2019年3月11日月曜日

縦書為替印‐新発見 内地3局目のダルマ型

内地では3局目となるダルマ型の発見です。

(クリックで拡大します)




























































羽後(秋田)院内郵便電信局です。
後志の南尻別局、對馬の小茂田局以外にもまだ有るのかも知れません。

院内局は明治23年には為替事務を取扱い、明治30年に郵電改定されています。
したがって印顆更新です。

消印日付は 34.12.16 です。小茂田局と同様に34年中の、恐らく同一の印判業者による製作と考えるのが妥当でしょう。

局名部分の字体は、3局ともに水平/垂直な直線を多用していて角張った印象を受けます。

以前ダルマ型のリーフをご覧いただいたときに、
新設の南尻別・更新の小茂田ともに同一発注、同一業者の受注ではないかと書きました。

https://kitte-renshucho.blogspot.com/2014/06/blog-post_13.html


南尻別は明治34.2.1 開局ですので、多分明治33年末ころの出来事と思われます。
当該年度の予算について収支ともにほぼ見通せるのが年末ころ。

廳費に限りませんが、年度当初は手元の歳入現金自体が少なく、日露戦景気に沸く前は慎ましい予算執行であったと思われます。

恐らく、かなりの執行制限がかけられていたのではないでしょうか。
(史料がなく憶測です)

さて件の印判業者ですが、当時の逓信省の規則では、
郵便関係の消耗品については、見積額5円未満は3円以上の納税者でないと入札に参加できませんでした。

このようなスケールの発注区分であるならば、相当の数量を請け負ったと思われます。
あるいは、競争入札に付することなく、随意契約で少量を発注していたのか実態は全く不明です。

南尻別に関してだけでも、縦書以外に丸一や局印・局長印・爲替之章…
多種の印章製作が必要です。
さらに、同時開局の北海道11局も併せて発注されているはずです。
これに加えて、多種多局の更新印顆を抱き合わせて受注 ―となれば、多くの弟子を抱える大業者でしょうか。

想像することしかできませんが、楽しいものです。

以前にご覧いただいたリーフから、収集がほとんど進んでいません。(このクラスの稀少度なれば当然のことです。)

新たにリーフを作ることもできず、ただの臨時ニュースの投稿です。

臺灣の北斗だけでもご覧いただきます。






















































自己評
小茂田のダルマと院内の月IIK33年使用例が無いとリーフは作り直せません。
「生きてるうちに」さえ難しいところです。











2019年3月4日月曜日

靑島俘虜郵便繪端書 - 名古屋收容所                              Ansichtskarten der Kriegsgefangenenpost Tsingtau

今回は、失敗作です。
ですから気乗りせず、いやいや書いています。

沢山あった収容所は、最終的に6箇所に収斂します。
500人規模3箇所と1,000人規模3箇所です。

名古屋はそれらのうちの小規模収容所に属しますが、大規模収容所の大量生産風画一エンタでない手作りの面白さ=収集家しか喜ばないような小さなヴァリエーションがあります。

前回の福岡同様、俘虜郵便印/SDPDG印の変遷をテーマにリーフ展開したつもりだったのですが、全体を眺めてみると、その流れがさっぱりわからなくなってしまっています。

それぞれのリーフ自体はまずまずの出来と思っていたのですが…。
リーフづくりはできても、リーフ展開の技量は無かったということでしょう。

リーフにはもう一つテーマを放り込んでいます。
郵便史コレクションのマストアイテム=逓送ルートです。

大雑把に言うと、
① 1915(大正4)年末ころまで    シベリア鉄道輸送がメイン
                  南太平洋・インド洋でドイツ軍が
                  通商破壊
                  その後、対英海上封鎖で海運停滞

② 1916(大正5)年初めころから   ロシア政府の俘虜郵便検閲や
                  妨害回避のため、ドイツは海運を
                  選択

③ 1915(大正4)年10月ころから   U-Boot が地中海で通商破壊活動
                  このためスエズ運河経由の海運が
                  激減

※ したがって日本からの東回り航路がメインになります。
  しかしパナマ運河の崩落事故が続発、北米西岸⇒陸路⇒北米東岸⇒大西洋
  という航路がメインの選択肢でした。

  さらに軍需物資の輸送・各国軍による船舶徴傭で船腹不足が常態化し郵便逓送や民需
  は打撃を受けます。

※ なお、1918(大正7)年3月から俘虜郵便以外の全郵便物もシベリヤ経由は廃止に
 なります。

もとより開戦中のことですので、独⇔日の郵便物は全て中立国を経由するという迂回ルートまで強いられています。
(シベリア経由はスエーデン、大西洋経由はスイス)

これらのこと全てをリーフ展開の中で示すのは、マテリアルの良否もさることながら、全リーフにわたる統一表示が必要なのかと思います。

では、お目汚しの失敗作を。
クリックで拡大します。












































収容所の俘虜の出入りと所在は基本中の基本ですので、表づくり・地図作りは、私自身が理解して納得するために続けてゆこうと思っています。












































見物人との混乱回避のため、はるか南の熱田駅で降車させたようです。

さて、リーフに貼り付けた Firma Kunst&Albers 漢口支店の E. Hueschelrath さん宛のクリスマスカードには、第18号室に収容された11名の署名があります。

もちろん金品寄贈を期待しての挨拶カードと思いますが、署名の中ほど左側に
Fritz Krautwurst という署名があります。キャベツソーセージという姓は初めて見ました。
一等海兵さんです。


ようやく本題 ―まず、大谷派本願寺別院時代の3リーフです。












































































































俘虜郵便印・檢閲濟印ともに枠付きと枠無しとがあります。理由は分かりません。
日露戦でもこの別院が使われましたが、その時の印顆とも異なります。

新発見を一つ。
R-R本では (u) とされた検閲印が郵便担当ではない方の先任中尉長長成さんの印と判明しました。

大正4年5月の「職員錄」に載っています。


























続いて、バラック時代です。











































ペトログラードで検閲していたようです。
検閲印無しの郵便も残っていますので、抽出検閲と思われます。

それでも順番が回ってくるまで一箇月以上待たされます。
失礼ながらそのおかげで、バラック初期便になりました。










































































































































































さすがに収容期間が長くなると、このリーフのような恨み言も言いたくなります。
初期の「元気溌剌でここに到着」とエライ違いです。

最後は、解放の日の切手を貼った葉書です。












































リーフ下部に小さい神戸市内の地図を入れましたが、「KOBE」局と「KOBE2」局とが併存したかどうかは不明です。

欧文印ですので引受時刻は不明ですが、必ずしも俘虜引渡し後に差し出されたとは考えていません。

朝の6時に三宮に着いてお昼まで随分時間があります。まだ俘虜身分のままだからと郵便局に掛け合うこともなかったでしょう。

気前よく4銭切手を貼ったことと思います。

【自己評】
反省点は本文のとおりですが、諸事象の変化や流れを明示するためには、1リーフに葉書2枚を貼り付けるような方法も検討してみます。