前回の投稿からずいぶん間隔が空いてしまいました。
リーフ整理を少しくサボったこともありますし、盆休みで久しぶりに孫が来たり…いろいろありました。
靑島俘虜郵便の2回目です。
大分収容所は、早めに店じまいされてしまって全員が習志野に収容換(※)されています。
※ お役所用語では「シュウヨウカン」と読むのだと思います。
今でも任命換(=ニンメイカン。異なる任命権者が発令すること。)
などと使われています。
大分収容所では、兵士・下士官用の宿舎に古い校舎が充てられます。
3棟の建物のうち1棟は棟の半分をまだ学校として使っている状態です。
そのため、子供たちとの良い交流もあったとのことです。
一方、宿舎の周囲は板塀で囲われていましたが、外の田園風景はよく覗くことができ、女性の田植え仕事で胸がはだけたりするのが眺め放題だったとか。
そんな開放的な状況も手伝ってか、日本の風習に通じた将校が3名ほどの下士官・兵士を連れて「脱走」し、遊郭に上がり込んで日本女性との「意思疎通」を堪能した ― という武勇伝が残っています。
当然30日間の営倉入りでした。
将校は全く別棟の赤十字社の建物が割り当てられていましたが、寝泊まりは校舎だったそうです。
お示ししますRPPC(写真絵葉書)は、差出人が何やらロシアめいた名前ですがもともと靑島で鉄関係の商いをしていた方のようです。
それにしても愛想の無い葉書で、住所は8月から東京の近くの習志野というところに変わるよというゴム印と、後は大分よりと書かれているだけです。
多分随分たくさん同様の葉書を出したのでしょう。
それも、葉書を出したくない相手にいやいや書いた…みたいなところが面白いです。
所属の「海軍野戦砲兵隊」というのは、生粋の海軍で、靑島守備の主力であった「第三海軍歩兵大隊」みたいな「本当は陸軍」とは異なるようです。
この方は、解放後も靑島に住むことを希望したようで、大正9年2月付けで靑島民生部から発出されたこんな報告書が残っています。
文頭に書かれている2名の解放俘虜のうち「アルクシンンスキイ」とあるのが御本人さんです。
アラブ系ロシア人みたいな変な名前になってしまっています。
「カ(ー)ル」の「カ」を「ア」に写し違えたのでしょう。或いは「カアル」の「カ」が脱落したのか…。
こんな靑島ファンが120数名ほどいたそうで、実に全俘虜の2.5%に及びます。
靑島で留守を守った家族や知人も、彼らを迎えるために港にアーチを作って歓迎したという話まで残っています。
例によって、写真の美少女は前回にも名前だけ出しました半玉の「音丸」ちゃんです。
この娘については面白い話があります。
養母によって新橋に出されたが一向に売れない。
これを案じた物好きの文士二三名で計略したのが、絵葉書。
明治の末年には既に照葉姐さんみたいにもともとスキャンダラスな娘が腕の良い写真家によってさらに有名になり、スターダムにのし上がっていました。
それにあやかろうと多くの写真を売り出したところ、元来生真面目で努力家だったこともあって一躍有名になり、「半玉七人娘」(揃いの半襟、揃いの帯…さながらAKB48か、ももクロかみたいな)に最若年で名を連ねたとのことです。
また、後に清元の家元に嫁ぎ幸せな生涯を送ったとか。
リーフです。
【自己評】 収容所の検閲印はいろいろあって面白いので、当分リーフごとに拵えてみようかな。
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