楽しいはずの趣味のブログも、暫く抛っておくと続けるのが厭になります。人の業の深いことかなと思い知らされます。
気を取り直して丸二シリーズもいよいよ長崎ですが、また郵便物がそんなに多くなかったようです。
丸二使用局(本局)の中で、明治39年から櫛型のX2を使用した唯一の局です。
本博多局も、丸二使用の旧郵便(電信)支局の中では唯一のX2櫛型印使用局。
ですから、完成された時刻データがありません。
神戸局と同じく、長崎局のリーフ作りはスキップ ―。
ですが、逃げてばかりでは力量は上がりません。
やけくそ気味ながら従前拵えていたリーフをそのまま御覧いただきます。
まず長崎局ですが忸怩たる集まり具合で、表示時刻の解明などは及びもつかない状態です。
続いて、前にスキップした神戸局。
折角現時点での初日印(しかも横濱正金銀行神戸支店の穿孔付き)を持っていながらリーフ上に活かす術を知りません。
まずはまずは、この程度の浅い収集ですから今後もそのつもりで御覧ください。
さて本博多局についてですが、先日こんな青枠葉書を入手しました。
さしたることのない代物ではありますが、私にとっては青天の霹靂。
「そうか、東京局以外の時刻表示は鉄道輸送の時刻に従うことが有りうるのか。」
というわけで、近々この時期の時刻表を探し出してやろうと企んでいますが果たしてどうなることやら。
そういう次第で、長崎局・本博多局・長崎駅の位置関係の判る地図をリーフに入れてみました。
また、偶々入手済みの同局の時刻に午前が多かったのも幸いしました。
多くの使用済みが残っているような局なら、こんな集まり方はしません。以前に麹町局の投稿で述べましたが無作為に集めるとほとんどが午後便のはずです。
でたらめに集めてみて午前便が多かった ―というのは残存数の多くない証左でしょう。
リーフです。
本池さんの本には、長崎局=本博多局間の伝送は「片便8便/日」であったと書かれています。
「片便」の意味を調べると、明治33年の公達第432號「郵便取扱規程」§94各号列記と§99とに定義がありました。
早い話が、「長崎⇒長崎駅⇒本博多局(又は長崎⇒本博多局⇒長崎駅)のルートで伝送するけれども往復ともには立ち寄らないよ。片道だけだよ。」という意味です。
反対語は「持戻便」。伝送ルートで往復ともに途中の局に立ち寄ります。
この「郵便取扱規程」は随分長生きしたようで、少なくとも大正末まで、一部改正を続けながら存続しています。
もうひとつ、やっかいなことに長崎駅の位置が明治38年4月を境にその位置が変わっています。
現浦上駅が元の長崎駅であったものを、南に2kmほど延伸して現在地に新設したとか。
全て日露戦争の影響です。兵站線に都合のよいように国造りが行われました。
列車の時刻もまた然りです。軍事輸送の都合でダイヤがころころと変わったそうです。
或いは、「前 6」/「前 6. 30」の変化もダイヤ構成の所為かも ―と想像を逞しくして喜んでいます。
リーフ上で37年3月の消印を37年度に入れ込んだのも、そう考えるとしっくりとなじむからです。
逓送人を差し立てる長崎局の側から見れば、立ち寄り先の位置関係から見て不便な作業で、「本博多局から逓送印人を差し立てろよ」と思っていたのではないかしらん。
続いて、エンタも。
栗色3銭は、片銘ながら銘版文字の位置から朱雀大路版と思われますが消印のリーフには関係の無いことなので、知らん顔をしておきました。
【自己評】
こけつまろびつながらも、ようやく全局のリーフづくり(作り直し)を終えました。
拵えた尻から、いろいろなものが手に入るので、今まで御覧いただいた手元のリーフも元の姿をとどめていません。
リーフの再構成に使えそうなマテリアルを余白にべたべたとヒンジで貼りつけているだけですが…。
丸二は一先筆を擱いて(タイプキーを止めて)次回から、再び俘虜郵便のリーフづくりに励みたいと考えています。
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