2017年7月5日水曜日

青島俘虜郵便‐丸龜收容所

今日は丸龜を頑張ってみました。

結構良いペースで進んでいるので「いっぺん切手展に出してみたろか」とも思ったのですが、JAPEXの要項を見て「やっぱりあかんかな…」。

郵便史のカテゴリーではありますが、それ以外のこと=俘虜の日々の生活やら收容所長、俘虜情報局の思惑、日独の絵葉書に垣間見える風俗やら戦争観やら ― 興味の大半が郵便史以外のことに向いてしまっていて、何を言いたいコレクションなのかコンセプトを失っています。

もう少しいろいろな絵葉書に当たってみて、最短でも来年の全日展 ― コレクションの方向が見えてこなければ永遠にダメ…

今よりもっと理屈っぽくネチっこくリーフづくりをしてみないと五里霧中から抜け出せません。

それはさて措き、丸龜は髙橋輝和先生の一般向けの本があって大変便利です。また記録もほとんどすべてアジ歴で見ることができて「楽勝やろな」 ― しかし無いものは無いというのが世の常。

收容所事務所の位置探しは苦労しました。でも見つけました。
事務所の位置が分かったところで歴史解釈に影響を与えるわけではありませんが、他の収容所でも頑張って見つけ出しているので意地だけです。

丸龜は、検閲印でいえば4種類。
初期の枠有り縦書の「檢閲濟」、三角の「俘虜收容所」、三角の市川中尉ひらがな印、そして「滿るかめ」丸印です。

うち2種が集まりました。
「いちかわ」三角印はご本人が大正4年10月から1年ほどしか在籍しておられませんので難しそうです。
初期の「檢閲濟」も然り。集まり方は正直なものです。

まずは、恒例の地図と出入り表です。
出入り表はドイツのサイトにもありますが一部は記録と合致しません。そこは日本語が読める強み    ―。 一致させました。

ついでながら、前回の靜岡も1人勘定が合わない原因も見つけました。上部アルザス籍の兵隊さんが宣誓解放を受けていました。
こういうことは記録に残したくなかったのでしょうか。
まあ、公表すれば我も我もと …。大変ですわな。







































































地図に「多度津道」というのを入れたのがミソです。丸龜驛ではなくお隣の多度津町から船で出入りしたようです。港からは徒歩。兵隊さんですから大丈夫です。
泰面鉄道建設の時みたいな行軍ではありません。

2リーフ目は「門前運動」の行進風景。
版権を有すべき初版ではありません。紙も大戦の資源欠乏の影響で粗悪です。複製した原版にも小さい埃のようなものが散らばって、ルーペで見るとバッチイです。

無いよりましかと思いながら貼りました。



名宛人の名前には閉口しました。
調べてもこのような苗字は見当たりません。ほかに読みようがあるのでしょうか。
どなたかお教えいただければ幸いです。

この「收容所記録」の「衞兵配置圖」に事務所の位置が明示されていました。唯一の資料です。
毎日の行進は衆目に晒す拷問のようなものではなく、むしろドイツ軍の誇りを誇示できる機会だったようです。

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【追記】

投稿後も名宛人の名前が気になっていろいろと調べているうちに、ふと気が付いてSchmidt名簿を繰ってみました.

当たりました。












私の語学力を超える解説をしてくれていますが、消防団で指揮を執っていた ― でよいのでしょうか。
早い話が民間人扱いで俘虜にはならなかった方です。

しかしずいぶんたくさん引っ越しをしてどっさり転職して子供さんもたくさん設けて、いらちなんですかな。
葉書の差出人Pflugerさんも文面や字体を見る限り多少横着な感じです。

靑島ではどんなご関係だったか知りませんがウマの合うた方々とお見受けします。

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3リーフ目は到着便。
クリスマスのフラワーオーナメントですが2月の着印。
他の例も調べましたがこれくらいの延着ならまだかわいい方でした。ロシア革命前夜のこととてシベリア鉄道も大変だったのでしょう。






































































