2018年7月20日金曜日

東京の丸二印 ― 本池宿題への答案

前置き無しでまずリーフをご覧いただきます。



全部で13リーフです。ゴチャゴチャした書き込みがありますので、いつもより大きめのスキャンです。



















































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































言わんとするところを御理解いただけましたでしょうか

以下、長文ですが解説です。



まず、本池悟さんの「詳説 丸二型日付印」1996年鳴美刊)で東京各局の時刻表示について「未解決」とされた課題を中心に論点整理してみます。

i ) 東京各局の時刻表示は、各局で差し立てる伝送便の発出時刻である。
  (ただし、10分単位で切上げ)

ii ) 「しかしながら、規程をすべて無視するわけにもいかない…」
  ―明治33年公達第768號の規定との違いについて言及しておられます。
    公達768號:時分ハ配達時刻毎ニ之ヲ改植
    本池説   :伝送便の発出時刻

iii) 引受印と到着印の時刻を比較して時刻表示体系の違いを見つけだすこ
  とはできないが、自局引受=配達の場合は可能。

iv ) 東京局の着印は、363月ごろまでは消印の時刻表示とほぼ同じだが、
  それ以降には違いがある。

v ) しかし、 i ) に反する時刻表示がある。伝送便末端に近い青山局などは
  表示時刻との関係に不整合が多い。

vi ) 3等局・受取所引受の書留便に押された2等局の消印時刻には、当該局
  の時刻表示体系に対して例外的なものが多い。

ほぼ以上のとおりであると理解しています。
さて、これの解明ですが国会図書館のデジタル史料から次のものを準備しました。

〇 明治33年公達第432號「郵便取扱規程」
〇 明治37年公達第612號「郵便集配規程」
〇 明治42年三省堂「通信要錄」

次に上掲の郵便取扱規程に従って、予め逓信業務用語の整理をしておきます。

( 1 ) 通常郵便:小包郵便の対概念。普通郵便・書留郵便・別配達郵便・約
        束郵便等

( 2 ) 小包郵便:通常郵便の概念通常郵便と同様に普通郵便・別配達郵
        便等がある。
      ※ 郵便取扱規程の部立ては、 第2編引受第2章 通常郵便
                     2引受3章 小包郵便 
        となっています。3遞送、第4編配達でも同様
        
( 3 ) 交換便:始点局が逓送人を差し立て交換局で各局差立の便と交換、持
       ち戻る便。取扱規程§97
       東京の場合各支局が始点局、東京郵便電信局が交換局。

( 4 ) 持戻便:始点局が逓送人を差し立て極端局まで往復とも逓送する便。
       A局 ⇔ B局間の相互逓送便です。取扱規程§98


( 5 ) 片便:始点局が逓送人を差し立て極端局に逓送する便。
       A局 ⇒ B局の片道逓送便です。取扱規程§99


( 6 ) 受渡便:受渡局 ⇔ 受渡所間の相互逓送便です。取扱規程§100
       東京郵便電信局 ⇔ 新橋駅間の鉄道逓送便の受渡等です。

       ちなみに、明治354月現在の東海道線下り神戸行きは
       新橋 6:20  ⇒ 神戸 22:47(急行)
       新橋  12:20  ⇒ 神戸  7:50
       新橋  18:05  ⇒ 神戸 11:19(急行)
       新橋  22:00  ⇒ 神戸 18:36
       4便で、鉄郵印もこの時期は「下リ四便」までです。
       この神戸行き列車は横濱に寄り道せず、神奈川=平沼直行
       ルートです。
       新橋=横濱間は別途計30本/日の列車が運行していました。

