2019年7月12日金曜日

靑島俘虜郵便繪端書 - 東京收容所                              Ansichtskarten der Kriegsgefangenenpost Tsingtau

東京收容所と習志野です。いつも通りリーフをご覧いただきます。
(リーフはクリックで拡大します。原寸は横1,200ピクセルです。)








































陸路のコースを図示することができました。Dr.佐藤吉宗という方のブログの御蔭です。

ストックホルムではなくMalmöを通過するコースにしているのは、大正4年9月に俘虜郵便のための支局が設置されたからではありません。

むしろ逆だろうと考えています。北欧3か国の首脳が集まって大戦中立を決したのもこの町です。
交通の要衝だったのでしょう。

瑞典からバルト海を経ずにロシアに通じる唯一の陸路がカルンギという町にたどり着く1本の線路だったとのことです。

その陸路を経て、ペトログラードでさんざん検閲され600キロ離れたモスクワへ。そこからさらに2週間かけてウラジオストック→敦賀という長旅です。

大正3年在ロシアの本野大使からのレポートでは「ストックホルム=ペトログラード間は1日1便、3~4日所要」とのことです。

ぺトログラード=モスクワ間600キロというのは丁度東京神戸間ほどですから20~24時間とみてよいでしょう。

また「浦潮斯德  附西比利亞鐵道案内」(大正4年6月刊)にはウラジオ=モスクワ間は郵便車で14日間との記述があります。







































収容人数は記録によって2~3人の出入りがありますが、実人数ではなく在籍主義を採るとこの表が正しいようです。

廣島衛戍病院から退院の際に収容地を大阪に変更された俘虜については、決裁文書に「俘虜本人との約束だから大阪に行かせる」との付箋まで残っています。








































収容4日目ですが、早くも簡単な挨拶文だけ。兄弟さんか従兄弟さんに宛てた第2信です。
Rüfer - Rungasは検閲者をDEWAとし、「旧版ではHANYUと書いた」と注釈を入れています。
多分、入れ知恵をした日本人をあまり信用していなかったのでしょう。
大正4年5月の職員録です。






















この時期、先任の尉官を「高級」、下っ端の方を「次級」と呼んでいました。郵便担当は次級尉官の仕事です。







































当時の海運をいろいろ調べているうちに H.A.P.A.G. (漢米郵船會社)というのに行き当たりました。
「漢」は漢堡土=ハンブルグです。

どんな経路で入手した絵葉書なのか判りませんが船会社のノベルティーグッズです。
ちょっとうれしくなって貼ってみました。

リーフを拵えた理由付けを後で考えましたが、日本発信で交換局印の押されたものは少なく、その理由をあれこれ推測して書き込むことにしました。







































このリーフが東京収容所の花形です。
葉書の発信地と郵便局で書き込まれた経由地とを地図で調べて、びっくりでした。

丁抹に近いクックスハーフェンから一旦南に下がってスイス国境近くのカールスルーエへ。
一旦ジュネーブまで行って再度北上、オランダは多分ロッテルダム港でしょう。

アジ歴にアメリカ大使の寄こしたメモが残っています。



































原寸は小さく読みづらいので1.5倍に拡大しています。(かえって見難い?)
「via Switserland and via Holland through America only.」