ただ、差出人が" Lili Weiß " 全く無い名前ではないのですが出来過ぎ。あっさりした通信文ながらツボは押さえてあります。
多分お母さん ― "Lili Violet"を嫌ってしょっちゅうこう書いてはったんちゃうかいなと思うと…。

住所はグーグルで一発ヒット。ベルリンのど真ん中です。
今年のジャパンさんの戦利品ですが、下見で迷いました。切手をはがした跡が。

でも、剥がした上からGeprüft印があるからドイツ官憲によるものというのが明白、まるかめ印が鮮明やしまあええか ―で買いました。

リーフにも堂々と剥離跡を示すと、何となく立派に見えるから不思議です。

【自己評】
冒頭に書いた件、どうしようか真剣に悩んでします。
下手をすると(一般の方から見て)珍しいものを並べて喜んでいるだけのアホらしいコレクションになってしまいます。
難しいです。

2017年6月17日土曜日

青島俘虜郵便‐靜岡収容所                      Die Kriegsgefangenenpost Tsingtau

先日の新聞に、「日独戦争俘虜の手紙等を世界記憶遺産に― との動きが両国にある」という記事が載っていました。

私も一時は、同じようなことを考えていました。
しかし、これらの一連の出来事を恰も美談のごとく扱うのはいかがなものでしょうか。

俘虜の扱いは板東のような例ばかりではありません。
吹浦忠正先生の「捕虜たちの日露戦争」を読んで考えさせられました。
日露=日独両戦争を通じて、
「俘虜となるのは武士の恥辱、死ぬ方が潔い」⇔「俘虜もハーグ条約で定められた兵の勤務の一形態、命は大切」
両方の考えが消えたり現れたりしながら日本社会が進んでいきます。

私の良く利用する資料では(後のノモンハン敗戦将軍)植田謙吉少佐の「收容所視察報告」は前者の代表格でしょう。
むしろ、この人の考えが支配的だったのではないかしらと思わざるを得ません。

それに記憶遺産になんかなったら、絵葉書を落札するのに文化庁の許可が要るなどというのは願い下げです。

愚にもつかない話から始めてしまいましたが、今日は靜岡収容所の絵葉書を見ていただきます。

靜岡は珍しく小規模の収容所です。
この市には日独戦の10年前、日露戦の時も収容所が設置されました。
当時の知事の収容所誘致嘆願書が残っています。

靜岡の聯隊が出兵したが、戦争で特産品の漆器が輸出できず大水害もあったので景気振興のため収容所を設置してくれ ―という手紙です。

ロシア俘虜同様にさんざん金を遣ってくれると思い込んでいたのでしょう。
私の住まいの近くの某メトロポリスでも未だに「インバウンド景気」に浮かれた愚挙が毎日…。

今日の主役 Unteroffizier Hans Marfuke (Gef.-Nr.1762) マルフケ伍長さん、実は収容換された習志野では大活躍 ―演劇好きで監督やら演出、主演までこなした方です。

伍長ではありますすが、戦闘部隊ではなく事務屋さんに近いポジションにいてはったみたいです。
靑島在住時代は一介のサラリーマン。お付き合いしていたロシアの音楽家女性と後に結婚、お子さんもお二人 ―とのことです。