       東京局は市内局との交換便以外に、こういう逓送便の発着も

       あることを念頭に置いておきます


次に先ほどの「郵便集配規程」です。
明治37年の施行ながら、別段新しいことを定めたものとは思えません。

むしろ、
既に実施されていることを事細かに改めて確認し、
以前に個別に指示していたことを改めて集成した
― というほどのものであると考えています。


その第2条です。
「郵便物ノ取集ハ遞送ノ差立便若ハ配達便ニ結束セシメ」
「配達ハ遞送便ノ到著若ハ取集便ヲ結束スヘシ



つまり、
局の都合だけで取集・配達の時刻を決めるな。局間のネットワーク(=遞送ノ差立便・遞送便ノ到著)の時刻に従え。
ということです。



続いて「其時刻ハ左記各號ニ依ル」として2号並べています。
(1) 取集人出發時刻ハ其結束セシムヘキ主タル遞送便ノ差立時刻又ハ配達
  時刻ヨリ第三條ノ取扱時間ヲ控除シタル時刻迄ニ歸局シ得ヘキ時刻
(2) 配達人出發時刻ハ其結束スヘキ主タル遞送便ノ到著時刻又ハ取集人
  著時刻ニ第三條ノ取扱時間ヲ加ヘタル時刻

この各号列記に出てくる第三條ノ取扱時間」は、
(1) 取集郵便物ヲ遞送便若ハ取集便ニ結束セシムル取扱時間
                         通常1時間以内
                         小包130分間以内
(2) 到著郵便物ヲ配達便ニ結束セシムル取扱時間   通常1時間以内
                         小包130分間以内
(3) 集配人郵便物區分時間             通常
                         小包 共30分間以内

通常郵便で例示すると、
取集出発時刻(12:00)=逓送便差立時刻(15:00取集時間(2時間)
                       -1時間※
         ※「1時間」は、消印押印と宛先別区分の時間(§3(1)                             

配達出発時刻12:00)=逓送便到着時刻(10:30)+1時間※a30分※b
         ※a1時間」は、着印押印と宛先別区分の時間§3(2)
         b30分」は、配達順に郵便物を揃える時間§3(3)

という趣旨の規定です。

この第2条と第3条とは、局内の二つの作業の流れについて規定しています。

一つ目は、郵便物の取集⇒消印押印⇒宛先別の区分け⇒逓送
二つ目は、逓送郵便物の受取⇒着印押印⇒宛先地域別(配人別)の区分け
     ⇒配達


当然至極の話ではありますが、その所要時間までを規定しているのがミソです。

また、この規程の第5条では
「市内地郵便物ノ取集ト配達トハ各別ニ之ヲ執行シ市外地ハ併行トス但結束上支障ナキモノハ市内地ト雖モ併行スヘシ
と定め、多量の郵便物を扱う場合は先の二つの流れは別々に行うよう指示しています。



局内の作業時間については、明治33年の「郵便取扱規程」にも規定があります。
「第3遞送の第1章通則第9節締切時刻に建てられている第117118条です。

107條 締切時刻ハ差立時刻前左ノ標準ニ依リ之ヲ定ムヘシ
 通常郵便物    30分以内
 小包郵便物    130分以内

108條 締切時刻前ニ引受又ハ到著シタル郵便物ハ必ス其ノ便ヲ以テ差立
 ツヘシ


これで役者が揃いました。
取扱規程は、行嚢締切りの30分前までは
引き受けた郵便物に消印を押す作業を続けなければならない ― という規定です。

そのあとは消印の押印作業はありません。宛先別の区分け作業です。

先ほどの集配規程での例示と合わせると、
取集出発時刻(12:00)=逓送便差立時刻(15:00)-取集時間(2時間)
           -1時間※
         ※「1時間」は、消印押印と宛先別区分の時間(§3(1)

この「1時間」の内訳は、
1時間=消印押印30分+宛先別区分け30
となります。

これらの具体的な時間までをも含めた諸規定は無責任な架空の設定とは思えません。
基準となったのは東京局の局内作業でしょう。

明治31年度の統計では、
全国の通常郵便引受数は605,347,000通 (遞信省年報第13囘)
うち、東京郵便電信局の取集数(支局を除く)は52,998,000通です。
                  (東京郵便電信局統計年報

