2017年5月12日金曜日

丸二型日付印 ‐ 大阪局の時刻表示(推定)

しばらく投稿をサボると、すぐに季節が変わってゆきます。
何か考えがまとまる都度、それをリーフで表現する場にしたい ― 思いどおりには計行きしません。

先ごろのジャパンオークションで丸二のロットを落としました。おかげさまで大阪の丸二が少し纏まりましたので、今までの蓄積分と合わせて年月日順にプロットしてみました。

私の所持分だけでは当然足りないので、いつもお世話になっている本池さんの教科書やデジタルデータも併せています。

赤字が所持していないもの。
黒字が所持品です。

いきなり「神武天皇祭」などという文字が目に入ると思いますが、私は右翼ではありません。
(どちらかといえばleft sideデス)

配達等の業務に関係のありそうな、日祭日・正月の一週間(=配達回数半減期間)・暑中配達省減期間を色を変えて表示しているだけです。








































































Googleさんは大きい画像は原寸で表示してくれません。
仕方なく年別に分けて掲載しますので、頭の中で繋げてください。
36年分です。
























































































37年分




















































































38年分
























































































データ整理だけで終わらせるつもりだったのですが、やってみると面白かったので12便/日の構成を推定してみることにしました。

全データをプロットして、変化のあった直近の二つを⇔で結びます。
35年後半から36年前半にいくつも縦の⇔ができました。

大阪のデータの残存数は少ないので、1年くらいのレンジは当然覚悟の上です。
この変化は集中してごく短い期間に生じたと見るほうが合理的です。

そこで、すべての矢印の共通する期間をチョイスしました。
この短い期間に大きな変化が生じたはずです。
以下、同様にして調べたものが1枚目のリーフ上段の表です。

迷った点が二つありました。

〇 早朝と深夜(午前5時や午後9時台ですが)についてはいくつもの便が出現するが、すべて配達があったのか。

〇 日中でも、20~30分の間隔で異なる便号が存在する。どう考えるべきか。

迷ったら原点に立ち帰ります。
丸一の便号は、取集便ではなく配達便の順序を表示することと定められています。

しかし、本池さんの御努力のおかげで東京局は逓送便の便号と解明されています。
では、大阪は。

結論(推論であり仮説ですが)は、引受郵便物を処理する締切り時間の数と考えるのが妥当なようです。

明治339月制定の郵便取扱規程です。





































取集便と配達・差立便とを対立概念として扱っています。
成程、言われてみれば原料仕入れと製造工程みたいな関係です。

郵便函や受取所からの取集、他局からの行嚢などが仕入れ。
これらに引受印やら到着印を押印して、自局配達分は区分け、他局配達分は行嚢に詰めて差立て ― これが製造工程に該当します。

「成程」と自分で勝手に納得しています。

さすれば、東京局の丸二の便号の扱いもむべなるかな ― 配達便号のはずが逓送便号だったのはコインの裏表。

(大掴みには正しい理解と思いますが、本池さんご指摘の着印の便号体系が別に存在するという通信官署官制以降の問題は未解決のままです。)

色々考えて、同じ郵便取扱規程の次の条文が目につきました。






































もう一つ、櫛型の時代に入ってしまった後、明治42年刊ですが「通信要録」という一般向けの詳細なガイドブックがあります。

東京郵便局長で法学士の坂野という人が書いた本です。
小包についての記述です。













































東京郵便局長は奏任官でとてもエラい人ですので、多分局内の各部署担当責任者に書かせたのでしょうが、それだけにリアルで信憑性があります。

これらに目を通して後に思いついたのですが、局に到来した郵便物の処理が完了する時刻を全郵便物で同一にするのではなく、締切時刻を統一したのではないか ― という考えです。

上記の規程にもあるように、通常郵便より小包郵便の方が処理に時間がかかるようです。
その時間差は、小包と通常便との個数比によります。

大阪局の場合、その差が20~30分だったのでしょう。
当然推測の域を出ません。

実証するには、同日かごく接近した日の通常便・小包便のエンタが必要です。
通常便は書留が望ましい。 ―書留も通常便と同じ時刻に締め切られ消印されたことを示すために― です。