この文書の存在は知っていましたが、本当にエンタで証明できるとは…。

葉書の日付は、まだシベリア鉄道ルートが使われていた時期です。
このころからロシアによる郵便の抑留が始まっていたのでしょう。

日本郵船もベルギーのアントワープ港までの命令航路を持っていました。
しかし西部戦線の構築とともにドイツの管理下に置かれたので、ロンドン以遠には行けません。

そこでジュネーブの中央俘虜委員会はアントワープ港隣接のロッテルダム発北米経由を選択したものと思われます。

リーフに書いた通り、とても短い日数で日本到着しています。

さすればそのルートや如何に。

想像を逞しくすれば、カールスルーエの駅舎にジュネーブの出先事務所があって、中央情報局発の郵袋に詰め替えるという便法を使っていた -そこまで親切だったかどうか。

さて、ロッテルダムを出港した船はイギリス船籍と断言できそうです。
軍需物資運搬でどこの国も船腹に余裕はありません。

さらに、尾上一雄さんとおっしゃる方の論文がネットに上がっていましたので、活用させていただきました。

イギリスは欧米間の郵便を執拗に検閲していたとのことです。

前述の論文のもとになった「History of the American People, Vol. II」の該当ページです。






























通俗史本も趣味・道楽になら役に立ちます。

赤色の大きな©は後に青色の「丸にP.C.」印に変わりますが、検閲所番号らしきものが入っていません。

おそらく移動検閲所 ―となれば船内検閲所しかありません。
画像データだけですが同じ検閲印の押印されたエンタがあります。



















淺草局の引受印が無く交換局の東京中央欧櫛もやや不鮮ながら、「9.3.15」と判読できます。

この日付ですと日本郵船で横濱からロンドンへ、その後英国船籍の船でオランダに渡ったのかもしれません。

リーフに貼り付けたものは、28日間という驚異的なスピードで到達しています。
こんな芸当ができるのは、カナダの大陸横断鉄道とそれに都合よく連絡する大西洋ライナーを持った Canadian Pacific Railway Co. くらいです。
しかも当時からその快速は有名でした。

アメリカ西海岸から先は同社の船もありましたが、開戦以来2週1便のところが半減。逓信省のデータでは9月以降毎月1便、11月は欠航という状況です。

素直に日本郵船か大阪商船のシアトル・タコマ線で横濱までと考えた方かよいでしょう。

逓送ルートの解明は、日本発出より到着郵便の方が多くのデータを得られます。
しかしなかなか入手できません。
時間をかけるのは郵趣家の得意とするところですので。待たざるを得ないです。

【自己評価】
かなり郵便史コレクションらしくなってきたと思っていますが、余計な書き込みをどれだけ残してどれを削るか ―まだ迷いがあります。

道楽の世界なので好きなようにリーフを拵えればよいのですが、人に訴える力を考えると…。



2019年3月11日月曜日

縦書為替印‐新発見 内地3局目のダルマ型

内地では3局目となるダルマ型の発見です。

(クリックで拡大します)




























































羽後(秋田)院内郵便電信局です。
後志の南尻別局、對馬の小茂田局以外にもまだ有るのかも知れません。

院内局は明治23年には為替事務を取扱い、明治30年に郵電改定されています。
したがって印顆更新です。

消印日付は 34.12.16 です。小茂田局と同様に34年中の、恐らく同一の印判業者による製作と考えるのが妥当でしょう。

局名部分の字体は、3局ともに水平/垂直な直線を多用していて角張った印象を受けます。

以前ダルマ型のリーフをご覧いただいたときに、
新設の南尻別・更新の小茂田ともに同一発注、同一業者の受注ではないかと書きました。

https://kitte-renshucho.blogspot.com/2014/06/blog-post_13.html


南尻別は明治34.2.1 開局ですので、多分明治33年末ころの出来事と思われます。
当該年度の予算について収支ともにほぼ見通せるのが年末ころ。

廳費に限りませんが、年度当初は手元の歳入現金自体が少なく、日露戦景気に沸く前は慎ましい予算執行であったと思われます。

恐らく、かなりの執行制限がかけられていたのではないでしょうか。
(史料がなく憶測です)

さて件の印判業者ですが、当時の逓信省の規則では、
郵便関係の消耗品については、見積額5円未満は3円以上の納税者でないと入札に参加できませんでした。

このようなスケールの発注区分であるならば、相当の数量を請け負ったと思われます。
あるいは、競争入札に付することなく、随意契約で少量を発注していたのか実態は全く不明です。

南尻別に関してだけでも、縦書以外に丸一や局印・局長印・爲替之章…
多種の印章製作が必要です。
さらに、同時開局の北海道11局も併せて発注されているはずです。
これに加えて、多種多局の更新印顆を抱き合わせて受注 ―となれば、多くの弟子を抱える大業者でしょうか。

