2016年6月9日木曜日

青島俘虜郵便‐名古屋寺院収容所                              Die Kriegsgefangenenpost Tsingtau                                 - Das Nagoya Tempellager                               Seesoldat Konrad Drzisga Gef.-Nr. 2507

今までこき使ってきたWindows Vistaがついに昇天されました。
代わりに届いたWindows Edgeの使い勝手は得も言われず、摩訶不思議…。

「お気に入り」がとてつもなく使いづらく、それでも慣れる外ありません。
さて、梅雨にも入り本日は名古屋寺院収容所です。

収容所研究についての偉大な先達方の案内をウェブで拝見するのですが、もう一つ要領を得ません。

アジ歴も肝心の部分が見つからず、それでもやっつけてしまいました。
しかも俘虜の二等兵さんのお名前が「Drzisga」。

どう発音するのか迷いました。 ― そうか、ロシア系か…。「ドゥロツィスガ」。
なんとなく一人で納得してしまっています。

次は、恒例の収容所の場所探し。
「チンタオ・ドイツ兵俘虜研究会」の名古屋収容所のページには

「門前町の東本願寺西別院天寧寺および梅川町の長楽寺等に」と述べられています。

いろいろ調べましたが、「西別院」ではなく「別院」のようです。
「西別院」は本願寺派の別院の意です。

したがって、東西を付すなら「東別院」。
もっとも名古屋市内のすぐ近くに西別院もあります。





























毎日お世話になっている「今昔マップ」さんからの切り貼りです。
次に判らないのが「天寧寺および梅川町の長楽寺」。

ネットで調べる限り天寧寺は西別院のすぐ東側に今も見つけることができます。
長楽寺はネットでは南区。梅川町でもありません。

しかも、アジ歴では私は両寺の名前を見つけることができませんでした。

今月から名前を変えた旧「近デジ」。
大正4年刊の「名古屋市史 社寺編」に掲載されていました。









































ともに曹洞宗のお寺さんです。
「長楽寺」に似た名前を探しました。

これでほぼ作業は完了ですが、両寺は将校宿舎に充てた等の記事が見つかりません。
仕方なく見切り発車です。

次に興味を引いたのが絵葉書の裏側。
どうも「Abs.  Seesoldat private  Drzisga」と書かれているようです。












私の読み間違いでなければ―の話ですので、拡大図を入れておきます。
英語なら二等兵ですが、ドイツでもそういう呼び方があったのでしょうか。

リーフです。
縦書きの朱印「俘虜郵便」と「檢閲濟」とが仲良く並んでいますが、二連印ではなさそうです。






































































【自己評】このリーフも調査が中途半端に終わって「推定される」などと書かざるを得ませんでした。
残念。

2016年6月2日木曜日

青島俘虜郵便‐大分収容所                              Die Kriegsgefangenenpost Tsingtau                                 - Das Oita Lager                               Oberleutnant Wilhelm Schliecker Gef. -Nr. 2050

今回御覧いただくような悪筆は大変に疲れます。
ジャパンさんのPA92ノービッドお余り品です。

読むのにとても苦労します。読めません。しかも、珍しい名字。時間がかかります。

このこととは逆に、収容所の所在はすぐに判りました。
しかも、事務所の位置まで。

公式記録での収容所の所在地は、事務所の位置を以って代表させています。

幸いにもアジ歴で、大分他の収容所から人員増員願いが陸軍省に提出されています。
大分は、涙ぐましくも分散収容所と事務所との位置関係・道矩を図解してまで増員の嘆願です。(JACAR-Ref.C03024470100














































将校用宿舎に充てられたのが赤十字大分支部の建物。
全室洋室で、将校用として相応しく思えたのでしょう。

下士卒用宿舎は、大分市立第一尋常高等小學校。4棟の校舎のうち1棟を使ったそうです。
(収容所に充当された時の名称です。以前は郡立。)