書留はどうにでもなりますが、小包送票は大阪ではむつかしそうです。
包装は ―布であれ紙であれ、ボロボロになるまできちんと再利用されています。
小包受領証なら何とかなりそうですが本池さんの本の表紙の写真しか見たことがありません。

せめて書留料金を超える15銭以上の切手に20~30分後の時刻が表示されていることを示せば傍証にはなります。

さて、もう一つの課題。 深夜・早朝便です。
これも、「逓信法規類纂」(郵便編―明治3412月現行版)からの引用ですが、






















































丸一便号の使用法についての照復です。

一日の最初の取集便より配達便の方を早く始めているので、(配達便に一致させる日付印の便号は)イ便取集便の検印にロ便の消印を使うのは変だ。何とかしてくれ ― との趣旨ですが一蹴されています。

興味を引くのは、神戸=新橋間直通列車が夜間に京阪神に到着するという話です。
調べてみました。



































成程、丸一鉄郵の東京神戸間は上り下りともに「五便」まであります。
京都局の言う「下り大線」で運ばれてくる東京からの行嚢は21時ころに到着。区分けして配達するのは翌朝早くでしょう。

大阪ではどうなるか。
2枚目のリーフで、こじつけを交えながら 支局(代表に大阪局から最も近い天滿局)=大阪局=「梅田のステンション」を並べてどの便号(時刻表示)が使われるべきか考えて作ってみました。

しかし、これも切手コレクションであるからには実物のエンタがないと意味はありません。
何年かのうちに入手できればまたお知らせします。
「予言が当たったゾ」と鼻高々に ―。






































































上のリーフでは各時期の頭と尻が不確かなので、合計12便/日という確実な結論が出せません。
ただ一つ、普通便と小包便との時間差というもっともらしい推論だけは自信があります。

暑中の配達省減期というのは、毎年7/119/10の間炎天下の配達を回避するために配達回数を減らしてもよいよ ― というお触書で明治23年公達第270號です。

当然午後1時台の配達時刻が間引きの対象になったと思っています。
配達夫は体力維持のため、昼食後の短い午睡に利用したのではないでしょうか。

それにしても、通年で手に入れにくいのは何故なんでしょう。
もしかしたら、別配達が有るときだけの配達便でしょうか。

1日の全部の便を眺めると、朝・昼・夕の食事に充てた時間らしきものが何となく浮かび上がってきます。
(直前の便との時間差が1時間半ほどの便のことです)

或いは、「后0」というのが書留や別配達などの特別の便かもしれません。残存数も少なく、リーフに貼った10銭切手も書留エンタからわざわざ剥がしたものです。

次のリーフも、肝心の部分については結局判らず仕舞いです。
早朝の35便の関係が全く掴めません。







































































【自己評】
精進の甲斐あって、時刻のバラエティーはかなり埋まりました。
次は、これらの推論のどれか一つでも実証できるエンタを探すことです。
楽しみが増えました。
同時に、ここまでいじくりまわして調べまくったのも初めてのことです。
先達の御苦労のかずかず、末座を汚すものとしてそれらの片りんでも味わえたなら幸甚ではあります。

明治の時刻表を調べたい方へ;

旧近デジに資料が豊富ですが、「時刻表」や「列車」ではヒットしません。
それぞれ「時間表」「汽車」に変えていただくといくつか見つかります。
あとは、「旅行」や「(地名や地方名) 案内」なども有効です。
地方の図書館でも「明治大正時刻表―復刻版」(1998刊 第1巻から第10巻+1冊あります)を所蔵しているところもあります。
私はまだ見ていません。

