2015年5月21日木曜日

丸二型日付印 ‐ 東京郵便電信局/東京中央郵便局/東京郵便局 (5)

本日は、東京局のラストです。
丸二型日付印は、間違いなく郵便と為替・貯金事務とに使用されています。
(東京局に限って言えば、貯金事務に使用された証拠となるマテリアルは未集ですが…)

しかし、電信事務には使用されなかったようです。
前回、東京局に交付された印軸の本数について推測を書きましたが、きっと電信にまで使用できるような豊富な本数ではなかったのでしょう。

いわんや当初の公達からも除外された電話事務においてをや ― です。
電話事務は、郵便及電信局管制下でも通信官署官制下でも、郵便(電信)局の所管事務外でした。

そして、明治3612月の改正通信官署官制下で初めて郵便局の事務として位置づけられています。

それでも、東京郵便局局舎内では当初は取り扱わず、従来の錢瓶町庁舎で営業していました。
(~明治385月)

したがって、丸二型時代の東京局の電信事務は、従来どおり丸一電信印が使用されています。
電話事務も丸一電話印です。

では、丸二型の試用が終了して櫛型印の時代にどうなったかというと、説明がとても面倒ですので本日のリーフの最下段に掲げた表を御覧ください。





丸二型の例の「料金收納印」は遅くまで残りました。

実は、丸二型日付印を集めるに際して、「その後はどうなった?」という疑問が出てきました。
幸い手元に明治40年台の丸一電話印があったので「ぅん…?」となった次第です。

色々調べた結果が上掲の表です。

もうひとつの疑問がありました。

改正前の通信官署官制で「中央郵便局」という名称が我が国で初めて使用されましたが、
「その次にこの名称が使われたのはいつなの?」
という話です。

おそらくは中央官僚の非実務的な机上の空論で構築したのであろう官制は、10か月経ないうちに崩壊してしまいました。

明治434月に成立した「通信官署官制」(このブログでは便宜上「新通信官署官制」と呼びます)
で東京郵便局と大阪郵便局とが「中央郵便局」と改称されています。

しかし、日付印の上では、電話事務を除いて「東京中央」という表示はなされていません。
不勉強のため理由は不明です。

櫛型日付印に「〇〇中央」の表示がなされるのは、大正24月の「地方遞信官署官制」下のことです。

これも調べて、初めて判りました。消印は(消印も)奥が深いです。

最後に、まだ隠し玉があります。リーフに貼りつけた(スペースだけ設けた)日付印で全部ではなかったのです。

改正前の通信官署官制では、表に示したように郵便局の一部の事務を通信管理局が執行することになっていました。
数年前にヤフオクに出品されたものだったと記憶しています。
当時あまり興味が無かったので資料画像だけ残していました。

(出品は多分seiun19jp御大 …落札なさった方も含め大変申し訳ありません、画像を勝手に使わせていただきます。)

 
丸一電話印ですので、或いは丸一電信印もあったのでしょうか。郵便事務用の丸一便号空欄印はどうだったのでしょう。
どんな事務に使ったのでしょう。
「電話」と断り書きをしていますので、いわゆる消印洩れ消印ではなさそうです。

まだまだ判らないことだらけだということだけ判りました。

では、例によって穴だらけのリーフです。





























































【自己評】
隠れた珍品を見つけ出すこともさることながら、納得できるまで制度を詳細に調べるとなると、怠惰な私にはとても手に負えません。
何か解説書があるのなら、どなたでも御教示いただけると幸いです。





2015年5月12日火曜日

丸二型日付印 ‐ 東京郵便電信局/東京中央郵便局/東京郵便局 (4)

前回に引き続き、東京局の丸二の諸型を御覧いただきます。

まだ五月と言うのに台風が今夜遅くに京都に近づいてくるようです。
外は雨…。

水牛製の印がスポットで登場しました。
本池さんの研究では、明治353月初めから9月の終わりまで見られるそうです。

意気込んで捜してみたものの、なかなかの難物です。
滅多に見かけません。
ネットオークションで、3年ほどの間にわずか2回見ただけです。

そもそも明治33年末に東京郵便電信局に交付された丸二印の印軸は、一体何本だったんでしょうか。

時代は遡りますが、明治17年に柴田眞哉が描いた「郵便取扱之圖」では東京局の押印係は7人描かれています。
今一人は図外(図の左上)に居たとして、押印係は8人。


















さらに郵便引受窓口に一人、為替窓口に一人。
少なくとも計10本は必要です。

丸二印は当初の8駒型/35年からの3駒型ともに全くの官製です。そこへ、民間業者が(何らかの伝手を頼って)水牛製を納品したいと申し出たので、仕方なく寸法を教示し2本作らせてみた … まず、そんなところでしょう。