昔も今も東京はほとんどの統計数値で全国の1割を担っています。
したがって、東京局を基準にしておけば「~時間以下」という規定が問題なく出来上がる次第です。

東京郵便電信局の通常郵便に関する局内作業については「~時間以下」の「以下」を除いてやれば、実際のダイヤグラムが作れそうです。

〇 取集から引き続く作業は、
取集⇒消印押印⇒宛先別の区分け⇒行嚢づくり⇒逓送 で終わります。
したがって、1サイクルは
取集⇒消印押印(30分)⇒宛先別の区分け30分)⇒行嚢づくり⇒逓送
と想定できます。

また、逓送は本池さんの緻密な考察によって12回/日であることが分かっています。
(ただし、支局間の逓送のみ。市外便の逓送は多分同時に行われたとみるのがシンプルで良いと思います。新橋駅への受渡便は別にしてです。)

全12便の逓送差立て時刻=消印の時刻ですので、逓送時刻から逆算すると取集便の帰局時刻が設定できます。

〇 行嚢到着から引き続く作業は、
行嚢到着⇒着印押印30分)⇒宛先別の区分け30分)
⇒配達員の順立て作業30分)⇒配達
となるはずです。

本池本に掲載された第V期の伝送表を見ると、飯田町局=東京局間は30分(実際は29分ですが日付印の表示は30分差になります。)ですので、12便の逓送便の到着時刻は
「飯田町局の表示時刻+30分」
となり、ここから全ての配達出発の時刻を想定することができます。

最初の論点整理で示しましたように
iv ) 東京局の着印は、363月ごろまでは消印の時刻表示とほぼ同じだが、
  それ以降には違いがある。
という考察がありますので、ここでご覧いただくのはこの変化の生じる時期までです。







































最初にご覧いただいた1リーフ目の下段の表はこうしてできあがりました。


一目でお分かりいただけると思いますが、最初の「論点整理」
i ) 東京各局の時刻表示は、各局で差し立てる伝送便の発出時刻である。
  (ただし、10分単位で切上げ)

ii ) 「しかしながら、規程をすべて無視するわけにもいかない…」
  ―明治33年公達第768號の規定との違いについての言及です。
    公達768號:時分ハ配達時刻毎ニ之ヲ改植
    本池説   :伝送便の発出時刻

このような結束を維持する限りにおいては、公達の「配達時刻」と本池さんの分析による「逓送差立時刻」とは、全く等価であるということです。


ただし、先に書きましたように市内局相互間の通常郵便に限定した単純化された結束モデルと思っています。


2リーフ目と3リーフ目は応用問題です。

論点整理の
iv ) 東京局の着印は、363月ごろまでは消印の時刻表示とほぼ同じだが、
  それ以降には違いがある。
についてです。

肝心の「第II364月以降」というアイテムが入手できていないままで、忸怩たるものがありますが、恥よりもせっかくの発見を喋りまくりたいとの趣旨でアップしました。



本池さんが本の中で示しておられる「ずれ」の生じた例は以下のとおりです。
36-6-18/前10.10
36-7-284


上掲の結束モデルを拵えていて気が付いたのですが、配達結束で配達前の順立て作業が消えています。



全体から見ればシンプルな仕上がりできれいな図なのですが、通信官署官制施行に際して誰かがどこかで何か言ったのでしょうか。


着印時刻を順立て作業後に修正してやれば、3号交換便由来の配達便は「前9.40」から「前10.10」に変わります。
同様に、7号交換便由来の配達便は「后3.30」から「4」に変わります。


