2015年5月4日月曜日

丸二型日付印 ‐ 東京郵便電信局/東京中央郵便局/東京郵便局 (2)

丸二型日付印は、明治331228日に発せられた公達第768號によって使用が開始されました。
28日からなのか29日からなのか確証がありません。

現在見つかっている最も古いデータは、「33 -12 -29/前6 」だそうです。
エンタでは、「33 -12 -29/后8 4/6 」(あずき3銭×3枚 茶1銭×1枚の混貼)というのをどこかのネット画像で見かけています。

上記の公達は、
「東京郵便電信局郵便、郵便爲替、郵便貯金、電信日附印左ノ通改正ス
   但シ當分ノ内從來ノ日附印ヲ取交セ使用スルモ妨ナシ」

というさっぱりとしたものですが、実際には電信事務には使用されていません。(このことは後日お示しします。)

前回、元日の丸二型日付印の葉書を示す部分がブランクのままのリーフを臆面もなく御覧いただきました。

恥かきついでに、普通の収集家ならまず展示することは無いであろうエンタのリーフも御覧ください。

34 -1 -3/前4 」の消印ですが、5厘切手に大きなダメージがあります。
それでも気に入っています。

御存じのとおり、この年の前年明治33年の郵便規則で私製葉書の規定が新設されています。そして初めて迎える新年です。

私製葉書は大変なブームだったようで、報知新聞の附録です。
葉書の縁が歪んでいます。和鋏でちょきちょきと不器用に切ったのでしょう。

発信は、「日本橋區浪花町西 よしり 老母」となっています。
場所柄や屋号の感じから三業(料理屋・待合・置屋)のいずれかと思われます。

現在の日本橋人形町の北東の方の区画です。「浪花町西」となっていますので、旧人形町に接した境の付近でしょう。

宛先は、自称「老母」の娘さん。
神田錦町三丁目の「東京看護學黌」となっています。お正月にも実家に帰ってこないお転婆さんだったのかどうか。
それでも、お母さんとしては鼻高々だったのでしょう。高等女学校と並べて遜色のない教育機関だったのではないでしょうか。

そんな明治の雰囲気が感じられて、良いです。

もちろん文面の「あら玉のとしを」は枕詞の誤用ですが、他の丸二のエンタでも、かなりの教育を受けたと思われる人が同じ言葉を使っているのを見かけています。
このころには、既に一般化した誤用なのでしょうか。





























































【自己評】
スキャナが相変わらず赤味を強調してくれていますので、随分古色がかっているように見えます。
とにもかくにも、丸二の時代は明治の隆盛期(日清戦争で淸から獲得した康平銀2億兩がその元手です。)。
なにかそんな雰囲気を表わすリーフができればよいナ…と思っています。



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