靜岡收容所全体を見れば、脱走劇のオンパレード。脱走失敗の常習犯やら見事に故国に帰着した者やら。
そういう方面ではとても賑やかだったようです。

収容所の建物は他所と同様、既存建物を色々と工夫して使用しました。
ひとつは赤十字靜岡支社。

詳しく調べると「附属舎」となっています。記録によっては看護婦寄宿舎とも看護学校とも書かれています。收容所使用直前は寄宿舎だった ―が正解みたいです。

もうひとつは調べるのに難儀しました。「恤兵團授産所」。
第34聯隊の組織の一部と思っていたたら大間違いでした。

日露戦争出征兵の家族で生活に困った人たちを対象にした民間の慈恵団体。
縫い工場の写真を根性で見つけてやりました。

明治40年に内務省が広報用に発行した写真集です。































































当時の内務省も日露戦争後の民間の憤懣慰撫のためにあの手この手の工夫をされてたのでしょう。

団の本部は鷹匠町1丁目70ですが「Annex」と書かれた縫い工場は所在不明です。
リーフに書き込みましたが、脱走成功者のHeinrich Unkel さんの逃走経路は
「第2収容所南東方向にある傳馬町の田圃の中」
との記録がありますのでリーフの地図でほぼ正解と思っています。

或いは、同じ1丁目でも静鉄の北側の可能性は残ります。
同じ大正期と思われる住宅地図もネットで拾っています。













































もう一つヒントになる資料があります。
第2收容所を撤廃して第1收容所に合併させるときの文書です。

「加藤岩藏所有元恤兵團工塲」だそうです。
幸いにも「靜岡市地主名鑑」(大正5年3月帝國興信所刊)というのがありましたが、加藤岩藏さんという方は鷹匠町には土地を持っていないことになっていました。

建物の大きさは、写真で見ると桁行方向で12間くらいありそうです。
Rüfer=Rungas本には"in einer ehemaligen Mädchenschule mit nur 130qm"とあります。

間口方向に3間半程とすると約139㎡で丁度計算が合います。

1枚目のリーフには熊本と同様、俘虜の出入り表を書き込みましたが計算が合いません。
習志野に収容換された人数の記録=106人は一人少ないのです。

もうひとつ、いわゆる「長老将校」となった方のお名前も判らず仕舞です。いっちゃん偉い人は大尉で2名ですが…。

2枚目のリーフはシンプルなものになりました。筆記体が少しだけ読めるようになりましたが最後の2行が全くお手上げです。








どなたかお教えいただけるとありがたいです。
差出人も読み方不明 ―随分丁寧な書き方ですので、かつての部下だった人かなくらいしか分りません。











































































































































【自己評】
あまり書くことがありませんでしたので、絵葉書の発売者も調べました。実際にドイツ人日本人を問わず評判がよく、重宝されたお店だったようです。

2017年5月12日金曜日

丸二型日付印 ‐ 大阪局の時刻表示(推定)

しばらく投稿をサボると、すぐに季節が変わってゆきます。
何か考えがまとまる都度、それをリーフで表現する場にしたい ― 思いどおりには計行きしません。

先ごろのジャパンオークションで丸二のロットを落としました。おかげさまで大阪の丸二が少し纏まりましたので、今までの蓄積分と合わせて年月日順にプロットしてみました。

私の所持分だけでは当然足りないので、いつもお世話になっている本池さんの教科書やデジタルデータも併せています。

赤字が所持していないもの。
黒字が所持品です。

いきなり「神武天皇祭」などという文字が目に入ると思いますが、私は右翼ではありません。
(どちらかといえばleft sideデス)

