2016年4月20日水曜日

青島俘虜郵便‐板東収容所                                Die Kriegsgefangenenpost Tsingtau - Das Bando Lager Gef. -Nr.4321 Josef Weber

久しぶりの俘虜郵便リーフです。
縦書やら丸二やら消印を集めている間もせっせと俘虜郵便(絵葉書)の材料を何十枚か揃えました。

今日はあの板東ラーゲリ ― この葉書以外にも何枚か入手しましたが、とりあえずは全体の整理をしたいので1収容所1リーフのペースで進めてゆきます。

板東については、既に随分深いところまで研究されていることを改めて知りました。
絵葉書を眺めると、それでも判らないことがいくつも出てきて調べ甲斐があります。

御覧いただくエンタの差出人は、Josef  Weber と判読できます。
(「Abs.の欄は「Jos. Weber」ですが通信文末尾に「Josef」と書かれています。)
ところが Schmitt さんの名簿によると、板東在籍の同名さんがお二人。

お一方は III.S.B、もうお一人はM.A.K. 判別できませんが葉書の表書きがヴェストファーレンのお嬢ちゃん宛、しかも随分親しそうな書き方なので、そちらの御出身 ― M.A.K.所属の方と判断しました。

そこまで決まれば、あとはネットで選り取り見取りのデータの山。
収容所内のTapautau 5番小屋大工さんをしておられた ―まで判りました。
(家具屋さんとの解釈もあります。)

タパオタオは、
























のことです。

中国語でもDa(1) pao(4) dao(3) [カッコ内は声調]ですから音を正確に写しています。
青島中心地の北部にある中国人商店街(多分、占領・街路づくり時に追いやられた場所)です。

板東では敷地の南西角に俘虜たちの商い小屋が建ち並びました。

さて、残るは絵葉書の裏(表?)。
富田町は歓楽街、秋田町は遊郭のあったところのようです。

小初さんという名前。この衣装では芸・娼の判別ができかねますが、児ポ法に触れそうな年齢のお嬢ちゃん。

J.Weberさんは知人(或いは姪っ子)の女の子に日本人形でも贈るかのように葉書を選んだのでしょう。

検閲者の「アラカワ」は丸亀から異動で来られた通訳の荒川充雄さんであることが判っています。

リーフです。


【自己評】
リーフ展示のパターンはほぼ安定し、エクセルの原稿作りに余計な時間を割く必要は無くなりましたが、今度は、どんなテーマをどのように伝えたいのか全く分からないリーフの集積になってしまいそうです。

この時代の空気の片鱗を伝えることは面白いと考えていますが、コレクション全体を眺めて何か一貫したものが無いと…。
やってみないと判らないので、とにかくひたすらリーフづくりに励んでみます。

2016年3月17日木曜日

丸二型日付印 ‐ 長崎 本博多局

楽しいはずの趣味のブログも、暫く抛っておくと続けるのが厭になります。人の業の深いことかなと思い知らされます。

気を取り直して丸二シリーズもいよいよ長崎ですが、また郵便物がそんなに多くなかったようです。
丸二使用局(本局)の中で、明治39年から櫛型のX2を使用した唯一の局です。