二つの建物のことは、大分県立図書館のサイトや別府大学の安松教授の論文等にも詳しく書かれているので、助かりました。

リーフは、絵葉書の裏の大分支部の写真も大きくコピーしたかったのですが、二つの収容所と事務所との位置も図示したかったので、しかたありません。



【自己評】

将来、各収容所ごとに複数の絵葉書を並べられるようになれば、サブタイトルリーフ風に収容所の地図や関連データのみのリーフを作り……まだ先のことです。
筆記体が読めません。葉書宛先の工場は、"Ultramarinfabrik"と書かれているようにも思えますが「群青の工場」―何のことやら。
もうひとつ、葉書の通信文も。〇〇グリュッセのようですが、これまたさっぱり。
まあ、気長に何年も付き合えば解るようになるのでしょう。

さらに気になるのが、私のドイツ語表記です。例えばタイトルも、Oitalagerと書いてもよいのかダメなのか。まったく知りません。

なお、葉書右下の「A396」は郵便物管理のための俘虜ごとの番号なのかどうか判別できませんでしたので、今回はパスしておきました。

2016年5月25日水曜日

青島俘虜郵便‐大阪収容所                              Die Kriegsgefangenenpost Tsingtau                                 - Das Osakalager                               Vizefeldwebel Heinrich Müller  Gef. -Nr. 4561

今日は大阪収容所です。
ここ何度かの投稿は、収容所のロケーティングに凝っています。

チンタオ・ドイツ兵俘虜研究会さんのサイトでは、
「西区恩加島町の府警察部衛生課管理隔離廠舎に開設」、

タカハシスタンプさんは
「大阪市西区南恩賀島町(木津川下流)の大阪府警察部衛生管理隔離廠舎が利用された」
と書いておられます。

「隔離廠舎」と言われているものが本当はどんな名称だったのか気になりましたので
ネットで調べると、『「ユーハイム」を歩く』というサイトに行き当たりました。

現地訪問までしておられました。「隔離所」と呼ばれたそうです。

菊切手の発行された明治32年以来、大阪は幾度かペストに襲われています。

府が明治413月に西区南恩賀嶋町に開設した「大阪府立木津川隔離所」というのが正しい名称です。

この翌年、明治427月の末に大阪は大火に見舞われます。
このときも隔離所が罹災者の避難所になっています。

どんな施設かと調べますと、ありました。








































明治423月発行の「大阪府百斯篤流行誌 巻二」の計画平面図です。
「大阪府木津川隔離所」と書かれていて「立」の字がありませんが、明治434月の「大阪市大火救護誌」では「大阪府立木津川隔離所」です。
(※ 上掲の両書はいずれも近デジ)

地方自治法で定めている「公の施設」は(設置者名+立)を冠し、その他の行政機関の名称には「立」を附さないこととされています。
(例: 京都府立〇〇高等学校⇔京都府〇〇保健所)

施設の名称に、明治時代からこんなルールがあったのか否かまでは知りません。
ただ、元木っ端役人としては「立」の有無が気になった ―というだけです。

上図は計画図です。竣工図は見つかりませんでしたが、大正元年発行の2万分の1測量図はこうなっていました。











ともあれ左様な由来の施設です。アジ歴ではペスト流行の再発に伴い大阪府から施設の返還要求がなされたとの史料をみることができます。


































































Jacar-RefC03025301300
結局このときの流行は幸い大きくはならず、杞憂に終わったようです。

さてリーフですが、大阪収容所の初期に見られる二重丸の俘虜郵便印。
大阪には、後期に見られる(ごく稀にデス)差出許可切手と呼ばれるシールもあって、そちらの方が難関です。

差出人は、Der  Landsturm 「国民軍」と訳されています。「義勇軍」の意味ですが、自発的な参加なのかどうか怪しいのは、万国共通。

御本人さんも非戦闘員であるとして解放願を出されたそうですが、アジ歴を探しまくって見つからず仕舞です。(ちょっと悔しい…)