水牛製は、日付部は8駒型です。その方が作製する駒数が少なくてすんだのでしょう。ですから、日付表示が全体に右寄りになったりしています。
時刻はもちろん小数表示です。

仮に上記の仮説が正しいとすれば、水牛製の出現率は2 / (10+2) = 1/6 です。
実際の感じでは、1/10 以下のように思えます。

もうひとつ気になるのは、3駒型が登場した後、旧式の8駒型はどうなったか ― です。
先述の本池さんの研究では、分数表示の最終使用は36127日ということです。

本日のリーフでは繁忙期(年賀状)に使用された分数表示を示しています。

しかし、古い印軸(外径7.6分のもの)は351月以降に使用された形跡はありません。
(数少ない手元の資料からの推測です)
全て外径8分の新印軸に置き換わって、時刻分数表示の駒だけが一部残されて使用されたと考えるのが妥当と思っています。

前回御覧いただいたリーフに「東京」の文字の比較を表示しています。よく見ると、「京」の字体に二種類あるのが観察できます。

水牛製のタイプII36年の分数表示とを示したリーフですが、偶々両方とも欧米の商社が関わった葉書でしたので、柄にもなく両社の記号入り切手も並べてみたい ― と色々目移りさせながら拵えてみました。

本題以外のことをリーフにごたごたと並べたてるのは、展示の技術上マイナスであることは承知しながらです。

脱線ついでに、紐育S.O.発信の葉書に書かれた「チャスタ」等はオイルの商品名です。





























































【自己評】 いろいろと関係の無いことを書きこんだリーフは、詮索好きの私の趣味に過ぎません。
それでも、本題の丸二印の諸型を示すリーフであることを示すために日付データの書込みを網掛けするという姑息な手段に出てしまいました。

2015年5月8日金曜日

丸二型日付印 ‐ 東京郵便電信局/東京中央郵便局/東京郵便局 (3)

本日御覧いただくリーフから、ようやく本題に入ります。
東京局は、一部の支局に見られる「市名削り変種」を除くと、丸二型日付印の全てのヴァリエーションが見られます。

もちろん東京局にしか見られない変種も。

それゆえに厄介至極、面倒究極 ― 自ずから理屈っぽいリーフになってしまいます。
もちろんこのブログも文字の羅列ばかり。
それでも必要と思えばこそですので、どうぞご勘弁を。

実は先述の本池さんの教科書には明確には書かれていないことがあります。
印顆の直径です。

1995年の「駅逓」から関連部分を拾ってみます。

2種類の印顆があることについての記述)
「リングは前期のものは細く、後期のものは太めの印顆が残っている。」
(同時に示されている画像は、前期:分数  後期:小数)

3P型の出現)
341122日に改正の公達が出されたことを契機に、3個の活字で年月日を表示できるようなタイプが出現している。
使用例を調査してみるとこの新活字は3511日を表示した年賀郵便に使用したのが初めらしい。」

(水牛製の出現)
「年月日の活字が鋳造製とは異なる印影のものが残っている。[中略] この活字を使ったものは直径24ミリで、リングは1.6ミリと他のものより0.6ミリほど太い。」

1983年のフィラテリスト誌での本池さんの記述は、
「鉛合金製の印の直径は約22ミリ,リングの太さは1ミリ程度だが,後から使われるようになった水牛製の方は,直径約24ミリ,リングの太さ1.6ミリ程度と,多少大きくなっている。」

となっています。

「前期」・「後期」が何を指すのか、区分時期はいつなのか記述が洩れてしまっています。
私なりに印影で実測してみました。
その実測結果を印顆の種類区分としてリーフに書き込んでいます。

印顆の大きさについても、本池さんご自身はおそらく御存じなのでしょう。ただ、丸二の全貌を記述するという大変な仕事の中で紹介が洩れてしまったに過ぎないものと思われます。

私なりの結論を申します。

〇 最初に作成された印顆(業界の用語では「印軸」)は、外径7.6分 外枠幅0.3
   曲尺ですので、7.623.03mm  0.30.91mm
   となります。

