倒なことがひとつ増えました。
一緒に押印されている「郵便爲替貯金管理所」の印は、明治27105日です。
とすると、管理所では、いつまでこのタイプが使用されたのか、また調べなければいけません。
   ―― これも、「そのうちに…」ということにします。   

浅見さんの「たて書丸一印の分類」では、同管理所の縦書為替印は未見となっており、併せてこの二重丸印の明治28. 4. 19 の印影が紹介されています。


【自己評】 リーフ構成は何の工夫も書き込みも無く、お手軽のホイチョイ気味。赤二に押印された貯金印も何とか「茂原」と辛読できた程度。なぜ切手に押印されたかもまだ調べられていません。
詮索好きの山田さんとしては物足りないところですが、まあ中にはこういうズボラリーフもあってもいいかな…イケマセン!

なお、画像では通帳の下部が破れているように見えますが、凹凸の多い通帳でスキャナがうまく通帳紙面を捉えられなかっただけです。(現物は裂けなしデス)

2014年6月10日火曜日

縦書為替印‐月型 その2

昨日に続いて月型です。
人間ドックで飲んだバリウムの後始末も終わり、すっきりしたところで続けます。
絶食状態で飲むと、バリウムもおいしいと思ってしまいます。

月型の2リーフ目は、手に入ったバリエーションを並べました。

1段目は成田局。「丗一」年がやけに大きく、この後どうなるかと思っていると印顆が更新されてしまいました。

2段目はエラー印。
結城局は少しわかりにくいのですが、紛れもなく年数字の逆植。昨年末にヤフオクで入手。おそらく(出品者のken_baker2001さんも含めて)どなたもお気づきではなかったと思われます。

気になるのは、この時代、年活字はそのままにして日活字だけ更植したのか、それとも毎日年月日の活字全部を一旦バラして入れ替えたのか ― 。
どなたか、明治33. 6. 25 に隣接する日付をお持ちの方がおられれば年数字がどうなっているか是非ともお教えいただけませんでしょうか。

その隣は有名な金沢の郵便電便局。いろいろなデータを見ていると明治30年の間に印顆が更新されたようです。

こんな印章を交付されて、その腹いせかと思われる質疑が金沢局から郵務局宛に発せられています。大変興味深いので、リーフの図の後に逓信公報令達類篇のコピーを入れました。

次の紗那、和泊はともかくとして八重山島は郵電合併の前の日付で、しかも半欠け。無理がありますなぁ。

最下段は良く知られた巨大な文字で局種を彫りこんだもの。伊佐局はひょっとしたら違うかも知れません。賑やかしです。


【自己評】 郵便局も郵便電信局も一緒やし ― と意気込んで拵えたにしては竜頭蛇尾風のリーフになってしまいました。
大型⇒年型⇒月型の変遷は先のリーフで並べてしまいましたので、何か変わったものを入れなければという焦りばかりが先行した感があります。

金沢局の腹いせ文書

 
 

2014年6月9日月曜日

縦書為替印‐月型

今日は朝からドックに行ってきましたが、外は日増しに蒸し暑さがたまらんようになってきました。
私の住処は京都府の八幡市という田舎町で、石清水八幡宮のお膝元という以外特に何も無い町ですが、京都市内と同じような蒸し暑さと冬の底冷えは ― 自慢になりませんな…。

縦書為替印の大型と年型は、一昨日まででリーフを御覧いただき終わりました。
今日から月型を冷やかしていただきます。

どういう風にリーフ作りをすれば良いか考えました。
明治も27年になると、郵便電信局も増えてきています。
切手にこの為替印が押印され始めた明治23年の年度末に258局だった郵便電信局が、明治35年度末にはほぼ6倍の1,552局に増えています。
郵便局の方は、同じベースで、3,345から2,529局とほぼ3分の2に減少です。
それでも郵便局の方が多数決で勝ったまま「通信官署官制」に移行することとなります。

「それがどうした?」と聞かれても困りますが、月型になりますと、まあ早い話が郵便局/郵便電信局を分けて集めなくても良いのでないかというずぼらな発想です。

リーフを見ていただきます。
月型の初期使用は縦書の雄seiun19jpさんなどがせっせと良いものを下げ渡してくれはりますので助かっています。

楢村郵便局は、縦書の使用期間改称なしなので迫力に欠けますが面白いので入れています。

中段の虻田局は、せっかく使用期間の短い郵便局が赤二で入手できたのに、多いはずの郵便電信局が薄消しのままです。

下段の足守・庄原はスペース稼ぎの誹りを免れません。「学生のレポートなら落第点」―どこかで聞いた言葉ですが―でしょう。
消印はどのタイプでいつごろ褐色から黒色に変化したのか、これでは全く分からない!
そこはそれ、まあそのうち集まりまっしゃろ ― ということでご勘弁を。