国民軍は俘虜の中でも100名程度。若くない方が多いと思っていましたが、そうでもないようです。
この方、戦闘参加時は約30歳。

俘虜の内訳は、
III.S.B.が2,300
M.A.K.1,100
O.M.D.400
国民軍は大した戦力ではありません。

奥さんと息子さんとを靑島に残して気がかりですわな。
港に面した大通りにお住まいだったようです。

靑島郵便局員が薄墨で書いた「徒牛」が判りません。
日本軍駐留後の地図を眺めて「囚禁所」 ―多分これだろう…。(徒牛=徒牢)
1枚ン千円もするだけあって、随分時間をかけて楽しませてくれます。





































































【自己評】絵葉書に特化したコレクションのつもりが、このエンタの場合、葉書裏の写真に大きな意味はありません。
ひょっとしたら、こんな感じのリバーサイドラーゲリだよ―と奥さんに言いたかったのかも…。

2016年5月11日水曜日

青島俘虜郵便‐久留米寺院収容所(来日俘虜第1号)                        Die Kriegsgefangenenpost Tsingtau                                 - Das Tempellager (Kurumeamt der Otanischüle)                                  Gef. -Nr.513 Paul Iserlohe

初期の収容所は、下調べに骨が折れます。
今日は久留米寺院収容所。

梅林寺と大谷派教務所とに分けて収容された ― まではすぐに分かりましたが、それどこ?
となるといきなり大変でした。

梅林寺は今もその姿を拝めます。ところが、大谷派教務所は日吉町ということしか手がかりがありません。

日吉町で大谷派のお寺さんは、順光寺。後はこの頃の地図に「眞宗九州中學」というのを日吉小学校の東隣に見つけています。

久留米市教委の文化財保護課さんが一昨年収容所にまつわる展覧会を開催されたようですのでメールでお伺いしようかとも思いました。

何でもかんでも聞くというのも癪です。執拗に調べると、電網恢恢です。近デジで久留米市誌に記載があるのを見つけました。





































最後に残るのが、収容所本部の位置。
これは、今も判りません。

タカハシスタンプさんのブログでは、「久留米教務所近くの本部事務所(借用民家)」との記載があります。

アジ歴では、大正42月の植田謙吉少佐の視察報告に「下士卒収容寺院對屋」との記載があります。(※Ref-C03024453500

梅林寺からは既に撤収し、香霞園・高良内・大谷派教務所の時代ですが本部事務所の位置は変わっていません。

ただ具合の悪いことに、教務所のお向いさんは日吉神社。
境内の一部が民家であったのか、教務所の門が北か南を向いていたのか不明です。

上掲の報告書では植田少佐一流の細部へのこだわりで、俘虜の部屋より本部事務所の方が貧弱だとか、俘虜に日本語を教えるのは害があるとか好きなことを書き散らかしてます。

それはともかく、収容所開設当初は初めてずくめ。慎重に事を進めています。
大正310月には「衛兵服務規則」(アジ歴Ref-C14060954400)を作っていますが、そこに職員の一覧までありました。






































こんな詳細なものは、他の収容所ではあまり見かけません。
山本茂中尉は、検閲印でおなじみの御方。

或いは、赤司大尉が住所にしているところが本部事務所だったのかも。

しかし、これらの記録は厳密さに欠けているところも散見されます。

(例1
留守第18師團長から陸軍大臣への収容所開設報告では、「104日開設」、「下士宿舎 日吉町大谷派布教所」と書かれています。

(例2
陸軍省から留守師団への俘虜収容の通牒は
「中少尉各1、下士9、卒44」ですが、
同師団からの復命では「将校2、見習士官1、下士10、卒42」。
総数は一致しています。

彼我の階級比較は難しいです。戦時の混乱中のことでもあり、武官だからということもあるのでしょう。

リーフですが、ドイツからの到着便でどうもフィアンセか恋人からのようです。
Schmidt名簿にも頻回の手紙のやり取りが記録されています。
 ※ 以前にもこの方の名簿は引用していますが、誤って"Schmitt"と綴っています。訂正します。





































