そしていつの間にか、この理屈っぽい話は消えたのでしょうか。
V期の例では、元の鞘に収まったと考えたくなるエンタを入手しています。

次に、局間の結束です。
幸いにも飯田町局配達のV期エンタを1ダースほど入手できました。

ヤフオクの「切手」ではなく「絵葉書」を執拗に追い求めていた賜物です。

これらのアイテムを基に今まで述べてきました要領で結束モデルを作ってみました。

4リーフ目が結束モデルの全体図です。

東京局より規模が小さい分、各作業モジュールが10分短くなり、20分になっていることが見て取れます。


ところが、配達結束にだけ不自然な空白ができます。
配達員の休憩時間とかいろいろ考えたのですが、しっくりきません。



以前にも紹介しました「通信要錄」の抜粋です。
















































小包便が介在していると考えるのが最も自然であると思います。
リーフでは断定した格好にしています。

最後のリーフは今までの努力をあざ笑うかのような実例です。
配達結束の時刻表示で消印されています。

「間違い」以外の説明を考えました。
一般に消印の前に宛先区分けが行われることはあり得ないとしたならば、唯一の定形たる葉書だけを作業効率化のため予め取り分けたと考えれば辻褄が合わないこともありません。

取り分けたときにたまたま自局配達があったのでそのまま配達結束に廻した
― これなら判らんでもないです。

なお、論点整理の「v ) vi)」は全く解明できていません。

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いずれにしても、入手はとても困難なものばかりが相手です。
多少の推測なしにはとても分析できるような代物ではありません。

結果として、残存するアイテムが無矛盾に説明できれば「正しい」とせざるを得ないと考えています。

東京市内局の着印のあるエンタはほとんどが災害・戦災で灰燼に帰しています。

残っているのは、コルヴィザールカバーのような海外逃避組やら大繩嬢あて絵葉書みたいな青春の思い出帰郷組くらいと思います。

小包送票はもっと少なく、手紙葉書はそのまま箪笥の抽斗に収まっても小包の包み紙など残すのは、我々蒐集家のような変人ばかりです。


 ※ 飯田町局配達の絵葉書の受取人「大繩久子」さんとおっしゃる方は、
   お行儀悪いながら文面を拝見すると、八戸出身の令嬢でお茶の水の
   女高師通学のため麴町に下宿しておられたようです。
   当時、女学生の間でも絵葉書集めが流行し、熱中しておられた方と
   お見受けします。
   奈良にも同郷のお友達がいらっしゃたようで、こちらの方は絵葉書
   で「きのう第1子を出産しました」みたいな文面まであります。
   (学業をどうされたかまではわかりません。)
   最後のリーフは、大繩八重子さんあてですが、妹さんの様です。



【自己評価】
よくがんばりました。
丸二時刻表示の一般解を見つけたみたいな気分になっています。
この結束は、分かったようでわからない分野でした。
色々と考えあぐねて、仕舞には何が分からないのかもわからなくなっていました。

世間では、全日展が開催されようとしています。
ブログの自己紹介欄に書きましたが、アワードにつながるようなコレクションは望めない身です。ひとり全日展のひとりワンフレーム展と思召して、御笑覧いただければ光栄です。


2017年10月15日日曜日

靑島俘虜郵便(番外)‐ディーデリッヒ碑文

アジ歴に保存されている文書を毎日眺めていますが、結構退屈で鬱陶しい作業です。

ということで、息抜きリーフです。

絵葉書のディーデリッヒ碑文(Diederichsstein/迪特里希碑)は、清潔で美しい街並みを西側に見下ろす「信號山」(山頂の無線基地に因む名前)の中腹に据えられていました。

この碑文はいつまで存在していたか ―というのが謎のままのようです。

近年、中国の地元史家たちによって破壊後の碑文の文字の痕跡がいくつか現地で発見されています。

ドイツ語版のWikipediaでは、1922(大正1112月に破壊されて東京に持ち帰られた ―とありますが、根拠は不明確です。

探検家菅野力夫は1924(大正13)年3月後半に靑島を訪れ、碑文の前で記念写真を撮っています。

小川一眞写真館製の絵葉書まで残っています。
























また、「青島満帆」という旧靑島在留邦人の方々のブログにも、以下のような記事があります。
※ 以下ブログの引用
 ------------------------------------
   青島中学第4回生(大正13年、1924年卒業)斉藤昌司氏は、
   「通学生は市街地から時計台の下の左手の崖に
   ドイツ人の作った双頭の鷲の壁面彫刻を見ながら
   先生の宿舎を左に見て魚山路のアカシアの疎林、
   そして山道をたどって旭練兵場、
   それを横切って校舎背面のだらだら坂にと、相当きつい距離だった。」
   (青島日本中学校校史)
   と書いています。

