2014年8月23日土曜日

青島俘虜郵便‐大阪収容所 Die Kriegsgefangenenpost Tsingtau - Das Osaka Lager

靑島俘虜郵便の絵葉書だけを、それも芸妓・半玉の写真絵葉書だけを全収容所分集めてみようかと思いましたが、2年や3年でどうにかなるようなものではありません。

当然ただの風景写真絵葉書も入ってしまいます。

昨日、ジャパン・スタンプ商会オークションの下見に大阪第三ビルまで出かけて行きました。
坂東や似ノ島の俘虜製絵葉書が沢山あって、ただただ見とれて時間を過ごしてしまいました。

そんなものも世の中には有るのですが、とてもとても手に入る値段ではありません。

今日は大阪収容所の俘虜の葉書です。
先に紹介しました「チンタオ・ドイツ兵俘虜研究会」のサイトには該当者の氏名が見当たりません。

広い世界のどこかにはヒットするサイトが有るだろうと、俘虜のフルネームを原語で打ち込んで検索してみますと、ありました!

Tsingtau - historisch-biographisches Projekt というサイトです。
http://www.tsingtau.info/index.html?namen/p.htm

彼の氏名は見つかりましたが、seesoldat=二等水兵でヴェストファーレン出身ということくらいしか判りません。

したがって、このリーフについて書くことはこれで終いです。
それでは面白くないので、消印の日付でも御覧ください。

大正561日となっています。
この3箇月前に大阪収容所で大火があり、収容棟のいくつかが消失しました。

その焼跡にグラウンドを作りラグビー競技が行われています。このチームは似ノ島まで継続し、そこで本邦初の国際試合が行われたとか。

それはともかく、この火事の後は事務方が大忙しでした。
当時の記録では、
「俘虜郵便物ノ檢閲ハ常ニ煩累ヲ極メタル所ニシテ所員及通譯ハ多ク之レニ没頭シタルノ状況ナリ」
となっています。

将校二人と通訳文官だけでは、とても500名を超える俘虜全員の面倒は見きれないでしょう。
私も退職前は、とんでもない大規模府立学校(職員数実に240名)の事務方をしておりましたので、気持ちはよく分ります。

大阪収容所の記録は多くは残っていません。(捜し方が下手なだけかも…)
上述の俘虜の氏名も含めて、いろいろ検索すると面白いものが残っていました。

薄田泣菫が大阪毎日に連載した随筆です。
彼の体験談ではなく伝聞を題材にしていますので、話半分でしょうが ―

















































































もとより全てのロシア兵や全てのドイツ兵がこうではありません。当時の人の目にはこのように写った ― という程度です。

それから、決してヘイトスピーチではありません。念のため。
日露戦争俘虜を道後温泉に連れて行ったら、風習の違いからとんでもない誤解を生じたなどという笑い話もアジ歴の公文書に残っていますが、またの機会に…。

さてリーフです。
白紙みたいなリーフで書き込むべき内容がありませんが、それにしてもこの葉書に押されたゴム印は、誰が拵えたのでしょう。

俘虜が原稿を書いて、日本の印判屋さんが彫ったのでしょうか。























































【自己評】 コレクションとしては誠に貧弱至極ですが、資料調査が面白い分野です。財布の負担を考えながら少しづつ増やしたいですネ。


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