【自己評】あれこれと調べ始めるとすぐにカレンダーが進んでゆきます。
私の性分に合っています。楽しいですが、面倒です。

2016年5月4日水曜日

青島俘虜郵便‐松山収容所その2                        Die Kriegsgefangenenpost Tsingtau                                 - Das Matsuyama (Dairinji) Lager                                  Gef. -Nr.2866 Johann Freyenhagen

前々回の板東の投稿で、「1収容所1リーフ」と書きましたが手元に大林寺の絵葉書があったので、忘れないうちに片づけてしまいます。

俘虜の誰かさん作成の平板測量図のお陰で、どこからどの方向を撮影したのか一目瞭然。
誠に結構な回遊式の庭園です。

17人のうち、どの方がFreyenhagen兵曹さんやら判り兼ねますが寛いでおいでの御様子。

階級の「Obermaat」は兵曹/曹長などいろいろな訳がありそうです。陸軍の兵隊の位で言うと伍長さん。

所属中隊も、チンタオ・ドイツ兵俘虜研究会のサイトではM.A.K.1中隊」ですが、Schmitt名簿では「突撃中隊」。多分同じなんでしょう。

折角、お住まいの様子が判る写真ですので、部屋の広さも調べました。収容所日誌(Jacar.Ref-C10073195300)に詳細に残っています。

大林寺に限らず、山越・公會堂ともに2畳/人の広さを確保しています。
折り畳みベッドを持ち込んでいたそうですので、布団と同様に昼間は多少なりとも広く使えたのでしょう。
それでも広い本堂などは夏の暑さは…。

この方、シュレスヴィッヒ=ホルンシュタインの御出身で、早期解放されています。

私も知りませんでしたが、民族自決主義に基づいてデンマーク/ドイツへの帰属を決める国民投票があったようで、デンマーク赤十字の要請で同州出身者は早期解放。
(ただし、解放後にドイツ国籍を取得しないという条件付き。)

収容所日誌に目を走らせていますと、やはり3箇所に分散というのは大変だったようです。
前回の山越地区は、町はずれということもあり、「怪しげなる婦人が住まいし」と報告されています。

そのお陰で、性感染症で入院する俘虜も数名いたようです。
律儀な国民性とは言え、若い男性ばかりです。

前回の山越に配置された新婚軍曹さんも、上海に荷物を送る際に箱の二重底が見つかって20日間の重謹慎を課されています。

やはり兵隊さんたちは、当然に反抗心もあったのでしょう。

リーフです。




































































【自己評】山越と重複するような押印の表示は省略してみました。面白そうな(と言えば失礼ではありますが)事項だけをリーフに書き込むというのも、やってみたかった…。

2016年4月29日金曜日

青島俘虜郵便‐松山収容所                        Die Kriegsgefangenenpost Tsingtau                                 - Das Matsuyama (Yamagoe) Lager                                  Gef. -Nr.3175 Alexander Wunderlich

今日は、前回の板東の前身 松山収容所です。
最初に開設された久留米に次いで2番目に古い収容所で、日露戦争の俘虜達もお世話をした"由緒ある"収容所ではあります。

ロシア兵はドイツ兵より良い待遇を受けたそうで、松山では将校さん方は宴会・芸者を堪能されたとか…。

ただ、受入れ人数はドイツ兵の方がはるかに少なく、その分一人当たりスペースは人道的であったはずです。

一箇所に集められるほどの広い施設はありません。仕方なく日露戦のときと同様、三箇所に分散させます。

現城山公園南東角近くの「公會堂」、伊予鉄古町駅南の「大林寺」そして山越地区の五つのお寺。

管理も不便だったようで、開設当初は第22連隊に収容所本部が置かれていました。
その後、大正41月には本部を大林寺に移設、「公會堂」「山越」はそれぞれ「〇〇分置所」と呼ばれます。