2017年3月2日木曜日

青島俘虜郵便‐熊本収容所                      Die Kriegsgefangenenpost Tsingtau

ようやくお水取りが始まり、時々立ち消えのする書斎のエアコンと付き合うのもあと僅かとなりました。

手元にある幾十枚かの俘虜絵葉書の中から熊本を選んで挑戦してみました。

アジ歴に熊本收容所の日誌が残っていますので全容の概略はわかりますが、細かいところはまだ調査が要るようです。

従来からの解説書に書かれているようにいくつかのエリアに分けて収容したのですが、「京町」という地区も散見されます。

收容所の日誌でも最初の計画には入っています。

往生院と光永寺とが候補として挙げられています。西南戦争でも政府軍の宿舎となり、柱に弾跡が残っている ― とネットでの聞きかじり…

しかし、以降の日誌には一切登場しませんので、多分実際には使われなかったのでしょう。
細工町收容所には西光寺・阿彌陀寺以外に「光惠寺/光善寺」があると書かれている教科書もありますが「光永寺」の誤りかと思われます。

千反畑收容所は将校宿舎と本部事務所とが置かれた場所ですが、将校宿舎だけが特定できました。

将校用の「物産館集議所」は元熊本洋學校教師であったL.L.ジェーンズ邸。国会図書館資料で見ると当時は貸し会場として運営されていたようです。

1970年水前寺公園に移築され、昨年の熊本地震本震で倒壊とこのと。

























移築後の姿ですが、瀟洒な建物だけに惜しいです。
この建物に将校56名は詰め込みすぎではと心配します。

分からないのが将校従卒の宿舎に充てられた「米穀檢査所」。当時の熊本の案内書には物産館にあると書かれています。

また、本部事務所に充てられた「縣農會事務所」も同様で物産館内。

しかしこの千反畑(正しくは南千反畑町)地区は公共施設エリアでいくつもの公共施設が様々に使い廻されてきた経過があります。

ですので、本館内とは限らず集議所以外にも別館があったかもしれないのです。
もう少し調べれば判明するかもしれません。

施設の使い廻しは短い収容期間にも起こっていて、坪井郵便局が移築されるので収容場所を変更し縣會議塲に移動したと日誌に書かれています。

一見関係がなさそうですが、多分この施設をあそこへ、あの施設をどこへ ― という玉突きがあったのでしょう。































リーフの画像ではわかりずらいので、拡大図です。

縦書丸一収集家を悩ませ続ける、あの「熊本坪井郵便局」(旧称熊本坪井郵便電信支局)のことだけに気になります。

実際に、大正15年のナントカ共進会会場図には坪井局の位置が上図の移転後の場所に描かれていました。

以前にもブログに書きましたが、1枚のリーフに地図やら絵葉書の裏やらと収め切るのはかなり無理があります。

将来はもう少し熊本エンタを手に入れることを見越して地図だけのリーフも作ってみました。






































































学部の卒業論文レベルまでは達していなくても、高校生のレポートくらいの水準は超えていると自負しています。

さてエンタのリーフです。






































































差出人は、Johann  Gerlich とおっしゃる海軍の2等火夫さん。(Gef. -Nr. 3346
一緒に収容されていたお友達の火夫が大分に収容換されて一人ぼっちになりました。

そこへ大分から届いたイースターの挨拶状 ― よほど懐かしかったと見えて大喜びで返事を書いたはります。

胸を張って、「戦友ヨハンより」(Kriegskamerad  Johann
同室収容であろう二人の名前も並べて「よろしく伝えて」みたいなことをごちゃごちゃと。

したがって、1枚の絵葉書に俘虜兵が4人も登場しているお買い得品でした。

Herrnを冠せずHeizer3格も同形)と書いたものは初めて見ました。

陸軍で言えば輜重輸卒同等の僅かな尊敬しか得られなかったであろう2等火夫という仕事にこの二人は大きなプライドやら仲間意識を感じていたのでしょう。

それとも、ただの社交儀礼の挨拶葉書…。

郵趣上の見地から問題になるのは検閲印です。
初期には「檢閲濟」と縦に書かれた朱印が使われたようですが未収です。

面白いのは検閲者の印。
渡邉さんは所長の次に偉い人で「渡勉」のハンコもあるようです。

武藤印は書記。
日誌には「本部事務所に書記を二人置く」とあり、両名の事務分掌まで定めています。(日誌1120日)