配達等の業務に関係のありそうな、日祭日・正月の一週間(=配達回数半減期間)・暑中配達省減期間を色を変えて表示しているだけです。








































































Googleさんは大きい画像は原寸で表示してくれません。
仕方なく年別に分けて掲載しますので、頭の中で繋げてください。
36年分です。
























































































37年分




















































































38年分
























































































データ整理だけで終わらせるつもりだったのですが、やってみると面白かったので12便/日の構成を推定してみることにしました。

全データをプロットして、変化のあった直近の二つを⇔で結びます。
35年後半から36年前半にいくつも縦の⇔ができました。

大阪のデータの残存数は少ないので、1年くらいのレンジは当然覚悟の上です。
この変化は集中してごく短い期間に生じたと見るほうが合理的です。

そこで、すべての矢印の共通する期間をチョイスしました。
この短い期間に大きな変化が生じたはずです。
以下、同様にして調べたものが1枚目のリーフ上段の表です。

迷った点が二つありました。

〇 早朝と深夜(午前5時や午後9時台ですが)についてはいくつもの便が出現するが、すべて配達があったのか。

〇 日中でも、20~30分の間隔で異なる便号が存在する。どう考えるべきか。

迷ったら原点に立ち帰ります。
丸一の便号は、取集便ではなく配達便の順序を表示することと定められています。

しかし、本池さんの御努力のおかげで東京局は逓送便の便号と解明されています。
では、大阪は。

結論(推論であり仮説ですが)は、引受郵便物を処理する締切り時間の数と考えるのが妥当なようです。

明治33年9月制定の郵便取扱規程です。





































取集便と配達・差立便とを対立概念として扱っています。
成程、言われてみれば原料仕入れと製造工程みたいな関係です。

郵便函や受取所からの取集、他局からの行嚢などが仕入れ。
これらに引受印やら到着印を押印して、自局配達分は区分け、他局配達分は行嚢に詰めて差立て ― これが製造工程に該当します。

「成程」と自分で勝手に納得しています。

さすれば、東京局の丸二の便号の扱いもむべなるかな ― 配達便号のはずが逓送便号だったのはコインの裏表。

(大掴みには正しい理解と思いますが、本池さんご指摘の着印の便号体系が別に存在するという通信官署官制以降の問題は未解決のままです。)

色々考えて、同じ郵便取扱規程の次の条文が目につきました。






































もう一つ、櫛型の時代に入ってしまった後、明治42年刊ですが「通信要録」という一般向けの詳細なガイドブックがあります。

東京郵便局長で法学士の坂野という人が書いた本です。
小包についての記述です。













































東京郵便局長は奏任官でとてもエラい人ですので、多分局内の各部署担当責任者に書かせたのでしょうが、それだけにリアルで信憑性があります。

これらに目を通して後に思いついたのですが、局に到来した郵便物の処理が完了する時刻を全郵便物で同一にするのではなく、締切時刻を統一したのではないか ― という考えです。

上記の規程にもあるように、通常郵便より小包郵便の方が処理に時間がかかるようです。
その時間差は、小包と通常便との個数比によります。

大阪局の場合、その差が20~30分だったのでしょう。
当然推測の域を出ません。

実証するには、同日かごく接近した日の通常便・小包便のエンタが必要です。
通常便は書留が望ましい。 ―書留も通常便と同じ時刻に締め切られ消印されたことを示すために― です。

書留はどうにでもなりますが、小包送票は大阪ではむつかしそうです。
包装は ―布であれ紙であれ、ボロボロになるまできちんと再利用されています。
小包受領証なら何とかなりそうですが本池さんの本の表紙の写真しか見たことがありません。

せめて書留料金を超える15銭以上の切手に20~30分後の時刻が表示されていることを示せば傍証にはなります。

さて、もう一つの課題。 深夜・早朝便です。
これも、「逓信法規類纂」(郵便編―明治34年12月現行版)からの引用ですが、






















































丸一便号の使用法についての照復です。

一日の最初の取集便より配達便の方を早く始めているので、(配達便に一致させる日付印の便号は)イ便取集便の検印にロ便の消印を使うのは変だ。何とかしてくれ ― との趣旨ですが一蹴されています。

興味を引くのは、神戸=新橋間直通列車が夜間に京阪神に到着するという話です。
調べてみました。



































成程、丸一鉄郵の東京神戸間は上り下りともに「五便」まであります。
京都局の言う「下り大線」で運ばれてくる東京からの行嚢は21時ころに到着。区分けして配達するのは翌朝早くでしょう。

大阪ではどうなるか。
2枚目のリーフで、こじつけを交えながら 支局(代表に大阪局から最も近い天滿局)=大阪局=「梅田のステンション」を並べてどの便号(時刻表示)が使われるべきか考えて作ってみました。