〇 35年1月1日から出現した(主に小数表示)新型印顆は、外径8.0分 外枠幅0.5
   8.024.24mm  0.51.52mm
   です。 

〇 水牛製は、新型の印顆の大きさに合わせて作られた。

このように考えると、ほぼ本池論文と数値が似通ってきます。
大切なのは、内径です。旧型と新型とで互換性を保つために、内径は統一されていたはずです。

実際、新型の印軸に旧型の分数表示や、8駒の年月日表示を使用した例は沢山見かけます。

したがって、上記を換言すれば、新型も旧型もともに内径は7.0分=21.21mmということになります。

最後に、フィラテリスト誌での旧型の数値 「鉛合金製の印の直径は約22ミリ」 についてですが、
私の実測と1mmもの差があります。

この印影を御覧いただきます。















兩國支局ですが、枠幅は計測できないほどです。
仕上げの研磨を行う際、外向きにわずかなテーパーがかかってしまったのではないでしょうか。

さらに使用しているうちに磨滅でテーパーが強調され細くなった ― と考えるのが妥当と思っています。
それでも内径は、7.0分を保っていそうです。

よく似た例は沢山ありますが、私自身は外径で「23mm以下」と「24mm前後」とに分けています。

「お前の話一応わかったにしても、分類することにどんな意味があるのかね」とお考えの方もおいでになると思います。

ひとつは、既に田沢では印面の0.5mmの差で分類が確立していることを思い出していただきたい。
目が慣れてくれば、この印影の差も、物差を使わなくても区分できます。

もうひとつは、東京本局よりもむしろ東京支局での顕著な特徴です。
先に述べましたように新型の大きい印顆は明治351月から使用され、当然同時に小数表示が開始されています。
しかし、支局では35年の初めには旧型の小さい印顆に数表示が現れます。 

推測ですが支局については、当初は文字駒だけを交付したのではないでしょうか。
年末年始と言えば、そろそろ会計年度の締めの時期です。年度末の予算執行の最終整理を睨みながら乏しい予算を執行していかなければならない時期です。

そして年度末に執行見込み額が確定すると、印軸も交付する ― ありそうなことです。
これは、支局にリーフで詳細に御覧いただきます。

本池さんほどの御方に盾突くつもりなど毛頭ありませんが、印顆に使用された活字の呼び方について一言。

本池さんは、年月日を表示する活字について、最初のタイプを8本の活字を使用していることから「8P(ポイント)型」と、明治35年からの3本の活字を使用するタイプを「3P(ポイント)型」と命名されておられます。

現在では"ポイント"は、活字の大きさの呼称ですので、私のリーフでは、当時の遞信省が公達などに使用した「駒」という用語をそのまま流用しています。

あしからず御了承いただきますようお願いします。

それでは、やっとリーフです。





























































【自己評】時刻空欄の初期のものがなかなか見当たりません。
      或いは、当初は為替・貯金事務にはほとんど使用されなかったのかも。


------------------------------------------------------------------------------------------------------------
2015/9/3 追記

とんでもない思い込みをしていたということが判明しました。
「東京中央」局の時代からは全て8分環が使用されているような書き方になっています。

画像を見ただけで判別できる方は相当のスペシャリストと存じますが、リーフにお示ししたとおり「東京中央」の時代は8分環は未見です。

無いと断言はできませんが、多分無いでしょう。
そして、通信官署官制改正後に初めて8分環が出現しますが、7.6分環との混用です。

以上、お詫び旁々訂正します。
------------------------------------------------------------------------------------------------------------


2015年5月4日月曜日

丸二型日付印 ‐ 東京郵便電信局/東京中央郵便局/東京郵便局 (2)

丸二型日付印は、明治331228日に発せられた公達第768號によって使用が開始されました。
28日からなのか29日からなのか確証がありません。

現在見つかっている最も古いデータは、「33 -12 -29/前6 」だそうです。
エンタでは、「33 -12 -29/后8 4/6 」(あずき3銭×3枚 茶1銭×1枚の混貼)というのをどこかのネット画像で見かけています。

上記の公達は、
「東京郵便電信局郵便、郵便爲替、郵便貯金、電信日附印左ノ通改正ス
   但シ當分ノ内從來ノ日附印ヲ取交セ使用スルモ妨ナシ」

というさっぱりとしたものですが、実際には電信事務には使用されていません。(このことは後日お示しします。)