うち一人が俘虜郵便に関することを担当することとなっており、これが武藤さんと思われます。

「横」字は横手收容所、「細」は細工町です。
「細」字は吉田景保さんの訳本に写真がありました。(p44

SDPDG印はとても面白い特徴があって、
①「Sce  DE  SPRISON…」としか読めないこと
②「PRISONNIERS」の「I」が小文字「i」の形になっていること
です。
後者の特徴は、手書き文字にはしばしば見られる読み違い防止策ですが…。

絵葉書の裏は墺洪兵を収容した妙永寺。
ネットで調べて知りましたが、加藤淸正のお母さんの廟所だそうです。

山門右の石碑、刻字の上に紋が二つ並んでいますが左が淸正公の蛇の目紋。右は判然としません。


【自己評】
エンタをしゃぶり尽くす快感が味わえました。
ついでながら、フォントの活用も。武藤さんによって鉛筆書きされたであろう「大分」の文字は「恋文ペン字」というフォントです。とても便利です。


2017年1月11日水曜日

縦書為替印‐爲替取扱所

新年おめでとうございます。

アメリカもヨーロッパも中東も北東アジアもとても騒がしく、とてつもなく酷い事件だけは勘弁してほしいと願う新年ではあります。

随分長い間投稿から遠ざかっていました。
その間、縦書の爲替取扱所が手元にたくさん集まって収拾がつかなくなりました。

ということで、リーフの再整理です。
いきなり全リーフをご覧いただきます。前回あれこれと書きなぐっていますので今回は画像中心の投稿です。

まず東京から。




































































































































淺草田町はとても難しそうです。
ウェブの青雲倶楽部で拝見した以外見たことがありません。






































































この3リーフで東京の部は仕舞です。続いて京都。






































































地元ですので、室町丸太町が手に入ったときは嬉しさも倍増でした。
それ以上に、六條受取所に月型の存在を確認できたことの方がよかったですね。

四條繩手は、月型が有るのかどうか未だ不明です。

次は大阪の2リーフです。






































































これも瓦町受取所の褐色印が有るはずなのですが…。







































































順慶町受取所の月型に2種類あるのは、自分としては新発見です。
欲を言えば、天滿市塲の郵電改定前の丸一が欲しいところです。

更に、名古屋以下各市の取扱所とその後継受取所が続きます。






































































こうして並べてみると、「全部を赤二で」というのは夢のまた夢。
それよりも、各受取所の月型の存否確定が先決です。






































































東四十物町取扱所を手に入れたときは、さすがに興奮しました。






































































先日ヤフオクに廣島京橋町取扱所の赤二が出品されていましたが、なぜが気が萎えて競り合いませんでした。

私の入れた札に、下から20数ビットかけて小刻みに這い上がってきた方の手に落ちています。
まあ長い人生、また入手の機会はあることでしょう。






































































追手町取扱所は情けない印影ではありますが、市内の取扱所はこの一箇所だけです。






































































北長狹の年型は、やっとの思いで手に入れました。






































































このリーフ辺りからは、一枚でも手に入れば赤飯(私としては―です)もの。











































































































































以上で全部です。
宇都宮大工町は以前見ていただきましたものから殆ど進歩していません。

しかし、受取所の年型と月型との日数の乖離が短縮されました。
もうひとつ、宇都宮町が意外に大都市であったことも勉強してわかりました。

【自己評】
各リーフの下に年表を入れるのは、書き込みがとても簡潔になって良いアイデアとは思いましたが10数年ものレンジをリーフの横幅に入れ込むのにはチト無理がありますな。

そして各取扱所の消長はよく分かるのですが、これに消印のタイプ変化まで対応させるとなると、1リーフ4段では詰まりすぎます。

今日ご覧いただいた各リーフも、いずれはさらに詳細・精確な書き込みのために変える時が来るのでしょう。

ただし、10年ほど必要かと…。



2016年6月9日木曜日

青島俘虜郵便‐名古屋寺院収容所                              Die Kriegsgefangenenpost Tsingtau                                 - Das Nagoya Tempellager                               Seesoldat Konrad Drzisga Gef.-Nr. 2507