しかし、これも切手コレクションであるからには実物のエンタがないと意味はありません。
何年かのうちに入手できればまたお知らせします。
「予言が当たったゾ」と鼻高々に ―。






































































上のリーフでは各時期の頭と尻が不確かなので、合計12便/日という確実な結論が出せません。
ただ一つ、普通便と小包便との時間差というもっともらしい推論だけは自信があります。

暑中の配達省減期というのは、毎年7/11~9/10の間炎天下の配達を回避するために配達回数を減らしてもよいよ ― というお触書で明治23年公達第270號です。

当然午後1時台の配達時刻が間引きの対象になったと思っています。
配達夫は体力維持のため、昼食後の短い午睡に利用したのではないでしょうか。

それにしても、通年で手に入れにくいのは何故なんでしょう。
もしかしたら、別配達が有るときだけの配達便でしょうか。

1日の全部の便を眺めると、朝・昼・夕の食事に充てた時間らしきものが何となく浮かび上がってきます。
(直前の便との時間差が1時間半ほどの便のことです)

或いは、「后0」というのが書留や別配達などの特別の便かもしれません。残存数も少なく、リーフに貼った10銭切手も書留エンタからわざわざ剥がしたものです。

次のリーフも、肝心の部分については結局判らず仕舞いです。
早朝の3~5便の関係が全く掴めません。







































































【自己評】
精進の甲斐あって、時刻のバラエティーはかなり埋まりました。
次は、これらの推論のどれか一つでも実証できるエンタを探すことです。
楽しみが増えました。
同時に、ここまでいじくりまわして調べまくったのも初めてのことです。
先達の御苦労のかずかず、末座を汚すものとしてそれらの片りんでも味わえたなら幸甚ではあります。

明治の時刻表を調べたい方へ;

旧近デジに資料が豊富ですが、「時刻表」や「列車」ではヒットしません。
それぞれ「時間表」「汽車」に変えていただくといくつか見つかります。
あとは、「旅行」や「(地名や地方名) 案内」なども有効です。
地方の図書館でも「明治大正時刻表―復刻版」(1998刊 第1巻から第10巻+1冊あります)を所蔵しているところもあります。
私はまだ見ていません。

2017年3月2日木曜日

青島俘虜郵便‐熊本収容所                      Die Kriegsgefangenenpost Tsingtau

ようやくお水取りが始まり、時々立ち消えのする書斎のエアコンと付き合うのもあと僅かとなりました。

手元にある幾十枚かの俘虜絵葉書の中から熊本を選んで挑戦してみました。

アジ歴に熊本收容所の日誌が残っていますので全容の概略はわかりますが、細かいところはまだ調査が要るようです。

従来からの解説書に書かれているようにいくつかのエリアに分けて収容したのですが、「京町」という地区も散見されます。

收容所の日誌でも最初の計画には入っています。

往生院と光永寺とが候補として挙げられています。西南戦争でも政府軍の宿舎となり、柱に弾跡が残っている ― とネットでの聞きかじり…

しかし、以降の日誌には一切登場しませんので、多分実際には使われなかったのでしょう。
細工町收容所には西光寺・阿彌陀寺以外に「光惠寺/光善寺」があると書かれている教科書もありますが「光永寺」の誤りかと思われます。