次回は月型のその2です。


【自己評】 次回の月型その2とセットで。

2014年6月7日土曜日

縦書為替印‐能登飯田型

明日は日曜日ですので、連載を休ませていただきます。

最近、午後のワンコの散歩のお伴のあと投稿する習慣がつきました。
毎日が日曜日の身の上でも、生活リズムは大事にしないといけません。
朝は4時起きで、わんこの散歩の後に朝食です。
したがって、寝るのも早くヤフオクの遅い時間の締切にはお付き合いし切れていません。
落札品の支払総額を御連絡いただいても、翌朝のお支払いになっています。御容赦ください。

重ねて申し上げますが、このブログは先輩諸氏から御批評とアドバイスをいただくためのものです。
(少しは自慢したいものも有りますが…。)
加えて、ブランクになっている切手をヤフオクにというご出品いただければ ― というウォントリストでもあります。

本日は、能登飯田型です。
昨日の陸奥福岡型と同じ理由で異なるタイプの消印が2年続けて制作されたことになります。
国名には「國」を入れずに、大IIK1と同じタイプの小型版としたため、後継の月IIKとほとんど同じすっきりしたスタイルとなったものです。

同名局は信濃の飯田。こちらの方が先に郵電合併を遂げて、後から追いかける能登の飯田がニュースタイルで得をした?

能登飯田も大型印が手に入りました。これもうれしくて、予め拵えておいた空席に鎮座させました。
小為替の受取証書はヤフオクから。
nsxnsx92とおっしゃる古物商さんからですが、切手にお詳しくないにしては、妙に収集家の心のくすぐり方を心得てらっしゃる面白い方です。

受領証書の角印(為替之章)を見ると、四隅が既に磨滅してわずか2年で随分使い込まれた感じですが、日附印は手入れがよく新鮮です。

能登飯田型を並べた後ろに何もないのは、月型が未発見であるためです。
このタイプの確認済み最終データは明治32. 4. 28 だそうです。


【自己評】 このリーフも、まあ良く頑張った部類と思っています。大型印の日付から、多分
大IIIK1からいきなり能登飯田型になったものと思います。
しかし、肝心の能登飯田型がフルストライクで手に入らず、2枚合わせて一人前みたいでちょっとだけイヤかも…。

2014年6月6日金曜日

縦書為替印‐陸奥福岡型

タイトルを御覧になって、「小郵電の同名局はどうした?!」と思われた方もおいでかと思います。
年IIIK1型のところで書きましたが、繰り返します。

「順番では、小郵電同名局のリーフがあるはずですが、まだまとめ切れていません。
まあ、この縦書為替印のシリーズが終わるころまでには…と気楽なことで、すみません。」
練習帖と銘打つと実に気楽です。
そこそこマテリアルは揃い始めていますが、リーフ作りとなると面倒で…。万一にも期待しておられたら、すみません。

ということで、本日はタイトルリーフでも少し触れましたが「陸奥福岡型」です。
一般に言われていますように、本来なら小郵電型が交付されるはずの時期に電信を扱い始めた局でしたが、同名の局があるため、国名を冠した特殊型です。
ところが皮肉にも、これが明治22年の公達第446号を遵守する結果になったという変な話です。

で、同名の局はどこかという話です。
福岡はすぐに筑前福岡が想起されますが、花輪は同名の郵便電信局はありません。
そして、若柳に至っては郵便電信局も郵便局もありません。

しかし、福岡・花輪とも郵便局はあります。
若柳局は小郵電型が交付されたと聞いています。(私は未見です。ごめんなさい。)

そこで、それをリーフにしてみました。
郵便局時代の大型印から月IIKまで、花輪局だけが半欠けながらも揃いました。
同名局は穴だらけ…。
むずかしいッ!