想像することしかできませんが、楽しいものです。

以前にご覧いただいたリーフから、収集がほとんど進んでいません。(このクラスの稀少度なれば当然のことです。)

新たにリーフを作ることもできず、ただの臨時ニュースの投稿です。

臺灣の北斗だけでもご覧いただきます。






















































自己評
小茂田のダルマと院内の月IIK33年使用例が無いとリーフは作り直せません。
「生きてるうちに」さえ難しいところです。











2019年3月4日月曜日

靑島俘虜郵便繪端書 - 名古屋收容所                              Ansichtskarten der Kriegsgefangenenpost Tsingtau

今回は、失敗作です。
ですから気乗りせず、いやいや書いています。

沢山あった収容所は、最終的に6箇所に収斂します。
500人規模3箇所と1,000人規模3箇所です。

名古屋はそれらのうちの小規模収容所に属しますが、大規模収容所の大量生産風画一エンタでない手作りの面白さ=収集家しか喜ばないような小さなヴァリエーションがあります。

前回の福岡同様、俘虜郵便印/SDPDG印の変遷をテーマにリーフ展開したつもりだったのですが、全体を眺めてみると、その流れがさっぱりわからなくなってしまっています。

それぞれのリーフ自体はまずまずの出来と思っていたのですが…。
リーフづくりはできても、リーフ展開の技量は無かったということでしょう。

リーフにはもう一つテーマを放り込んでいます。
郵便史コレクションのマストアイテム=逓送ルートです。

大雑把に言うと、
① 1915(大正4)年末ころまで    シベリア鉄道輸送がメイン
                  南太平洋・インド洋でドイツ軍が
                  通商破壊
                  その後、対英海上封鎖で海運停滞

② 1916(大正5)年初めころから   ロシア政府の俘虜郵便検閲や
                  妨害回避のため、ドイツは海運を
                  選択

③ 1915(大正4)年10月ころから   U-Boot が地中海で通商破壊活動
                  このためスエズ運河経由の海運が
                  激減

※ したがって日本からの東回り航路がメインになります。
  しかしパナマ運河の崩落事故が続発、北米西岸⇒陸路⇒北米東岸⇒大西洋
  という航路がメインの選択肢でした。

  さらに軍需物資の輸送・各国軍による船舶徴傭で船腹不足が常態化し郵便逓送や民需
  は打撃を受けます。

※ なお、1918(大正7)年3月から俘虜郵便以外の全郵便物もシベリヤ経由は廃止に
 なります。

もとより開戦中のことですので、独⇔日の郵便物は全て中立国を経由するという迂回ルートまで強いられています。
(シベリア経由はスエーデン、大西洋経由はスイス)

これらのこと全てをリーフ展開の中で示すのは、マテリアルの良否もさることながら、全リーフにわたる統一表示が必要なのかと思います。

では、お目汚しの失敗作を。
クリックで拡大します。












































収容所の俘虜の出入りと所在は基本中の基本ですので、表づくり・地図作りは、私自身が理解して納得するために続けてゆこうと思っています。












































見物人との混乱回避のため、はるか南の熱田駅で降車させたようです。

さて、リーフに貼り付けた Firma Kunst&Albers 漢口支店の E. Hueschelrath さん宛のクリスマスカードには、第18号室に収容された11名の署名があります。

もちろん金品寄贈を期待しての挨拶カードと思いますが、署名の中ほど左側に
Fritz Krautwurst という署名があります。キャベツソーセージという姓は初めて見ました。
一等海兵さんです。


