ここ何度かの投稿は、収容所のロケーティングに凝っています。
チンタオ・ドイツ兵俘虜研究会さんのサイトでは、
「西区恩加島町の府警察部衛生課管理隔離廠舎に開設」、
タカハシスタンプさんは
「大阪市西区南恩賀島町(木津川下流)の大阪府警察部衛生管理隔離廠舎が利用された」
と書いておられます。
「隔離廠舎」と言われているものが本当はどんな名称だったのか気になりましたので
ネットで調べると、『「ユーハイム」を歩く』というサイトに行き当たりました。
現地訪問までしておられました。「隔離所」と呼ばれたそうです。
菊切手の発行された明治32年以来、大阪は幾度かペストに襲われています。
府が明治41年3月に西区南恩賀嶋町に開設した「大阪府立木津川隔離所」というのが正しい名称です。
この翌年、明治42年7月の末に大阪は大火に見舞われます。
このときも隔離所が罹災者の避難所になっています。
どんな施設かと調べますと、ありました。
明治42年3月発行の「大阪府百斯篤流行誌 巻二」の計画平面図です。
「大阪府木津川隔離所」と書かれていて「立」の字がありませんが、明治43年4月の「大阪市大火救護誌」では「大阪府立木津川隔離所」です。
(※ 上掲の両書はいずれも近デジ)
地方自治法で定めている「公の施設」は(設置者名+立)を冠し、その他の行政機関の名称には「立」を附さないこととされています。
(例: 京都府立〇〇高等学校⇔京都府〇〇保健所)
施設の名称に、明治時代からこんなルールがあったのか否かまでは知りません。
ただ、元木っ端役人としては「立」の有無が気になった ―というだけです。
上図は計画図です。竣工図は見つかりませんでしたが、大正元年発行の2万分の1測量図はこうなっていました。
ともあれ左様な由来の施設です。アジ歴ではペスト流行の再発に伴い大阪府から施設の返還要求がなされたとの史料をみることができます。
Jacar-RefC03025301300
結局このときの流行は幸い大きくはならず、杞憂に終わったようです。
さてリーフですが、大阪収容所の初期に見られる二重丸の俘虜郵便印。
大阪には、後期に見られる(ごく稀にデス)差出許可切手と呼ばれるシールもあって、そちらの方が難関です。
差出人は、Der Landsturm 「国民軍」と訳されています。「義勇軍」の意味ですが、自発的な参加なのかどうか怪しいのは、万国共通。
御本人さんも非戦闘員であるとして解放願を出されたそうですが、アジ歴を探しまくって見つからず仕舞です。(ちょっと悔しい…)
国民軍は俘虜の中でも100名程度。若くない方が多いと思っていましたが、そうでもないようです。
この方、戦闘参加時は約30歳。
俘虜の内訳は、
III.S.B.が2,300名
M.A.K.が1,100名
O.M.D.が400名
国民軍は大した戦力ではありません。
奥さんと息子さんとを靑島に残して気がかりですわな。
港に面した大通りにお住まいだったようです。
靑島郵便局員が薄墨で書いた「徒牛」が判りません。
日本軍駐留後の地図を眺めて「囚禁所」 ―多分これだろう…。(徒牛=徒牢)
1枚ン千円もするだけあって、随分時間をかけて楽しませてくれます。
【自己評】絵葉書に特化したコレクションのつもりが、このエンタの場合、葉書裏の写真に大きな意味はありません。
ひょっとしたら、こんな感じのリバーサイドラーゲリだよ―と奥さんに言いたかったのかも…。
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