2016年5月11日水曜日

青島俘虜郵便‐久留米寺院収容所(来日俘虜第1号)                        Die Kriegsgefangenenpost Tsingtau                                 - Das Tempellager (Kurumeamt der Otanischüle)                                  Gef. -Nr.513 Paul Iserlohe

初期の収容所は、下調べに骨が折れます。
今日は久留米寺院収容所。

梅林寺と大谷派教務所とに分けて収容された ― まではすぐに分かりましたが、それどこ?
となるといきなり大変でした。

梅林寺は今もその姿を拝めます。ところが、大谷派教務所は日吉町ということしか手がかりがありません。

日吉町で大谷派のお寺さんは、順光寺。後はこの頃の地図に「眞宗九州中學」というのを日吉小学校の東隣に見つけています。

久留米市教委の文化財保護課さんが一昨年収容所にまつわる展覧会を開催されたようですのでメールでお伺いしようかとも思いました。

何でもかんでも聞くというのも癪です。執拗に調べると、電網恢恢です。近デジで久留米市誌に記載があるのを見つけました。





































最後に残るのが、収容所本部の位置。
これは、今も判りません。

タカハシスタンプさんのブログでは、「久留米教務所近くの本部事務所(借用民家)」との記載があります。

アジ歴では、大正42月の植田謙吉少佐の視察報告に「下士卒収容寺院對屋」との記載があります。(※Ref-C03024453500

梅林寺からは既に撤収し、香霞園・高良内・大谷派教務所の時代ですが本部事務所の位置は変わっていません。

ただ具合の悪いことに、教務所のお向いさんは日吉神社。
境内の一部が民家であったのか、教務所の門が北か南を向いていたのか不明です。

上掲の報告書では植田少佐一流の細部へのこだわりで、俘虜の部屋より本部事務所の方が貧弱だとか、俘虜に日本語を教えるのは害があるとか好きなことを書き散らかしてます。

それはともかく、収容所開設当初は初めてずくめ。慎重に事を進めています。
大正310月には「衛兵服務規則」(アジ歴Ref-C14060954400)を作っていますが、そこに職員の一覧までありました。






































こんな詳細なものは、他の収容所ではあまり見かけません。
山本茂中尉は、検閲印でおなじみの御方。

或いは、赤司大尉が住所にしているところが本部事務所だったのかも。

しかし、これらの記録は厳密さに欠けているところも散見されます。

(例1
留守第18師團長から陸軍大臣への収容所開設報告では、「104日開設」、「下士宿舎 日吉町大谷派布教所」と書かれています。

(例2
陸軍省から留守師団への俘虜収容の通牒は
「中少尉各1、下士9、卒44」ですが、
同師団からの復命では「将校2、見習士官1、下士10、卒42」。
総数は一致しています。

彼我の階級比較は難しいです。戦時の混乱中のことでもあり、武官だからということもあるのでしょう。

リーフですが、ドイツからの到着便でどうもフィアンセか恋人からのようです。
Schmidt名簿にも頻回の手紙のやり取りが記録されています。
 ※ 以前にもこの方の名簿は引用していますが、誤って"Schmitt"と綴っています。訂正します。





































































【自己評】あれこれと調べ始めるとすぐにカレンダーが進んでゆきます。
私の性分に合っています。楽しいですが、面倒です。

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