もうひとつの特殊型、「五所川原」型に至っては、何をか言わんやデス。

がまんして御覧ください。



【自己評】 着想は良かったと思うのですが、普段の実践がどうも…。でも、花輪の大型印を拾った時はうれしくてうれしくて。
それにしても、このブログ「すみません」が多いですな。

2014年6月5日木曜日

縦書為替印‐小郵電型

今日は、小郵電型(年IIIC)を見ていただきます。
最上段は、例によって初期使用、褐色印、最終交付印、後期使用を並べました。
初期使用は、運良く魚津の明治234月印が手に入りました。昨年夏、eBayの使用済みロットに含まれていたものでしたが、やはりバイヤーの皆さん良く見ていらっしゃいます。結構値が飛びました。

町山口は、めぐり逢いが悪く明治30年代のものしか見たことがありません。

後期使用の青梅局は、これまで2枚見ています。一見、月IIK型のような配字と字体で、普段見慣れている大きな文字の小郵電とは随分イメージが異なっています。
こちらはヤフオクの拾いもの。TCEの屋号postalhistorianさん出品のロットでした。この方のはヨーロッパ(のどこか)からの仕入れ。国内初出しが多く、小さい画像を目を凝らして観察すると良いことが沢山あります。
後日御覧いただきますが、祇園町郵便電信受取所や伏見郵便電信支局、宇都宮大工町郵便電信受取所などいろいろとお世話になっています。

2段目は、私自身も納得できないまま、仕方なく並べました。大坂はもっと日付を近接させて然るべきもの。唐津ならできるだけ小郵電の後期使用を入れるべきものとは思いますが、世の中甘くはありません。

渡島の森局はきれいに並べることができました。ただ、変遷としては最も一般的なありふれたパターンです。

佐倉局は、御存じのとおり他の数局とともに、郵電分離した珍しい変遷パターンです。


【自己評価】 まあ、50点ですな。

2014年6月4日水曜日

縦書為替印‐年IIIK1郡名入り/年IIIK碇ヶ関型

このあたりから面白くなってきます。
IIIK1の変種2局です。

一つ目は、郡名入り。植田局は磐城国に2局ありました。表を拵えてリーフに入れています。
菊多郡と東白川郡。名称はともに「植田」局。丸一郵便印では両局ともに郡名を入れて区別していたようです。
東白川の植田局では為替事務は取り扱っていなかったのですが、几帳面に郡名を入れています。
8銭の隣の4銭は、薄消しですが、使用期間3月に満たないであろう月IIK型の郵便局印。
未発表と思います。
 

その横の4銭は月IIK郵便電信局で、これはときどき見かけます。黒色に変わったのはいつごろでしょうか。

余談ながら、東白川の植田局は「坂ノ下」と改称した後に為替事務を開始。お隣の岩代でも「坂下」局がありますが、こちらの方は「ばんげ」と読むそうです。(月IIK型のリーフで御覧ください。)

変種の二つ目は、これも有名は碇ヶ関型。羽州街道にあった弘前藩の関所だそうです。
「國」字が抜けたエラー印。
為替印を切手に押印するようになったと同時に為替事務を扱った100近い郵便局の一つですから、慌てて大量に印顆を発注したら、まあこういうエラーもむべなるかなということでしょう。


【自己評】 両「植田」局の丸一郵便印完集は道遥かとしても、このリーフは自分としては花丸をあげたいですね。
もうひとつ、明治23年4月1日為替事務開始の全郵便局を揃えてみたいのですが、これも夢のその先です。

縦書為替印‐年IIIK1型

昨日は投稿をサボりましたので、本日分として2リーフ御覧ください。
順番では、大IIK1郵便電信局と大郵電とを並べたリーフがあるはずですが、まだまとめ切れていません。
まあ、この縦書為替印のシリーズが終わるころまでには…と気楽なことで、すみません。
大したマテリアルもないのに、理屈の一貫しないリーフはできれば避けたいという偏屈じいさんおっさんです。
したがって、順番で年IIIK1型のリーフを御覧いただきます。

最上段には、初期使用と後期使用を入れたいのですが、初期使用は明治23年も8月経過して11月になってしまいました。
下の長府局の方が早いデータなので、益子局を貼った意味がありませんが、初期使用のためのスペースです。

きれいな褐色の印賀局だけを並べていましたら、これも明治33年消の備中小田局が手元にあったので貼り足しました。
(青色の5銭は避けたいのですが、これしかないので…。)
明治31年11月の訓示で黒色印に統一されたはずですが、為替取扱の3,000余局に徹底するのは昔も今も至難の業です。