千反畑收容所は将校宿舎と本部事務所とが置かれた場所ですが、将校宿舎だけが特定できました。

将校用の「物産館集議所」は元熊本洋學校教師であったL.L.ジェーンズ邸。国会図書館資料で見ると当時は貸し会場として運営されていたようです。

1970年水前寺公園に移築され、昨年の熊本地震本震で倒壊とこのと。

























移築後の姿ですが、瀟洒な建物だけに惜しいです。
この建物に将校56名は詰め込みすぎではと心配します。

分からないのが将校従卒の宿舎に充てられた「米穀檢査所」。当時の熊本の案内書には物産館にあると書かれています。

また、本部事務所に充てられた「縣農會事務所」も同様で物産館内。

しかしこの千反畑(正しくは南千反畑町)地区は公共施設エリアでいくつもの公共施設が様々に使い廻されてきた経過があります。

ですので、本館内とは限らず集議所以外にも別館があったかもしれないのです。
もう少し調べれば判明するかもしれません。

施設の使い廻しは短い収容期間にも起こっていて、坪井郵便局が移築されるので収容場所を変更し縣會議塲に移動したと日誌に書かれています。

一見関係がなさそうですが、多分この施設をあそこへ、あの施設をどこへ ― という玉突きがあったのでしょう。































リーフの画像ではわかりずらいので、拡大図です。

縦書丸一収集家を悩ませ続ける、あの「熊本坪井郵便局」(旧称熊本坪井郵便電信支局)のことだけに気になります。

実際に、大正15年のナントカ共進会会場図には坪井局の位置が上図の移転後の場所に描かれていました。

以前にもブログに書きましたが、1枚のリーフに地図やら絵葉書の裏やらと収め切るのはかなり無理があります。

将来はもう少し熊本エンタを手に入れることを見越して地図だけのリーフも作ってみました。






































































学部の卒業論文レベルまでは達していなくても、高校生のレポートくらいの水準は超えていると自負しています。

さてエンタのリーフです。






































































差出人は、Johann  Gerlich とおっしゃる海軍の2等火夫さん。(Gef. -Nr. 3346)
一緒に収容されていたお友達の火夫が大分に収容換されて一人ぼっちになりました。

そこへ大分から届いたイースターの挨拶状 ― よほど懐かしかったと見えて大喜びで返事を書いたはります。

胸を張って、「戦友ヨハンより」(Kriegskamerad  Johann)
同室収容であろう二人の名前も並べて「よろしく伝えて」みたいなことをごちゃごちゃと。

したがって、1枚の絵葉書に俘虜兵が4人も登場しているお買い得品でした。

Herrnを冠せずHeizer(3格も同形)と書いたものは初めて見ました。

陸軍で言えば輜重輸卒同等の僅かな尊敬しか得られなかったであろう2等火夫という仕事にこの二人は大きなプライドやら仲間意識を感じていたのでしょう。

それとも、ただの社交儀礼の挨拶葉書…。

郵趣上の見地から問題になるのは検閲印です。
初期には「檢閲濟」と縦に書かれた朱印が使われたようですが未収です。

面白いのは検閲者の印。
渡邉さんは所長の次に偉い人で「渡勉」のハンコもあるようです。

武藤印は書記。
日誌には「本部事務所に書記を二人置く」とあり、両名の事務分掌まで定めています。(日誌11月20日)

うち一人が俘虜郵便に関することを担当することとなっており、これが武藤さんと思われます。

「横」字は横手收容所、「細」は細工町です。
「細」字は吉田景保さんの訳本に写真がありました。(p44)

SDPDG印はとても面白い特徴があって、
①「Sce  DE  SPRISON…」としか読めないこと
②「PRISONNIERS」の「I」が小文字「i」の形になっていること
です。
後者の特徴は、手書き文字にはしばしば見られる読み違い防止策ですが…。

絵葉書の裏は墺洪兵を収容した妙永寺。
ネットで調べて知りましたが、加藤淸正のお母さんの廟所だそうです。

山門右の石碑、刻字の上に紋が二つ並んでいますが左が淸正公の蛇の目紋。右は判然としません。


【自己評】
エンタをしゃぶり尽くす快感が味わえました。
ついでながら、フォントの活用も。武藤さんによって鉛筆書きされたであろう「大分」の文字は「恋文ペン字」というフォントです。とても便利です。