アジ歴文書です(RefC03025316100)































脱走兵逮捕劇の報告ですが、「大林寺本部」、「公會堂分置所」と書かれています。
実は他の文書では、「北山越分置所」と書かれていたりして一定しません。まあ、判ればよかったのでしょう。

今日の絵葉書の発信者は、この山越地区収容の 2等軍曹さんです。

新婚さんです。(第一倦怠期といわれる"三年目"ですが…)
さすがに新婚、葉書本文には発信者が"Dein A."としゃれて書かれています。

葉書の写真は山越からの眺望。収容所北東側の丘から西を眺めて、現在久万の台公園になっている山らしきものが正面に見えます。

この時代の付近の地図がネットで拾えず、止むなくGoogleさんのお世話になりました。
山越の五つのお寺は今も健在です。































リーフに貼りつけた地図では、当時の交通の便が不明確です。かなり小さいながらネットでもうひとつ画像を拾っています。















当時の伊予鉄関係の地図ですが「木屋町」駅すぐ西側の南北に走る道を北に進むと五寺に行き当たります。

リーフにもう一枚図面を貼りましたが、俘虜の誰かが3収容所の平板測量をしています。
出色の出来で、山越は五寺南西角から北に延びる道(これが木屋町駅に続きます)と南側の東西に走る道との法線交差角が現状にぴったり一致しています。

軍隊のことですから正確な測量は当然ですが、几帳面な方です。

松山収容所発信便に必ずと言ってよいほど「本宮」印が押されていますが、これは収容所ナンバースリーの本宮中尉とおっしゃる方です。

悪者にされているナンバーツーの白石大尉とともに忙しい毎日を過ごしておられたようです。

リーフです。




































































【自己評】
だんだんとドイツの筆記体にも慣れてきましたが、さっぱり判らない部分はしょっちゅうです。この葉書の宛先市 "Iserlohn"の後に書かれた略号は何でしょう?
どなたかお教えいただけると大変にありがたいです。

2016年4月20日水曜日

青島俘虜郵便‐板東収容所                                Die Kriegsgefangenenpost Tsingtau - Das Bando Lager Gef. -Nr.4321 Josef Weber

久しぶりの俘虜郵便リーフです。
縦書やら丸二やら消印を集めている間もせっせと俘虜郵便(絵葉書)の材料を何十枚か揃えました。

今日はあの板東ラーゲリ ― この葉書以外にも何枚か入手しましたが、とりあえずは全体の整理をしたいので1収容所1リーフのペースで進めてゆきます。

板東については、既に随分深いところまで研究されていることを改めて知りました。
絵葉書を眺めると、それでも判らないことがいくつも出てきて調べ甲斐があります。

御覧いただくエンタの差出人は、Josef  Weber と判読できます。
(「Abs.の欄は「Jos. Weber」ですが通信文末尾に「Josef」と書かれています。)
ところが Schmitt さんの名簿によると、板東在籍の同名さんがお二人。

お一方は III.S.B、もうお一人はM.A.K. 判別できませんが葉書の表書きがヴェストファーレンのお嬢ちゃん宛、しかも随分親しそうな書き方なので、そちらの御出身 ― M.A.K.所属の方と判断しました。

そこまで決まれば、あとはネットで選り取り見取りのデータの山。
収容所内のTapautau 5番小屋大工さんをしておられた ―まで判りました。
(家具屋さんとの解釈もあります。)

タパオタオは、
























のことです。

中国語でもDa(1) pao(4) dao(3) [カッコ内は声調]ですから音を正確に写しています。
青島中心地の北部にある中国人商店街(多分、占領・街路づくり時に追いやられた場所)です。

