ですから気乗りせず、いやいや書いています。
沢山あった収容所は、最終的に6箇所に収斂します。
500人規模3箇所と1,000人規模3箇所です。
名古屋はそれらのうちの小規模収容所に属しますが、大規模収容所の大量生産風画一エンタでない手作りの面白さ=収集家しか喜ばないような小さなヴァリエーションがあります。
前回の福岡同様、俘虜郵便印/SDPDG印の変遷をテーマにリーフ展開したつもりだったのですが、全体を眺めてみると、その流れがさっぱりわからなくなってしまっています。
それぞれのリーフ自体はまずまずの出来と思っていたのですが…。
リーフづくりはできても、リーフ展開の技量は無かったということでしょう。
リーフにはもう一つテーマを放り込んでいます。
郵便史コレクションのマストアイテム=逓送ルートです。
大雑把に言うと、
① 1915(大正4)年末ころまで シベリア鉄道輸送がメイン
南太平洋・インド洋でドイツ軍が
通商破壊
その後、対英海上封鎖で海運停滞
② 1916(大正5)年初めころから ロシア政府の俘虜郵便検閲や
妨害回避のため、ドイツは海運を
選択
③ 1915(大正4)年10月ころから U-Boot が地中海で通商破壊活動
このためスエズ運河経由の海運が
激減
※ したがって日本からの東回り航路がメインになります。
しかしパナマ運河の崩落事故が続発、北米西岸⇒陸路⇒北米東岸⇒大西洋
という航路がメインの選択肢でした。
さらに軍需物資の輸送・各国軍による船舶徴傭で船腹不足が常態化し郵便逓送や民需
は打撃を受けます。
※ なお、1918(大正7)年3月から俘虜郵便以外の全郵便物もシベリヤ経由は廃止に
なります。
もとより開戦中のことですので、独⇔日の郵便物は全て中立国を経由するという迂回ルートまで強いられています。
(シベリア経由はスエーデン、大西洋経由はスイス)
これらのこと全てをリーフ展開の中で示すのは、マテリアルの良否もさることながら、全リーフにわたる統一表示が必要なのかと思います。
では、お目汚しの失敗作を。
クリックで拡大します。
収容所の俘虜の出入りと所在は基本中の基本ですので、表づくり・地図作りは、私自身が理解して納得するために続けてゆこうと思っています。
見物人との混乱回避のため、はるか南の熱田駅で降車させたようです。
さて、リーフに貼り付けた Firma Kunst&Albers 漢口支店の E. Hueschelrath さん宛のクリスマスカードには、第18号室に収容された11名の署名があります。
もちろん金品寄贈を期待しての挨拶カードと思いますが、署名の中ほど左側に
Fritz Krautwurst という署名があります。キャベツソーセージという姓は初めて見ました。
一等海兵さんです。
ようやく本題 ―まず、大谷派本願寺別院時代の3リーフです。
俘虜郵便印・檢閲濟印ともに枠付きと枠無しとがあります。理由は分かりません。
日露戦でもこの別院が使われましたが、その時の印顆とも異なります。
新発見を一つ。
R-R本では (u) とされた検閲印が郵便担当ではない方の先任中尉長長成さんの印と判明しました。
大正4年5月の「職員錄」に載っています。
続いて、バラック時代です。
ペトログラードで検閲していたようです。
検閲印無しの郵便も残っていますので、抽出検閲と思われます。
それでも順番が回ってくるまで一箇月以上待たされます。
失礼ながらそのおかげで、バラック初期便になりました。
さすがに収容期間が長くなると、このリーフのような恨み言も言いたくなります。
初期の「元気溌剌でここに到着」とエライ違いです。
最後は、解放の日の切手を貼った葉書です。
リーフ下部に小さい神戸市内の地図を入れましたが、「KOBE」局と「KOBE2」局とが併存したかどうかは不明です。
欧文印ですので引受時刻は不明ですが、必ずしも俘虜引渡し後に差し出されたとは考えていません。
朝の6時に三宮に着いてお昼まで随分時間があります。まだ俘虜身分のままだからと郵便局に掛け合うこともなかったでしょう。
気前よく4銭切手を貼ったことと思います。
【自己評】
反省点は本文のとおりですが、諸事象の変化や流れを明示するためには、1リーフに葉書2枚を貼り付けるような方法も検討してみます。
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