2017年1月11日水曜日

縦書為替印‐爲替取扱所

新年おめでとうございます。

アメリカもヨーロッパも中東も北東アジアもとても騒がしく、とてつもなく酷い事件だけは勘弁してほしいと願う新年ではあります。

随分長い間投稿から遠ざかっていました。
その間、縦書の爲替取扱所が手元にたくさん集まって収拾がつかなくなりました。

ということで、リーフの再整理です。
いきなり全リーフをご覧いただきます。前回あれこれと書きなぐっていますので今回は画像中心の投稿です。

まず東京から。




































































































































淺草田町はとても難しそうです。
ウェブの青雲倶楽部で拝見した以外見たことがありません。






































































この3リーフで東京の部は仕舞です。続いて京都。






































































地元ですので、室町丸太町が手に入ったときは嬉しさも倍増でした。
それ以上に、六條受取所に月型の存在を確認できたことの方がよかったですね。

四條繩手は、月型が有るのかどうか未だ不明です。

次は大阪の2リーフです。






































































これも瓦町受取所の褐色印が有るはずなのですが…。







































































順慶町受取所の月型に2種類あるのは、自分としては新発見です。
欲を言えば、天滿市塲の郵電改定前の丸一が欲しいところです。

更に、名古屋以下各市の取扱所とその後継受取所が続きます。






































































こうして並べてみると、「全部を赤二で」というのは夢のまた夢。
それよりも、各受取所の月型の存否確定が先決です。






































































東四十物町取扱所を手に入れたときは、さすがに興奮しました。






































































先日ヤフオクに廣島京橋町取扱所の赤二が出品されていましたが、なぜが気が萎えて競り合いませんでした。

私の入れた札に、下から20数ビットかけて小刻みに這い上がってきた方の手に落ちています。
まあ長い人生、また入手の機会はあることでしょう。






































































追手町取扱所は情けない印影ではありますが、市内の取扱所はこの一箇所だけです。






































































北長狹の年型は、やっとの思いで手に入れました。






































































このリーフ辺りからは、一枚でも手に入れば赤飯(私としては―です)もの。











































































































































以上で全部です。
宇都宮大工町は以前見ていただきましたものから殆ど進歩していません。

しかし、受取所の年型と月型との日数の乖離が短縮されました。
もうひとつ、宇都宮町が意外に大都市であったことも勉強してわかりました。

【自己評】
各リーフの下に年表を入れるのは、書き込みがとても簡潔になって良いアイデアとは思いましたが10数年ものレンジをリーフの横幅に入れ込むのにはチト無理がありますな。

そして各取扱所の消長はよく分かるのですが、これに消印のタイプ変化まで対応させるとなると、1リーフ4段では詰まりすぎます。

今日ご覧いただいた各リーフも、いずれはさらに詳細・精確な書き込みのために変える時が来るのでしょう。

ただし、10年ほど必要かと…。



2016年6月9日木曜日

青島俘虜郵便‐名古屋寺院収容所                              Die Kriegsgefangenenpost Tsingtau                                 - Das Nagoya Tempellager                               Seesoldat Konrad Drzisga Gef.-Nr. 2507