本博多局も、丸二使用の旧郵便(電信)支局の中では唯一のX2櫛型印使用局。
ですから、完成された時刻データがありません。

神戸局と同じく、長崎局のリーフ作りはスキップ ―。
ですが、逃げてばかりでは力量は上がりません。

やけくそ気味ながら従前拵えていたリーフをそのまま御覧いただきます。
まず長崎局ですが忸怩たる集まり具合で、表示時刻の解明などは及びもつかない状態です。




































































続いて、前にスキップした神戸局。




































































折角現時点での初日印(しかも横濱正金銀行神戸支店の穿孔付き)を持っていながらリーフ上に活かす術を知りません。

まずはまずは、この程度の浅い収集ですから今後もそのつもりで御覧ください。

さて本博多局についてですが、先日こんな青枠葉書を入手しました。














































さしたることのない代物ではありますが、私にとっては青天の霹靂。
「そうか、東京局以外の時刻表示は鉄道輸送の時刻に従うことが有りうるのか。」

というわけで、近々この時期の時刻表を探し出してやろうと企んでいますが果たしてどうなることやら。

そういう次第で、長崎局・本博多局・長崎駅の位置関係の判る地図をリーフに入れてみました。
また、偶々入手済みの同局の時刻に午前が多かったのも幸いしました。

多くの使用済みが残っているような局なら、こんな集まり方はしません。以前に麹町局の投稿で述べましたが無作為に集めるとほとんどが午後便のはずです。

でたらめに集めてみて午前便が多かった ―というのは残存数の多くない証左でしょう。

リーフです。

本池さんの本には、長崎局=本博多局間の伝送は「片便8便/日」であったと書かれています。

「片便」の意味を調べると、明治33年の公達第432號「郵便取扱規程」§94各号列記と§99とに定義がありました。

早い話が、「長崎⇒長崎駅⇒本博多局(又は長崎⇒本博多局⇒長崎駅)のルートで伝送するけれども往復ともには立ち寄らないよ。片道だけだよ。」という意味です。

反対語は「持戻便」。伝送ルートで往復ともに途中の局に立ち寄ります。
この「郵便取扱規程」は随分長生きしたようで、少なくとも大正末まで、一部改正を続けながら存続しています。

もうひとつ、やっかいなことに長崎駅の位置が明治38年4月を境にその位置が変わっています。
現浦上駅が元の長崎駅であったものを、南に2kmほど延伸して現在地に新設したとか。

全て日露戦争の影響です。兵站線に都合のよいように国造りが行われました。
列車の時刻もまた然りです。軍事輸送の都合でダイヤがころころと変わったそうです。

或いは、「前 6」/「前 6. 30」の変化もダイヤ構成の所為かも ―と想像を逞しくして喜んでいます。
リーフ上で37年3月の消印を37年度に入れ込んだのも、そう考えるとしっくりとなじむからです。

逓送人を差し立てる長崎局の側から見れば、立ち寄り先の位置関係から見て不便な作業で、「本博多局から逓送印人を差し立てろよ」と思っていたのではないかしらん。


続いて、エンタも。




































































栗色3銭は、片銘ながら銘版文字の位置から朱雀大路版と思われますが消印のリーフには関係の無いことなので、知らん顔をしておきました。

【自己評】
こけつまろびつながらも、ようやく全局のリーフづくり(作り直し)を終えました。
拵えた尻から、いろいろなものが手に入るので、今まで御覧いただいた手元のリーフも元の姿をとどめていません。
リーフの再構成に使えそうなマテリアルを余白にべたべたとヒンジで貼りつけているだけですが…。

丸二は一先筆を擱いて(タイプキーを止めて)次回から、再び俘虜郵便のリーフづくりに励みたいと考えています。

2016年2月19日金曜日

縦書為替印‐月型 その3(小笠原型)

こちらの方はお値段以下です。台が赤二というだけで年月日は読めません。
太首の5銭の方は1年前の拾いもの。10GBPでした。

余りにブランクの目立つリーフでもあり、何かデータを ―と思って探しました。
全国の為替振出口数の1/10,000です。一口当たり単価もほぼ全国と同じ。

逓信省年報では、明治30年度で5,497の振出、49,290千円となっています。
人口も全国で43,000千人ですから、同じような比率です。

リーフです。






































































【自己評】人生観は何となく楽天的になってきています。今後の10年でブランクのうちの1枚くらいは埋まるんではないでしょうか。

縦書為替印‐郵便電信取扱所  ― 温泉と中宮祠と ― リベンジ

三月ほど投稿できませんでした。
昨年末に母親が他界し、冥府への一番札が私に回ってきました。多少なりとも人生観も変わります。

ようやく、従前とは異りながらも平常の生活を取り戻し始めています。
この三月間、切手と縁が無かった訳ではありません。

やるべきことはやりました。
しかも、収集の度合いから見ても経済状態から見ても分不相応なことを。

年金生活者にはあるまじき大勝負でした。
落札した日は一日体の震えが止まりませんでした。








































三文収集家の義務として、画像データくらいはしっかりと公表しておきます。
 (かば焼きの臭いだけみたいで恐縮です)

「お前には相応しくないから、こちらに寄越せ」というお声が聞こえます。
すみません。

eBayです。昨年のクリスマスイヴ。一家族がつつましく一月暮らせるほどの大金でした。
他界した母親からの感謝の贈り物と心得ています。

身勝手な都合のよい解釈ではありますが、15年間毎夕病院/特養に見舞いに行き喫食の補助をしてきた報酬としてありがたく頂戴しています。

一月の下旬に四十九日も済み、今月にようやくリーフを拵えました。






































































以前にヤフオクで中宮祠の郵便受取所(通年開設)は入手していましたので、あと1枚でコンプリートと思いながらリーフを作ってみると、全貌が提示できるところまで道矩はまだまだ長いことが判りました。