今までこき使ってきたWindows Vistaがついに昇天されました。
代わりに届いたWindows Edgeの使い勝手は得も言われず、摩訶不思議…。

「お気に入り」がとてつもなく使いづらく、それでも慣れる外ありません。
さて、梅雨にも入り本日は名古屋寺院収容所です。

収容所研究についての偉大な先達方の案内をウェブで拝見するのですが、もう一つ要領を得ません。

アジ歴も肝心の部分が見つからず、それでもやっつけてしまいました。
しかも俘虜の二等兵さんのお名前が「Drzisga」。

どう発音するのか迷いました。 ― そうか、ロシア系か…。「ドゥロツィスガ」。
なんとなく一人で納得してしまっています。

次は、恒例の収容所の場所探し。
「チンタオ・ドイツ兵俘虜研究会」の名古屋収容所のページには

「門前町の東本願寺西別院天寧寺および梅川町の長楽寺等に」と述べられています。

いろいろ調べましたが、「西別院」ではなく「別院」のようです。
「西別院」は本願寺派の別院の意です。

したがって、東西を付すなら「東別院」。
もっとも名古屋市内のすぐ近くに西別院もあります。





























毎日お世話になっている「今昔マップ」さんからの切り貼りです。
次に判らないのが「天寧寺および梅川町の長楽寺」。

ネットで調べる限り天寧寺は西別院のすぐ東側に今も見つけることができます。
長楽寺はネットでは南区。梅川町でもありません。

しかも、アジ歴では私は両寺の名前を見つけることができませんでした。

今月から名前を変えた旧「近デジ」。
大正4年刊の「名古屋市史 社寺編」に掲載されていました。









































ともに曹洞宗のお寺さんです。
「長楽寺」に似た名前を探しました。

これでほぼ作業は完了ですが、両寺は将校宿舎に充てた等の記事が見つかりません。
仕方なく見切り発車です。

次に興味を引いたのが絵葉書の裏側。
どうも「Abs.  Seesoldat private  Drzisga」と書かれているようです。












私の読み間違いでなければ―の話ですので、拡大図を入れておきます。
英語なら二等兵ですが、ドイツでもそういう呼び方があったのでしょうか。

リーフです。
縦書きの朱印「俘虜郵便」と「檢閲濟」とが仲良く並んでいますが、二連印ではなさそうです。






































































【自己評】このリーフも調査が中途半端に終わって「推定される」などと書かざるを得ませんでした。
残念。

2016年6月2日木曜日

青島俘虜郵便‐大分収容所                              Die Kriegsgefangenenpost Tsingtau                                 - Das Oita Lager                               Oberleutnant Wilhelm Schliecker Gef. -Nr. 2050

今回御覧いただくような悪筆は大変に疲れます。
ジャパンさんのPA92ノービッドお余り品です。

読むのにとても苦労します。読めません。しかも、珍しい名字。時間がかかります。

このこととは逆に、収容所の所在はすぐに判りました。
しかも、事務所の位置まで。

公式記録での収容所の所在地は、事務所の位置を以って代表させています。

幸いにもアジ歴で、大分他の収容所から人員増員願いが陸軍省に提出されています。
大分は、涙ぐましくも分散収容所と事務所との位置関係・道矩を図解してまで増員の嘆願です。(JACAR-Ref.C03024470100














































将校用宿舎に充てられたのが赤十字大分支部の建物。
全室洋室で、将校用として相応しく思えたのでしょう。

下士卒用宿舎は、大分市立第一尋常高等小學校。4棟の校舎のうち1棟を使ったそうです。
(収容所に充当された時の名称です。以前は郡立。)