   つまり、ディーデリッヒ記念碑は1924年までは確かに存在していましたが、
   それ以後の記録はばったり途絶えてしまいました。
------------------------------------

1922(大正11年に「山東懸案解決ニ關スル條約」が締結され、靑島が中国に返還されることになり、守備軍司令部は廃止され、軍事郵便も取扱が停止されました。

これに合わせて總領事館の開設やら靑島居留民團の設立やら、そこそこの権益を留保しながら形式上「返還」されています。
       ※ この4行、簡単に書いてしまいましたが、実際は複雑怪奇な国際情勢
        が背後にあります。

1922年説はこの条約に基づく推測と思われますが、上記の二つの事実から、碑文の破壊は1924(大正13)年度ころと考えるのが順当なようです。

軍部が東京に持ち去ったのなら残骸は遊就館にあるのでは ―との疑念をお持ちの方も上掲の中国地元史家においでのようですが、遊就館は否定しています。

まさかとは思いますが、惇明府 ―いや、全く根拠のない憶測です。こんなことを書くと、どなたにどんな迷惑をお掛けするやら分かりませんので読み流し願います。

リーフの絵葉書は靑島ではなく大連消しなので迫力がイマイチですが、写真の彩色がきれいなのと平和4銭が貼ってあるのとで入手しました。

ただ、実際にこんな色であったかと言えば疑問です。Der Reichsadler=帝国の鷲も、残っている写真を見ると金色ではなく、むしろ黒色ではと思えます。

標準的な小ライヒスアドラーです。





















現在のドイツ国章と同じく背景の方が金/黄色です。

日本軍によって加刻された「大正三年十一月七日」も、生前の墓碑みたいに朱が入れられていたのか今となっては判りません。

葉書の表書きにはもっと泣かされました。差出人のお名前が判読できません。しかも名字だけ。
「大分紡績」でググると、幸いにも川野彌五郎という方の名前が一緒にでてきました。

リーフには出していませんが、絵葉書の下二分の一には「病を得たので医師の勧めで航海に出て洋上療養している」みたいなことが書かれています。

こんな贅沢ができるのはこの人に違いない ―で断定しました。

漢字の偏と旁をひっくり返したり、上下に変えてしまうのは古代文書以来よく見られる書き方ですので、こんな画像まで作って書き込みのセンテンスの中に貼り付けました。







いろいろと楽しめたエンタです。









































































【自己評】
手に入れたときは「ヒカリモノ」として見とれていましたが、背後にあった戦争やら占領やら諸帝国の思惑渦巻く「和睦」 ―考えてしまうと、やっぱり鬱陶しいですな。
 それでも、かつて存在した事実は受け止めて郵趣という道楽のネタに…。

【追記】(2017.10.17
目ざとく「郵便ハガキ」はおかしいじゃないか ―と見つけられた方、
慧眼に感服します。

確かに、昭和8年の点付き楠公までは、官製はがきは「郵便はかき」ですし私製葉書もこれに倣って(郵便規則を遵守して)「はかき」としています。

しかし、横濱伊勢崎町にあったトンボ屋という絵葉書屋さんだけはロゴマーク的にリーフに貼りつけた画像のような「郵便ハガキ」という文字を使い続けていました。
しかも明治末から。(つまり13線時代から)