しかも不都合なことに、温泉の方は丸一に「電信」と「便号空欄」とがあるようです。
菊の10銭はブランクフィラー、便号空欄のつもりです。

中宮祠櫛型の1円は拾いもの。電話使用でしょう。

そして、両取扱所の性格を示すものとして、長逗留してはる欧米人の発出したエンタは、リーフ展開に必須と思っていますが、温泉は入手の機会がありません。

【自己評】この消印の入手も人生観を変えてくれました。出品したイギリスの方も人生が変わってしまったようです。
(思わぬ大金を手にすると人は変わります。我が国の政治家の例を出すまでもなく…)

続いて、同じ日に同じ出品者が出した別のロット、小笠原を御覧ください。

2015年11月26日木曜日

丸二型日付印 ‐ 神戸 三宮局/和田岬檢疫所内局

今朝の新聞に原節子さんが9月にお亡くなりになっていたとの記事が1面トップで出ていました。
日赤75年記念のモデルでは ―とのうわさが今でも聞かれます。

日本切手ナンバーワンの美人だけに、私もいろいろ調べたことがあります。何かの機会にどこかで公開したいと思いながら温めています。

とまれ、御冥福をお祈り申し上げます。

さて、神戸支局(市内局)の続きですが、三宮のリーフづくりは見事にスベッてしまいました。
何分にも手元のマテリアルが少なく、並べただけのアキュムレーションリーフになっています。

年別に1枚づつ、それから午前の時刻データが少ないようなので手に入ったものを並べてみよう…
殆ど思想性の感じられない駄作です。





































































さて、もうひとつは難関です。
和田岬檢疫所 ―年表を拵えて初めて、「戦後」の局であることを実感しました。

近デジの「明治三十七八年戦役検疫誌」で見ると、和田岬檢疫所は検疫人数が148千人弱。
これに対して大里檢疫所は402千人、似島檢疫所が663千人。

大きな役割は果たしていないように見えますが、将兵の帰還がピークに達する明治3811月から翌年2月までの4箇月で見ると、似島299千人、大里152千人、和田岬135千人(いずれも検疫人数ベース)と頑張っています。

遅れて設置された和田岬司令部内郵便局についてですが、第10師團は空港で言えばさしずめ管制塔の役割を果たしていたのでしょう。

それにしても、両郵便局は300メートルほどしか離れていません。しかも両局とも2等局です。
告示では両局ともに郵便・電報の配達はしないとのことですが、時刻入りもどこかにはあるのでしょうか。

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さてここで、恒例になってしまった「お詫び」です。
大阪の丸二で「大阪停車塲内」について、「日本郵便印ハンドブック」の悪口を書いてしまいました。
「丸一印が使用された」との記述に対して、根拠が不明である旨のクレームを付けたのですが、有りました。

http://www.geocities.jp/m_nari/maruichi/maruichi/v-nichiro.html

私もほぼ毎日お世話になっている「明治の全郵便局所沿革(CD-ROM)」の作者成田さんのサイトです。

したがって、大阪停車塲内局の丸二は存在しないことになります。
日露戦争臨時局で丸二を使用したのは和田岬檢疫所内局だけで、他の局は丸一⇒櫛型のパターンということになります。

(お詫びついでに、リーフ下部の年表で宇品碇泊塲局の櫛型は11日からの使用開始ではなく明治392月中です。他の局も11日付けの印影は確認していません。)
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なお、和田岬にあった両局の消印は「Stampedia Philatelic Journal 2012」で完影を見ることができます。
(今年、ジャパンでも兄弟カバーが売り立てられましたが負けました。)





































































【自己評】和田岬司令部内の印影は半欠けでもラッキーな入手。Delcampeも最近は日本からのバイヤーさんが少しづつ増えてきて、「草刈り場」ではなくなってきていますが、何十枚かの使用済みロットの中にこんなものを見つけるのは、セミプロのディーラーさんでは難しいでしょう。

まあ、逆に誰でもわかるような貴重マテリアルは手を出しにくくなってきています。仕方ありません。日本切手が高値になることが多ければ、出品も多くなるでしょうし将来の楽しみが増えます。