ようやく本題 ―まず、大谷派本願寺別院時代の3リーフです。












































































































俘虜郵便印・檢閲濟印ともに枠付きと枠無しとがあります。理由は分かりません。
日露戦でもこの別院が使われましたが、その時の印顆とも異なります。

新発見を一つ。
R-R本では (u) とされた検閲印が郵便担当ではない方の先任中尉長長成さんの印と判明しました。

大正4年5月の「職員錄」に載っています。


























続いて、バラック時代です。











































ペトログラードで検閲していたようです。
検閲印無しの郵便も残っていますので、抽出検閲と思われます。

それでも順番が回ってくるまで一箇月以上待たされます。
失礼ながらそのおかげで、バラック初期便になりました。










































































































































































さすがに収容期間が長くなると、このリーフのような恨み言も言いたくなります。
初期の「元気溌剌でここに到着」とエライ違いです。

最後は、解放の日の切手を貼った葉書です。












































リーフ下部に小さい神戸市内の地図を入れましたが、「KOBE」局と「KOBE2」局とが併存したかどうかは不明です。

欧文印ですので引受時刻は不明ですが、必ずしも俘虜引渡し後に差し出されたとは考えていません。

朝の6時に三宮に着いてお昼まで随分時間があります。まだ俘虜身分のままだからと郵便局に掛け合うこともなかったでしょう。

気前よく4銭切手を貼ったことと思います。

【自己評】
反省点は本文のとおりですが、諸事象の変化や流れを明示するためには、1リーフに葉書2枚を貼り付けるような方法も検討してみます。






 


2018年9月30日日曜日

靑島俘虜郵便繪端書 - 福岡収容所                              Ansichtskarten der Kriegsgefangenenpost Tsingtau

靑島俘虜郵便です。
久留米の投稿で書きましたように、郵便史に徹した収集を進めることにしました。

したがって、未使用の俘虜製絵葉書は対象外になります。手持ちのものも売れるものは売ってしまいました。実逓便を入手するために ―。

福岡收容所は史料がまとまっておらず、アジ歴からあちこちのつぎはぎで何とか纏めることができました。

郵便史やマルコフィリーに徹するといっても、開設から閉鎖までの俘虜の出入りや各収容施設・収容事務所のロケーティングは基礎・基本ですのでスキップできません。

Meyer Waldeck總督が収容された特別の収容所です。その外にも、将校5人の集団脱走や全国を騒がせた「Saldern事件」(市内に居住していたSaldern大尉の若奥さん―実父はドイツの海軍大臣―が強盗に殺され、大尉も後追い自殺した事件)など話題には事欠きません。

そのあたりの話は、ネットでもよく見かけますのでここでは書きません。

1リーフ目は収容増減の年表ですが、「俘虜郵便」印と「SDPDG」印とを入れました。
邦字の俘虜郵便印が押印されるのはとても珍しいようです。

Rüfer-Rungas本でも「無いに等しい」との評価です。私も入手できたもの以外ではタカハシブログのカバーしか見たことがありません。

この二つの印は赤と紫とを見かけますが、常に丸二型の「福岡/俘虜收容所/檢閲濟」印と同色です。

一連の作業の中で同じスタンプ台を使って押捺されたワンセットの印判ということで、さらに検閲担当尉官の使用した四角の枠の仮名文字印(すゝき・ヤスヲカ・クリス・もりやま等)も同じ色です。

このゴム印用のインクの色での判別は、当然他の収容所についても有効そうです。
他日ご覧いただくつもりですが、松山収容所です。
SDPDG印の種類が多すぎるのです。

サン・セリフのボールド体 " SERVICE DES PRISONNIERS DE GUERRE "

俘虜郵便取扱規程ほとんどそのままの " Sce DES PRISONNIERS DE GUERRE "
筆記体で書かれたもの、
表示全体にアンダーラインが引かれたもの、
ドイツ語表記の " KRIEGSGEF. SENDUNG "

この5種類のうち下の3種類は俘虜製と見た方がよさそうです。

常にゴム製の挨拶文の印判と同色です(青色)。
しかも、事務所側で押捺した赤色のSDPDG印とダブってしまったエンタまであります。

何にでもアンダーラインを引きたがり「!」を付けたがるのはドイツ語表記の特徴です。
ドイツ語に疎い日本人にはない発想です。

他の収容所のアンダーライン付きSDPDGもかなり怪しいと考えていますが、これについては機会を改めてのこととします。



(※クリックで拡大します ―今回からこの方法にしました)





