二つの建物のことは、大分県立図書館のサイトや別府大学の安松教授の論文等にも詳しく書かれているので、助かりました。

リーフは、絵葉書の裏の大分支部の写真も大きくコピーしたかったのですが、二つの収容所と事務所との位置も図示したかったので、しかたありません。



【自己評】

将来、各収容所ごとに複数の絵葉書を並べられるようになれば、サブタイトルリーフ風に収容所の地図や関連データのみのリーフを作り……まだ先のことです。
筆記体が読めません。葉書宛先の工場は、"Ultramarinfabrik"と書かれているようにも思えますが「群青の工場」―何のことやら。
もうひとつ、葉書の通信文も。〇〇グリュッセのようですが、これまたさっぱり。
まあ、気長に何年も付き合えば解るようになるのでしょう。

さらに気になるのが、私のドイツ語表記です。例えばタイトルも、Oitalagerと書いてもよいのかダメなのか。まったく知りません。

なお、葉書右下の「A396」は郵便物管理のための俘虜ごとの番号なのかどうか判別できませんでしたので、今回はパスしておきました。

2016年5月25日水曜日

青島俘虜郵便‐大阪収容所                              Die Kriegsgefangenenpost Tsingtau                                 - Das Osakalager                               Vizefeldwebel Heinrich Müller  Gef. -Nr. 4561

今日は大阪収容所です。
ここ何度かの投稿は、収容所のロケーティングに凝っています。

チンタオ・ドイツ兵俘虜研究会さんのサイトでは、
「西区恩加島町の府警察部衛生課管理隔離廠舎に開設」、

タカハシスタンプさんは
「大阪市西区南恩賀島町(木津川下流)の大阪府警察部衛生管理隔離廠舎が利用された」
と書いておられます。

「隔離廠舎」と言われているものが本当はどんな名称だったのか気になりましたので
ネットで調べると、『「ユーハイム」を歩く』というサイトに行き当たりました。

現地訪問までしておられました。「隔離所」と呼ばれたそうです。

菊切手の発行された明治32年以来、大阪は幾度かペストに襲われています。

府が明治413月に西区南恩賀嶋町に開設した「大阪府立木津川隔離所」というのが正しい名称です。

この翌年、明治427月の末に大阪は大火に見舞われます。
このときも隔離所が罹災者の避難所になっています。

どんな施設かと調べますと、ありました。








































明治423月発行の「大阪府百斯篤流行誌 巻二」の計画平面図です。
「大阪府木津川隔離所」と書かれていて「立」の字がありませんが、明治434月の「大阪市大火救護誌」では「大阪府立木津川隔離所」です。
(※ 上掲の両書はいずれも近デジ)

地方自治法で定めている「公の施設」は(設置者名+立)を冠し、その他の行政機関の名称には「立」を附さないこととされています。
(例: 京都府立〇〇高等学校⇔京都府〇〇保健所)

施設の名称に、明治時代からこんなルールがあったのか否かまでは知りません。
ただ、元木っ端役人としては「立」の有無が気になった ―というだけです。

上図は計画図です。竣工図は見つかりませんでしたが、大正元年発行の2万分の1測量図はこうなっていました。











ともあれ左様な由来の施設です。アジ歴ではペスト流行の再発に伴い大阪府から施設の返還要求がなされたとの史料をみることができます。


































































Jacar-RefC03025301300
結局このときの流行は幸い大きくはならず、杞憂に終わったようです。

さてリーフですが、大阪収容所の初期に見られる二重丸の俘虜郵便印。
大阪には、後期に見られる(ごく稀にデス)差出許可切手と呼ばれるシールもあって、そちらの方が難関です。

差出人は、Der  Landsturm 「国民軍」と訳されています。「義勇軍」の意味ですが、自発的な参加なのかどうか怪しいのは、万国共通。

御本人さんも非戦闘員であるとして解放願を出されたそうですが、アジ歴を探しまくって見つからず仕舞です。(ちょっと悔しい…)