2015年11月14日土曜日

丸二型日付印 ‐ 神戸 神戸郵便電信局兵庫支局/兵庫郵便局

今回から神戸シリーズですが、神戸はマテリアル不足のためスキップします。
いくつか未発表の時刻も有りますが、それだけで納得のゆくリーフ作りはできません。
内心忸怩たるものがありますが、しゃーないです。

いきなり支局からです。
縦書(為替印)ではさんざん苦労させられた兵庫支局ですが、丸二印でも印軸の更新やり放題。
揚句、御禁制の縦書為替印を明治354月まで引き延ばして使用するという傍若無人の振舞い…。







































それでも、花の神戸の中心地 ―何故か愛着が湧きます。
自ずと収集にも力が入って、何とか満足できるところまで来ました。

勿論、素人としての水準での話です。専門家ならあと12リーフはブランクなしで拵えなければならないでしょう。
道楽も厳格に楽しもうとすると険しい坂道みたいになります。





































































丸二印の電信使用は多くありません。東京局と大阪局とでは丸二を使わず、専用の丸一電信印で対応しています。
これは、単に交付を受けた丸二型の印軸が少なかったというだけのようです。

返って支局の方が電信事務にも使えるほど印軸数に余裕があったのでしょう。

明治36年の5月と7月のデータを持っていますが、「神戸」を磨滅のように見せかけて半分削った印影は、意地らしくもあります。

本池さんの教科書では、新たに拵えた(「神戸」抜きで)「兵庫」だけ表示の新活字を明治3810月頃の出現としておられます。

今回、私自身もリーフの書き込みをするまで気がつかなかった最初期データを併せて御覧いただきます。

明治3879日に既に使用されていました。
この「兵庫」だけの印軸には愛称を付けたいような気がします。

本池さんは「新活字」と呼んでおられました。私個人の趣味で言えば「大兵庫」 ―いや、もとよりこんなしょーもないことを声高に主張するつもりはありません。

それにしても、よく本省通信局でこんな局名表示を許可したものだと思います。
根拠は判らず仕舞いですが元から「神戸」を冠しない「兵庫」局だと言われれば、仕方なかったのかも。





































































【自己評】頼信紙は売り下げ時の裁断が乱暴です。リーフに貼ってから気づいたのですが、一旦直角に切った台紙に貼ってからリーフに貼ったほうが見栄えが良かったですね。
もうひとつ、今まで書き込んできた丸二型使用時期の局の年表を入れ忘れています。
「よっしゃ、でけた~」だけで貼り込んでしまわずに、一日二日温めておいた方がミスは少なくて済むのですが…。

2015年11月7日土曜日

丸二型日付印 ‐ 横濵 長者町局/櫻木局                     附 横濵郵便局 補遺―8分環

前回投稿から間があきました。長者町局と櫻木局とです。
今回の投稿タイトルは局種を付けずに局名だけにしました。

櫻木局は、明治37年に無集配の郵便局に改定されるまでは丸二型は使用されなかったようです。
丸二時期の局の呼称は「横濵櫻木郵便局」のみで変化はありません。

後期の使用開始ということもあり、印軸は8分環のみしか目にしていません。

長者町局はやっかいです。丸二型を使用した期間に
横濵郵便電信局長者町郵便支局 ⇒ 横濵郵便電信局長者町支局 ⇒ 横濵長者町郵便局
と三とおりの名前があります。

しかも、郵便支局としての使用期間は最も多く見積もっても5日間。

印影には何の影響も有りませんが、初期使用でもあり何としても入手したいものです。
8分環の使用は不明です。(確定できるような印影を持っていません)







































































もうひとつ、大事なお知らせです。
先の投稿で横濵局の8分環は無いかもしれないと書きましたが、見つけました。

しかも、結構早い時期の使用データです。



































こういうときのエンタはありがたいものです。全影が出ます。
差出は前にも登場した合名會社茂木商店 ―裏判も前回のと全く同じ。

宛先の七曜星社については、リーフには地元の商業紙と書いてしまいましたが、共同出荷組合だったようです。

時刻無しの25錢の方は縦に裂けています。接合が下手なのではなく、消印の印影を合わせるとこうなります。(― つまり裂けた切手を式紙に貼って使った)
もとより疵切手ですので、リーフに貼るべきではないのですがこれしか持っていません。





































































【自己評】いずれにしてもデータの少ないのは、どう捻くり廻してみても面白くありません。
こういう数少ない局を沢山集めるのが、私のような素人と本物の大家との差なのでしょう。
まだまだ精進せねばなりません。