久留米の投稿で書きましたように、郵便史に徹した収集を進めることにしました。
したがって、未使用の俘虜製絵葉書は対象外になります。手持ちのものも売れるものは売ってしまいました。実逓便を入手するために ―。
福岡收容所は史料がまとまっておらず、アジ歴からあちこちのつぎはぎで何とか纏めることができました。
郵便史やマルコフィリーに徹するといっても、開設から閉鎖までの俘虜の出入りや各収容施設・収容事務所のロケーティングは基礎・基本ですのでスキップできません。
Meyer Waldeck總督が収容された特別の収容所です。その外にも、将校5人の集団脱走や全国を騒がせた「Saldern事件」(市内に居住していたSaldern大尉の若奥さん―実父はドイツの海軍大臣―が強盗に殺され、大尉も後追い自殺した事件)など話題には事欠きません。
そのあたりの話は、ネットでもよく見かけますのでここでは書きません。
1リーフ目は収容増減の年表ですが、「俘虜郵便」印と「SDPDG」印とを入れました。
邦字の俘虜郵便印が押印されるのはとても珍しいようです。
Rüfer-Rungas本でも「無いに等しい」との評価です。私も入手できたもの以外ではタカハシブログのカバーしか見たことがありません。
この二つの印は赤と紫とを見かけますが、常に丸二型の「福岡/俘虜收容所/檢閲濟」印と同色です。
一連の作業の中で同じスタンプ台を使って押捺されたワンセットの印判ということで、さらに検閲担当尉官の使用した四角の枠の仮名文字印(すゝき・ヤスヲカ・クリス・もりやま等)も同じ色です。
このゴム印用のインクの色での判別は、当然他の収容所についても有効そうです。
他日ご覧いただくつもりですが、松山収容所です。
SDPDG印の種類が多すぎるのです。
サン・セリフのボールド体 " SERVICE DES PRISONNIERS DE GUERRE "、
俘虜郵便取扱規程ほとんどそのままの " Sce DES PRISONNIERS DE GUERRE "、
筆記体で書かれたもの、
表示全体にアンダーラインが引かれたもの、
ドイツ語表記の " KRIEGSGEF. SENDUNG "
この5種類のうち下の3種類は俘虜製と見た方がよさそうです。
常にゴム製の挨拶文の印判と同色です(青色)。
しかも、事務所側で押捺した赤色のSDPDG印とダブってしまったエンタまであります。
何にでもアンダーラインを引きたがり「!」を付けたがるのはドイツ語表記の特徴です。
ドイツ語に疎い日本人にはない発想です。
他の収容所のアンダーライン付きSDPDGもかなり怪しいと考えていますが、これについては機会を改めてのこととします。
(※クリックで拡大します ―今回からこの方法にしました)
リーフだけで勝負すべきで、弁解などはご法度の世界 ― 十分承知ながらリーフの書き漏らしがありました。
SDPDG印は最後は " I " までが欠落しています。
2リーフ目は地図ですが、元遊郭の12軒の店を収容所にした異色の収容所です。
路面電車の走る福岡の中心街を挟んで北側の7店・南側の5店が転用されています。
石堂川の対岸(=博多側)に九州帝大醫學部のキャンパスを拵えることとなって、勉学の励みになる遊郭を「新柳町」に強制移転させたそうです。
奇しくもそこは、那珂川を挟んで対岸に Irma Saldern さんの居宅があったところです。
福岡を紹介した地元の方のブログによれば、前知事の深野さんとおっしゃる方の妾宅であったそうな。
しかしすぐに、大正4年9月の収容換で「電車道」の南側は無くなってしまいます。
この変遷は、すべてアジ歴に図示されたものが残っていますので、リーフに落とし込んでみました。
併せて收容所事務所も移動しています。(柳町南→柳町北)
事務所などどうでもよいのでは -いえいえ、収容所長のデスクのあったのが収容事務所です。
3リーフ目は、珍しいといわれている邦文の郵便俘虜印付き葉書です。
このリーフは別の意味でもうひとつの珍しさが ―珍しいと書くと不謹慎です。
差出人の Franz Luszeck さんは故郷から遠く離れた日本で病没された方です。
しかも最後の収容換が終わって、名票だけは習志野に行き、体だけが福岡衞戌病院に残り看取る仲間は誰一人いない中での逝去でした。
これも地元の方のブログで墓碑が紹介されています。
4リーフ目と5リーフ目は差出許可印と言われるものです。
差出許可印であることは、これもアジ歴の史料から明白です。
何度もこのブログに登場していただいた植田少佐の記述や、この印を転写して使用した咎で重營倉をくらった兵隊さんの記事があります。
4リーフ目に発信制限状況の変遷を入れてみました。
5リーフ目は安岡という尉官の印が二つ押されている葉書です。
これも先ほどの考え方で、同時に2種類の印を押すわけがないとすると、それぞれの押捺の目的は自ずと限られてきます。
いくら私のような怠惰な性格でも、何枚も葉書を見せつけられると、何とかたどたどしくは筆記体を読めるようになってきます。
しかも、結構な悪筆です。
中学・高校で習った英語の筆記体の知識は全く役に立ちません。
(現在は筆記体そのものを教えていないそうです)
リーフに読み本を入れた部分です。
発信者氏名の後の最後の二文字=H.?が判読できません。ご存知の方がおられたらご教示ください。
でも収穫もあります。妹さんの写真を撮ったのが2月13日、幾日か経ってそれを日本に送り Jung さんに届いたのが6月の上旬。
3箇月ほど経っています。
次のリーフで説明しますが、アメリカ経由の船便です。
最後は、 TSURUGA の欧櫛が押された葉書です。
リーフの記述は簡単すぎました。
スエーデンはこの大戦では不参戦国。
したがって、ドイツ→日本の郵便はスエーデンを介する必要があります。
俘虜宛の郵便物は膨大で、ソ連からの侵攻を恐れながらのスエーデンの郵便事務は大混乱。
このような事情に乗じて、アメリカが大正4年に早々に Malmö (最南端の大都市です)
に俘虜郵便専用の郵便支局を設置しています。
もちろん親切心からではなく、情報収集のためです。
しかも検閲するのはイギリス軍。
大人の世界は汚いですな。
福岡の特色ある俘虜郵便はこれで完結ではありません。話の流れでいえば、後期の
YOKOHAMA の欧櫛の入った葉書はどうしても欲しいのですが…。
【自己評価】
やはり収集の軸を決めると全体の流れも見通しやすくなります。
やる気も満々ですが、財布は寂しく秋時雨。
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