もう1枚の守谷局は年表示が「丗一」でなく「卅一」となって面白いので、これも貼り足し。

砂取局は、二つのタイプの間隔が3年近く離れているため資料的な価値は低いものの、Delcampeを見始めたころ、偶然別々のロットとして同時出品されていたもので、思い出深さだけが大きいコレクションです。

小田局は叱られる前に同一印顆で黒色に変えています。

長府局は担当者が几帳面な方だったのでしょう。どれもきれいに押印されています。

最下段の後期使用は、もっと後期があるはずですが…。
 

【自己評】 リーフを作った時は新鮮に見えても、改めて眺めてみると「大したことないなぁ~」。コレクションは、いつでもそんなものかも…。

2014年6月2日月曜日

縦書為替印‐タイトルリーフの代わりに

切手展の出品には、いろいろとルールのある「タイトルリーフ」というものが必要と聞いています。
当分はとてもそこまで ― という現状ですので、タイトル代わりに、こんなものを拵えています。
上の方の表は、二重線の上が局種別の為替印使用状況。二重線の下部は、事務別の消印の種類の使用状況です。

この程度のことなら、今やさまざまな専門書や専門誌に書かれていますが、自分の知識の整理方法として作ってみると、結構面倒なものでした。

リーフ作りにはエクセルを使っていますので、こういう表をリーフの中で表現するのはとても便利です。

表の下は、必要な法令・告示・通達。
明治も30年代になると、現代の公告式とほぼ同様の形式が整ってきていたようです。条文本文の「但し書き」は一本書きではなく改行されているなど細かいところで差異があって面白いのですが、興味のない方には、すみません。スルーしてください。
感心するのは、印顆本体は「印章」と表現していること。シャチハタさんのサイトによると、「印鑑」は印影のことだそうです。

もうひとつ気になるのが、原文の「日附」「日付」の混用です。逓信公報令達類篇しか見ていず法令全書との比較はしていませんが、令達類篇の方が原文に近いと思います。
役所は、画数の多い字の方が重々しいと考えているのか、現代でも「附則」「附属病院」「附属中学校」など「付」は使われていません。

これらのうち、明治22年公達第446号は、明治19年の郵便電信局発足に合わせて発出されたであろうことはわかるのですが、たった一つの例外的なタイプを除いて遵守された形跡がありません。
その例外タイプとは「陸奥福岡型」。このタイプだけが、印鑑下部の3行を右から読んで「〇〇國〇〇郵便電信局」と表示されています。
今も昔も、結構良い加減な行政で…。

このリーフ全体で、明治33年10月1日の「郵便為替規則施行」を表現していないことに最近気が付きました。
この施行規則によって、すべての「郵便局所」で為替が取り扱われます。
「郵便局所」は、この当時は、(「内地」のみで言えば)郵便電信局・郵便局・支局・郵便受取所・郵便電信取扱所・郵便電信受取所・郵便取扱所です。
 ※ 郵便取扱所は通信船4隻内に設置。

2014年6月1日日曜日

縦書為替印‐振分型

昨日に続いて、郵便電信局の「振分型」のリーフです。
 
半欠けながらも、ビギナーズラックで5局揃ったので、それぞれの局のその後の使用タイプを含めて並べました。
実は、ある理由で、本当は全部赤二でそろえたかったのです。
また後日触れる機会もあると思いますが、あの澤護さんでさえ、「泥沼にはまるだけだから止めた方がよい」とおっしゃっておられる禁断のコレクション志向です。
本気で考えているわけではありませんが、できれば赤二にしたいという程度デス…はい。
半欠けはそれなりのお値段。京都が$10.00、青森が$5.99、秋田が€1.19…。

航空機が主要な輸送手段になる以前に、世界中の船乗りさんがせっせとあちらで買った切手をこちらで売って―のアルバイトに精を出してくれたお陰かと思っています。
軍艦の乗組員まで、この種の行商に励んでいたようです。
それら世界中に散らばった切手をネットオークションで見ることができる ― ありがたいです。
eBayDelcampe1年中毎日チェックしていれば、これが2年ほどで揃いました。

それでも国内の有力オークションは、格の違いを見せつけてくれます。富山だけは、ジャパンさんで然るべき値段。


【自己評】 5局完集は、こんな状態でもとりあえず満足すべきところ。その後の小郵電が恥ずかしい状態。
こういう展示の仕方なら、余程の予備軍を揃えておかないと…とは言え、侭ならんものです。