板東では敷地の南西角に俘虜たちの商い小屋が建ち並びました。

さて、残るは絵葉書の裏(表?)。
富田町は歓楽街、秋田町は遊郭のあったところのようです。

小初さんという名前。この衣装では芸・娼の判別ができかねますが、児ポ法に触れそうな年齢のお嬢ちゃん。

J.Weberさんは知人(或いは姪っ子)の女の子に日本人形でも贈るかのように葉書を選んだのでしょう。

検閲者の「アラカワ」は丸亀から異動で来られた通訳の荒川充雄さんであることが判っています。

リーフです。


【自己評】
リーフ展示のパターンはほぼ安定し、エクセルの原稿作りに余計な時間を割く必要は無くなりましたが、今度は、どんなテーマをどのように伝えたいのか全く分からないリーフの集積になってしまいそうです。

この時代の空気の片鱗を伝えることは面白いと考えていますが、コレクション全体を眺めて何か一貫したものが無いと…。
やってみないと判らないので、とにかくひたすらリーフづくりに励んでみます。

2016年3月17日木曜日

丸二型日付印 ‐ 長崎 本博多局

楽しいはずの趣味のブログも、暫く抛っておくと続けるのが厭になります。人の業の深いことかなと思い知らされます。

気を取り直して丸二シリーズもいよいよ長崎ですが、また郵便物がそんなに多くなかったようです。
丸二使用局(本局)の中で、明治39年から櫛型のX2を使用した唯一の局です。

本博多局も、丸二使用の旧郵便(電信)支局の中では唯一のX2櫛型印使用局。
ですから、完成された時刻データがありません。

神戸局と同じく、長崎局のリーフ作りはスキップ ―。
ですが、逃げてばかりでは力量は上がりません。

やけくそ気味ながら従前拵えていたリーフをそのまま御覧いただきます。
まず長崎局ですが忸怩たる集まり具合で、表示時刻の解明などは及びもつかない状態です。




































































続いて、前にスキップした神戸局。




































































折角現時点での初日印(しかも横濱正金銀行神戸支店の穿孔付き)を持っていながらリーフ上に活かす術を知りません。

まずはまずは、この程度の浅い収集ですから今後もそのつもりで御覧ください。

さて本博多局についてですが、先日こんな青枠葉書を入手しました。














































さしたることのない代物ではありますが、私にとっては青天の霹靂。
「そうか、東京局以外の時刻表示は鉄道輸送の時刻に従うことが有りうるのか。」

というわけで、近々この時期の時刻表を探し出してやろうと企んでいますが果たしてどうなることやら。

そういう次第で、長崎局・本博多局・長崎駅の位置関係の判る地図をリーフに入れてみました。
また、偶々入手済みの同局の時刻に午前が多かったのも幸いしました。

多くの使用済みが残っているような局なら、こんな集まり方はしません。以前に麹町局の投稿で述べましたが無作為に集めるとほとんどが午後便のはずです。

でたらめに集めてみて午前便が多かった ―というのは残存数の多くない証左でしょう。

リーフです。

本池さんの本には、長崎局=本博多局間の伝送は「片便8便/日」であったと書かれています。

「片便」の意味を調べると、明治33年の公達第432號「郵便取扱規程」§94各号列記と§99とに定義がありました。

早い話が、「長崎⇒長崎駅⇒本博多局(又は長崎⇒本博多局⇒長崎駅)のルートで伝送するけれども往復ともには立ち寄らないよ。片道だけだよ。」という意味です。

反対語は「持戻便」。伝送ルートで往復ともに途中の局に立ち寄ります。
この「郵便取扱規程」は随分長生きしたようで、少なくとも大正末まで、一部改正を続けながら存続しています。

もうひとつ、やっかいなことに長崎駅の位置が明治38年4月を境にその位置が変わっています。
現浦上駅が元の長崎駅であったものを、南に2kmほど延伸して現在地に新設したとか。

全て日露戦争の影響です。兵站線に都合のよいように国造りが行われました。
列車の時刻もまた然りです。軍事輸送の都合でダイヤがころころと変わったそうです。

或いは、「前 6」/「前 6. 30」の変化もダイヤ構成の所為かも ―と想像を逞しくして喜んでいます。
リーフ上で37年3月の消印を37年度に入れ込んだのも、そう考えるとしっくりとなじむからです。