前回、元日の丸二型日付印の葉書を示す部分がブランクのままのリーフを臆面もなく御覧いただきました。

恥かきついでに、普通の収集家ならまず展示することは無いであろうエンタのリーフも御覧ください。

34 -1 -3/前4 」の消印ですが、5厘切手に大きなダメージがあります。
それでも気に入っています。

御存じのとおり、この年の前年明治33年の郵便規則で私製葉書の規定が新設されています。そして初めて迎える新年です。

私製葉書は大変なブームだったようで、報知新聞の附録です。
葉書の縁が歪んでいます。和鋏でちょきちょきと不器用に切ったのでしょう。

発信は、「日本橋區浪花町西 よしり 老母」となっています。
場所柄や屋号の感じから三業(料理屋・待合・置屋)のいずれかと思われます。

現在の日本橋人形町の北東の方の区画です。「浪花町西」となっていますので、旧人形町に接した境の付近でしょう。

宛先は、自称「老母」の娘さん。
神田錦町三丁目の「東京看護學黌」となっています。お正月にも実家に帰ってこないお転婆さんだったのかどうか。
それでも、お母さんとしては鼻高々だったのでしょう。高等女学校と並べて遜色のない教育機関だったのではないでしょうか。

そんな明治の雰囲気が感じられて、良いです。

もちろん文面の「あら玉のとしを」は枕詞の誤用ですが、他の丸二のエンタでも、かなりの教育を受けたと思われる人が同じ言葉を使っているのを見かけています。
このころには、既に一般化した誤用なのでしょうか。





























































【自己評】
スキャナが相変わらず赤味を強調してくれていますので、随分古色がかっているように見えます。
とにもかくにも、丸二の時代は明治の隆盛期(日清戦争で淸から獲得した康平銀2億兩がその元手です。)。
なにかそんな雰囲気を表わすリーフができればよいナ…と思っています。



2015年5月2日土曜日

丸二型日付印 ‐ 東京郵便電信局/東京中央郵便局/東京郵便局

投稿の仕方を忘れてしまうくらい久しぶりの更新です。

一昨日、有馬に行ってきました。
切手文化博物館が開設10周年を迎えられ、記念の特展が催されています。

金井コレクションを拝見するのは二度目ですが、とにかく疲れます。
さすがに本邦郵趣界のジャイアントです…。
手彫などは私には元来縁のない世界で、旧小判との混貼カバーのリーフを見たとたんに、ホッとしました。
貧乏症も、ここまでくれば大したものです。

それでも私ごとき素人にでも判る、夢のようなマテリアルの連続。
気に入ったエンタやシートを腰かけてゆっくり眺める椅子が欲しかった…。

我が国の博物館で、展示物をうっとりと眺めるための椅子を置いてくれているのは見かけたことがありません。
地元京都の国博でも、特展に行こうものなら週日にもかかわらず人の山。
椅子を置けるわけがないのは判ります。

とにもかくにも、有馬の博物館さんには、開設10周年のお祝いと貴重なコレクションを拝見させていただいたお礼とを申し上げます。

さて本題ですが、先に色々と並べたてました縦書為替印と同様、御覧に入れますものは、もとより教科書をなぞっただけの ―或いはなぞりきることもできない― 未完コレクション。

こんな展示の仕方やあんなレイアウトはどうだろう…みたいな「練習帖」に過ぎません。

で、まずは大事なインフォメーションを。

丸二の教科書といのは、本池悟さんの「詳説 丸二型日付印」しかありません。
しかも、入手できません。

しかし、救世主がおわしました。
国立国会図書館です。
鳴美さんは、しっかりと献本制度を守っておられます。
以前にも書きましたが、国会図書館には「駅逓」の年ごとの合本があります。

19巻の第5号と第6号に、IIIとに分けて上記のタイトルで掲載されていますので、コピーサービスを依頼すれば10日前後で入手できます。
お値段は、コピー代と送料のみで2,000円も要りません。後払いです。お得です。

私のリーフに取り掛かります。
タイトルリーフが必要ですが、未完成です。

いきなり、1ページ目ですが、いきなり穴だらけです。













丸二の年賀状は必須アイテム ― 承知してます、ハイ。

赤二の方は、日付の「3」の右隣にわずかに「0」の片鱗が見えるということでご勘弁ください。
3年前にクロアチアの方から落札したものです。赤二の大量のロットでほとんど無競争。
設定されたリミットが良いお値段でしたが、十分に引き合う程度。

【自己評】
世の中には、12月付けのエンタもあるそうな…。
掘り出しだけでは、コレクションは難しいです。