前回に続いて面倒、厄介、苦境の2局(所)です。
今回はミステリーまで加わって立ち往生しています。
丸二を集め始めたころはこのあたりの局(所)は、時刻空欄でも台切手はどうでも、とにかく1枚入手できれば満足していたものです。
しかし、それだけではやはり物足りなくなります。とは言え売り物も少なく、年季だけが物を言う世界かと思わざるを得ません。
丸二だけでも穴だらけの上に、後継印の櫛型/丸一まで揃えようとしています。
はい、日本橋駿河町だけは歴史を逆戻りして後継印に丸一が再登場します。
この二つの郵便電信取扱所は生まれ育ちがよく似ています。
ともに、明治38年4月1日に無集配2等郵便局に格付けされますが、そのあと櫛型の時代が始まるや日本橋駿河町は3等局に改定されます。
この改定は明治38年4月13日ですので4月1日からの12日間は2等局だったのですが、櫛型印の交付は受けられませんでした。
格付けと櫛型印の交付との関係以外に、何か局長人事上の私怨でも絡んでいるのでは―と勘繰りたくなるほど冷たい仕打ちではあります。
この時期は、日露戦争のさ中 ― 中央官庁は並べて「行け行けドンドン」の風潮ではなかったでしょうか。
身につまされる愚痴は暫く措くとして、本日は2リーフを一度に御覧いただきます。
単片のリーフです。
日本橋駿河町の25銭時刻入りは、何年なのかさっぱり判りません。本池さんの説では郵便局時代の時刻入りは一点しか見つかっていないとかで、仮に郵便電信取扱所の時代としておきました。
唯一の慰めは、後継の櫛型印 ― D欄に入っている「☆」が通常の櫛の上に乗っかっているものと異なり、黒地に白抜きで「大」の字のようになっていることくらいです。
これは、他の無集配局にも間々見かけるものだそうです。
麴町櫻田門外局は、格付けの2等局はそのままに明治39年櫛型の使用開始と同時に「司法省内」郵便局(無集配)に改称されます。
負け組の日本橋駿河町がかわいそうなので、後継印のエンタに力を入れてやりました。
差出人/名宛人ともに同一の兄弟エンタですが、明治42年と44年との比較です。
名宛人は御当地壬生町の特産品=干瓢の製造業を営む方のようです。
状入りでしたので、手紙の文言をたどたどしく読むと「長造り」の代金を送る旨が書かれていました。
はて「長造り」とは何ぞや ― 封筒表書きの「野州壬生町」を頼りに特産品を調べると干瓢! しかも確かに「長造り」という表現があります。
巻きずしに使われる、まな板からはみ出る長さのものをそう呼んだそうです。
正徳2年に壬生藩に国替えになった鳥居忠英公が元の水口藩で成功した干瓢の栽培奨励に端を発した特産品のようです。
壬生町の地図上には「雄琴神社」も見つかります。これも鳥居公の勧請になるものでしょう。
なお、リーフに「㈱東海銀行の手形」と書き込んでいますが、これはUFJの前身の東海銀行ではなく明治22年設立/昭和2年第一銀行に合併の別銀行です。
(両行ともアタマ㈱なので紛らわしいのですが…)
で、問題になるのはそんなことではなく、明治44年の櫛型印の方です。
先に述べましたD欄の「☆」は黒地でもなく、「大」の字でもありません。
単片のリーフで御覧いただいた印軸とは別物のようです。
そして驚くべきことに、時刻表示はX1型です。
もう一方の明治42年の丸一はルーペで眺めても便号らしきものの痕跡が見当たりません。
明治の末になって、繁盛するようになったのでしょうか。
全く見当がつきません。
どなたか御教示いただけると幸いでございます。
【自己評】この辺りの小局は、時刻入りが一生手に入らないものとは思っていません。
ただ、人目に付かずひっそりとネットオークションに出てくるのは数年に一度というだけであると確信しています。
それにつけても、「年季の入ったコレクション」がいかに尊いものか痛感します。
「年季」は買えません。
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