逓送人を差し立てる長崎局の側から見れば、立ち寄り先の位置関係から見て不便な作業で、「本博多局から逓送印人を差し立てろよ」と思っていたのではないかしらん。


続いて、エンタも。




































































栗色3銭は、片銘ながら銘版文字の位置から朱雀大路版と思われますが消印のリーフには関係の無いことなので、知らん顔をしておきました。

【自己評】
こけつまろびつながらも、ようやく全局のリーフづくり(作り直し)を終えました。
拵えた尻から、いろいろなものが手に入るので、今まで御覧いただいた手元のリーフも元の姿をとどめていません。
リーフの再構成に使えそうなマテリアルを余白にべたべたとヒンジで貼りつけているだけですが…。

丸二は一先筆を擱いて(タイプキーを止めて)次回から、再び俘虜郵便のリーフづくりに励みたいと考えています。

2016年2月19日金曜日

縦書為替印‐月型 その3(小笠原型)

こちらの方はお値段以下です。台が赤二というだけで年月日は読めません。
太首の5銭の方は1年前の拾いもの。10GBPでした。

余りにブランクの目立つリーフでもあり、何かデータを ―と思って探しました。
全国の為替振出口数の1/10,000です。一口当たり単価もほぼ全国と同じ。

逓信省年報では、明治30年度で5,497の振出、49,290千円となっています。
人口も全国で43,000千人ですから、同じような比率です。

リーフです。






































































【自己評】人生観は何となく楽天的になってきています。今後の10年でブランクのうちの1枚くらいは埋まるんではないでしょうか。

縦書為替印‐郵便電信取扱所  ― 温泉と中宮祠と ― リベンジ

三月ほど投稿できませんでした。
昨年末に母親が他界し、冥府への一番札が私に回ってきました。多少なりとも人生観も変わります。

ようやく、従前とは異りながらも平常の生活を取り戻し始めています。
この三月間、切手と縁が無かった訳ではありません。

やるべきことはやりました。
しかも、収集の度合いから見ても経済状態から見ても分不相応なことを。

年金生活者にはあるまじき大勝負でした。
落札した日は一日体の震えが止まりませんでした。








































三文収集家の義務として、画像データくらいはしっかりと公表しておきます。
 (かば焼きの臭いだけみたいで恐縮です)

「お前には相応しくないから、こちらに寄越せ」というお声が聞こえます。
すみません。

eBayです。昨年のクリスマスイヴ。一家族がつつましく一月暮らせるほどの大金でした。
他界した母親からの感謝の贈り物と心得ています。

身勝手な都合のよい解釈ではありますが、15年間毎夕病院/特養に見舞いに行き喫食の補助をしてきた報酬としてありがたく頂戴しています。

一月の下旬に四十九日も済み、今月にようやくリーフを拵えました。






































































以前にヤフオクで中宮祠の郵便受取所(通年開設)は入手していましたので、あと1枚でコンプリートと思いながらリーフを作ってみると、全貌が提示できるところまで道矩はまだまだ長いことが判りました。

しかも不都合なことに、温泉の方は丸一に「電信」と「便号空欄」とがあるようです。
菊の10銭はブランクフィラー、便号空欄のつもりです。

中宮祠櫛型の1円は拾いもの。電話使用でしょう。

そして、両取扱所の性格を示すものとして、長逗留してはる欧米人の発出したエンタは、リーフ展開に必須と思っていますが、温泉は入手の機会がありません。

【自己評】この消印の入手も人生観を変えてくれました。出品したイギリスの方も人生が変わってしまったようです。
(思わぬ大金を手にすると人は変わります。我が国の政治家の例を出すまでもなく…)

続いて、同じ日に同じ出品者が出した別のロット、小笠原を御覧ください。