今までこき使ってきたWindows Vistaがついに昇天されました。
代わりに届いたWindows Edgeの使い勝手は得も言われず、摩訶不思議…。

「お気に入り」がとてつもなく使いづらく、それでも慣れる外ありません。
さて、梅雨にも入り本日は名古屋寺院収容所です。

収容所研究についての偉大な先達方の案内をウェブで拝見するのですが、もう一つ要領を得ません。

アジ歴も肝心の部分が見つからず、それでもやっつけてしまいました。
しかも俘虜の二等兵さんのお名前が「Drzisga」。

どう発音するのか迷いました。 ― そうか、ロシア系か…。「ドゥロツィスガ」。
なんとなく一人で納得してしまっています。

次は、恒例の収容所の場所探し。
「チンタオ・ドイツ兵俘虜研究会」の名古屋収容所のページには

「門前町の東本願寺西別院天寧寺および梅川町の長楽寺等に」と述べられています。

いろいろ調べましたが、「西別院」ではなく「別院」のようです。
「西別院」は本願寺派の別院の意です。

したがって、東西を付すなら「東別院」。
もっとも名古屋市内のすぐ近くに西別院もあります。





























毎日お世話になっている「今昔マップ」さんからの切り貼りです。
次に判らないのが「天寧寺および梅川町の長楽寺」。

ネットで調べる限り天寧寺は西別院のすぐ東側に今も見つけることができます。
長楽寺はネットでは南区。梅川町でもありません。

しかも、アジ歴では私は両寺の名前を見つけることができませんでした。

今月から名前を変えた旧「近デジ」。
大正4年刊の「名古屋市史 社寺編」に掲載されていました。









































ともに曹洞宗のお寺さんです。
「長楽寺」に似た名前を探しました。

これでほぼ作業は完了ですが、両寺は将校宿舎に充てた等の記事が見つかりません。
仕方なく見切り発車です。

次に興味を引いたのが絵葉書の裏側。
どうも「Abs.  Seesoldat private  Drzisga」と書かれているようです。












私の読み間違いでなければ―の話ですので、拡大図を入れておきます。
英語なら二等兵ですが、ドイツでもそういう呼び方があったのでしょうか。

リーフです。
縦書きの朱印「俘虜郵便」と「檢閲濟」とが仲良く並んでいますが、二連印ではなさそうです。






































































【自己評】このリーフも調査が中途半端に終わって「推定される」などと書かざるを得ませんでした。
残念。

2016年6月2日木曜日

青島俘虜郵便‐大分収容所                              Die Kriegsgefangenenpost Tsingtau                                 - Das Oita Lager                               Oberleutnant Wilhelm Schliecker Gef. -Nr. 2050

今回御覧いただくような悪筆は大変に疲れます。
ジャパンさんのPA92ノービッドお余り品です。

読むのにとても苦労します。読めません。しかも、珍しい名字。時間がかかります。

このこととは逆に、収容所の所在はすぐに判りました。
しかも、事務所の位置まで。

公式記録での収容所の所在地は、事務所の位置を以って代表させています。

幸いにもアジ歴で、大分他の収容所から人員増員願いが陸軍省に提出されています。
大分は、涙ぐましくも分散収容所と事務所との位置関係・道矩を図解してまで増員の嘆願です。(JACAR-Ref.C03024470100)














































将校用宿舎に充てられたのが赤十字大分支部の建物。
全室洋室で、将校用として相応しく思えたのでしょう。

下士卒用宿舎は、大分市立第一尋常高等小學校。4棟の校舎のうち1棟を使ったそうです。
(収容所に充当された時の名称です。以前は郡立。)

二つの建物のことは、大分県立図書館のサイトや別府大学の安松教授の論文等にも詳しく書かれているので、助かりました。

リーフは、絵葉書の裏の大分支部の写真も大きくコピーしたかったのですが、二つの収容所と事務所との位置も図示したかったので、しかたありません。



【自己評】

将来、各収容所ごとに複数の絵葉書を並べられるようになれば、サブタイトルリーフ風に収容所の地図や関連データのみのリーフを作り……まだ先のことです。
筆記体が読めません。葉書宛先の工場は、"Ultramarinfabrik"と書かれているようにも思えますが「群青の工場」―何のことやら。
もうひとつ、葉書の通信文も。〇〇グリュッセのようですが、これまたさっぱり。
まあ、気長に何年も付き合えば解るようになるのでしょう。

さらに気になるのが、私のドイツ語表記です。例えばタイトルも、Oitalagerと書いてもよいのかダメなのか。まったく知りません。

なお、葉書右下の「A396」は郵便物管理のための俘虜ごとの番号なのかどうか判別できませんでしたので、今回はパスしておきました。