国民軍は俘虜の中でも100名程度。若くない方が多いと思っていましたが、そうでもないようです。
この方、戦闘参加時は約30歳。

俘虜の内訳は、
III.S.B.が2,300
M.A.K.1,100
O.M.D.400
国民軍は大した戦力ではありません。

奥さんと息子さんとを靑島に残して気がかりですわな。
港に面した大通りにお住まいだったようです。

靑島郵便局員が薄墨で書いた「徒牛」が判りません。
日本軍駐留後の地図を眺めて「囚禁所」 ―多分これだろう…。(徒牛=徒牢)
1枚ン千円もするだけあって、随分時間をかけて楽しませてくれます。





































































【自己評】絵葉書に特化したコレクションのつもりが、このエンタの場合、葉書裏の写真に大きな意味はありません。
ひょっとしたら、こんな感じのリバーサイドラーゲリだよ―と奥さんに言いたかったのかも…。

2016年5月11日水曜日

青島俘虜郵便‐久留米寺院収容所(来日俘虜第1号)                        Die Kriegsgefangenenpost Tsingtau                                 - Das Tempellager (Kurumeamt der Otanischüle)                                  Gef. -Nr.513 Paul Iserlohe

初期の収容所は、下調べに骨が折れます。
今日は久留米寺院収容所。

梅林寺と大谷派教務所とに分けて収容された ― まではすぐに分かりましたが、それどこ?
となるといきなり大変でした。

梅林寺は今もその姿を拝めます。ところが、大谷派教務所は日吉町ということしか手がかりがありません。

日吉町で大谷派のお寺さんは、順光寺。後はこの頃の地図に「眞宗九州中學」というのを日吉小学校の東隣に見つけています。

久留米市教委の文化財保護課さんが一昨年収容所にまつわる展覧会を開催されたようですのでメールでお伺いしようかとも思いました。

何でもかんでも聞くというのも癪です。執拗に調べると、電網恢恢です。近デジで久留米市誌に記載があるのを見つけました。





































最後に残るのが、収容所本部の位置。
これは、今も判りません。

タカハシスタンプさんのブログでは、「久留米教務所近くの本部事務所(借用民家)」との記載があります。

アジ歴では、大正42月の植田謙吉少佐の視察報告に「下士卒収容寺院對屋」との記載があります。(※Ref-C03024453500

梅林寺からは既に撤収し、香霞園・高良内・大谷派教務所の時代ですが本部事務所の位置は変わっていません。

ただ具合の悪いことに、教務所のお向いさんは日吉神社。
境内の一部が民家であったのか、教務所の門が北か南を向いていたのか不明です。

上掲の報告書では植田少佐一流の細部へのこだわりで、俘虜の部屋より本部事務所の方が貧弱だとか、俘虜に日本語を教えるのは害があるとか好きなことを書き散らかしてます。

それはともかく、収容所開設当初は初めてずくめ。慎重に事を進めています。
大正310月には「衛兵服務規則」(アジ歴Ref-C14060954400)を作っていますが、そこに職員の一覧までありました。






































こんな詳細なものは、他の収容所ではあまり見かけません。
山本茂中尉は、検閲印でおなじみの御方。

或いは、赤司大尉が住所にしているところが本部事務所だったのかも。

しかし、これらの記録は厳密さに欠けているところも散見されます。

(例1
留守第18師團長から陸軍大臣への収容所開設報告では、「104日開設」、「下士宿舎 日吉町大谷派布教所」と書かれています。

(例2
陸軍省から留守師団への俘虜収容の通牒は
「中少尉各1、下士9、卒44」ですが、
同師団からの復命では「将校2、見習士官1、下士10、卒42」。
総数は一致しています。

彼我の階級比較は難しいです。戦時の混乱中のことでもあり、武官だからということもあるのでしょう。

リーフですが、ドイツからの到着便でどうもフィアンセか恋人からのようです。
Schmidt名簿にも頻回の手紙のやり取りが記録されています。
 ※ 以前にもこの方の名簿は引用していますが、誤って"Schmitt"と綴っています。訂正します。





































































【自己評】あれこれと調べ始めるとすぐにカレンダーが進んでゆきます。
私の性分に合っています。楽しいですが、面倒です。