リーフだけで勝負すべきで、弁解などはご法度の世界 ― 十分承知ながらリーフの書き漏らしがありました。


SDPDG印は最後は " I " までが欠落しています。



2リーフ目は地図ですが、元遊郭の12軒の店を収容所にした異色の収容所です。
路面電車の走る福岡の中心街を挟んで北側の7店・南側の5店が転用されています。

石堂川の対岸(=博多側)に九州帝大醫學部のキャンパスを拵えることとなって、勉学の励みになる遊郭を「新柳町」に強制移転させたそうです。

奇しくもそこは、那珂川を挟んで対岸に Irma Saldern さんの居宅があったところです。
福岡を紹介した地元の方のブログによれば、前知事の深野さんとおっしゃる方の妾宅であったそうな。

しかしすぐに、大正49月の収容換で「電車道」の南側は無くなってしまいます。
この変遷は、すべてアジ歴に図示されたものが残っていますので、リーフに落とし込んでみました。

併せて收容所事務所も移動しています。(柳町南→柳町北)
事務所などどうでもよいのでは -いえいえ、収容所長のデスクのあったのが収容事務所です。





































3リーフ目は、珍しいといわれている邦文の郵便俘虜印付き葉書です。






































このリーフは別の意味でもうひとつの珍しさが ―珍しいと書くと不謹慎です。
差出人の Franz Luszeck さんは故郷から遠く離れた日本で病没された方です。

しかも最後の収容換が終わって、名票だけは習志野に行き、体だけが福岡衞戌病院に残り看取る仲間は誰一人いない中での逝去でした。

これも地元の方のブログで墓碑が紹介されています。

4リーフ目と5リーフ目は差出許可印と言われるものです。
差出許可印であることは、これもアジ歴の史料から明白です。

何度もこのブログに登場していただいた植田少佐の記述や、この印を転写して使用した咎で重營倉をくらった兵隊さんの記事があります。

4リーフ目に発信制限状況の変遷を入れてみました。
5リーフ目は安岡という尉官の印が二つ押されている葉書です。

これも先ほどの考え方で、同時に2種類の印を押すわけがないとすると、それぞれの押捺の目的は自ずと限られてきます。














































































いくら私のような怠惰な性格でも、何枚も葉書を見せつけられると、何とかたどたどしくは筆記体を読めるようになってきます。

しかも、結構な悪筆です。
中学・高校で習った英語の筆記体の知識は全く役に立ちません。
(現在は筆記体そのものを教えていないそうです)

リーフに読み本を入れた部分です。





















発信者氏名の後の最後の二文字=H.?が判読できません。ご存知の方がおられたらご教示ください。

でも収穫もあります。妹さんの写真を撮ったのが213日、幾日か経ってそれを日本に送り Jung さんに届いたのが6月の上旬。

3箇月ほど経っています。
のリーフで説明しますが、アメリカ経由の船便です。


最後は、 TSURUGA の欧櫛が押された葉書です。








































リーフの記述は簡単すぎました。
スエーデンはこの大戦では不参戦国。

したがって、ドイツ→日本の郵便はスエーデンを介する必要があります。
俘虜宛の郵便物は膨大で、ソ連からの侵攻を恐れながらのスエーデンの郵便事務は大混乱。

このような事情に乗じて、アメリカが大正4年に早々に Malmö (最南端の大都市です)
に俘虜郵便専用の郵便支局を設置しています。

もちろん親切心からではなく、情報収集のためです。
しかも検閲するのはイギリス軍。

大人の世界は汚いですな。

福岡の特色ある俘虜郵便はこれで完結ではありません。話の流れでいえば、後期の
YOKOHAMA の欧櫛の入った葉書はどうしても欲しいのですが…。

【自己評価】
やはり収集の軸を決めると全体の流れも見通しやすくなります。
やる気も満々ですが、財布は寂しく秋時雨。