したがって、このロゴを見かけたらトンボ屋製とお考え下さい。



2017年10月13日金曜日

縦書為替印‐京都五條支局

久しぶりに縦書の面白いものが二つ手に入りました。
京都郵便電信局の五條支局です。

一つは、月型の後に年型が再登場。しかも、使い古しの印顆の再使用ではなく新調です。
もう一つは、支局名の表示が俗字体「条」となったもの。

1リーフに落とし込んでみました。






































































もう一つ気になることがありました。
毎日お世話になっている成田さんの「明治の全郵便局所沿革」の抜粋です。








「移轉?」と書かれています。
地図を漁ってみましたが動いていません。


(明治26西京區組明細圖)




























(明治28京都市圖




























(明治33京都新圖)




























※ 上図3枚は日文研地図データベースさんから。
今昔マップ上の地理院所蔵データ(明治43)も下図のとおりです。





























次に原文のコピーです。
(明治35郵便区画市町村一覧)





















(明治42通信区画便覧)




























明治34年の「市勢一斑」(京都市役所刊)には正しい町名が掲載されています。





































結局明治35年の市町村一覧の誤記(×上ル⇒○下ル)でした。

【自己評】
案外、「五條橋」表記の丸一が難関かも…。
リーフのレイアウトは、できる限りあっさりと ―と思いながらですがつらつら眺めてみると、まだゴテゴテ感があります。






2017年9月2日土曜日

靑島俘虜郵便‐久留米收容所

調べるのに随分時間が要りました。

靑島俘虜收容所の中では最大規模ですから、全貌の確認に時間がかかるのは致し方ないにしても最後まで判らず仕舞というのは残念です。


〇 俘虜の異動経過

収容俘虜の異動です。途中まではほぼ精確であろう収容人数を追跡できましたが、大正8年の末 ―喜福丸・ヒマラヤ丸の神戸港解纜直前― になって30人ほどの余剰が出てしまいました。

大正89月末現在で俘虜情報局が作成した統計では、久留米收容所には32人のシレジア出身者がいたようですが、喜福丸出帆前に宣誓解放の手続きは終わらなかったようです。

シュレスヴィッヒ・アルザス=ロレーヌ・ポーランド出身者はそれぞれ当該利益代表官に引き渡されて解決していますので、全くの行方不明です。

面倒なので、収容所閉鎖の時の解放人数に丸め込んでしまいました。リーフの異動一覧の表末「△119人」と書いたのがそれです。

ですから、その部分は信用なさらないようにお願いします。

もっとも、「内地契約成立者」と言われている俘虜の中にも雇用契約成立にも関わらず、本国に帰国した者もいます。

したがって、大正8年度下半期は、1,082名を固有名詞で追跡する以外に正確を期すことはできません。

幸いにもそれがコレクションの最終目的ではないので、よい加減なところで打ち切ることにしました。

〇 各宿舎等のロケーティング

設置された順に判明したことを書いておきます。
▼ 梅林寺将校宿舎
  リーフに大庫裏の絵葉書を貼っています。
  この絵葉書の販売は地元業者ですが、製作は東京の銀花堂。
  寺を代表する風景なら他に沢山ありますので、この庫裏が将校宿舎と見て間違いな
  いでしょう。
  多分将校2名に各1室、従卒に1室。計3室を充てたと思われます。
  Wikipediaにはこの大庫裏の画像が2枚も掲載されていて、一枚は絵葉書と同構図。
  もう一枚は扁額「春糟界」です。風情があってヨイです。
























▼ 香霞園将校宿舎
  タカハシブログに、この料亭跡の絵葉書が掲載されています。
  大3.9.28刊「九州電話實業案内」に「香霞園 鈴木榮 篠山神社境内」とあります
  が久留米城の二の丸敷地内だそうですので、多分ここだと思います。




































タカハシスタンプのブログから無断拝借ですが、絵葉書はこんな風景です。


















   通りから奥まったところにあるのは上掲の建物だけです。
   ちなみに、通りのお向かいさんは紡績工場。現在はブリジストンの工場です。

 ▼ 眞宗大谷派教務所と収容所事務所とは以前に書きましたので省略します。

 ▼ 高良臺宿舍  
   さすが軍都米府です。きちんと石碑を立ててくれています。
   グーグル地図で判明しました。




























   実際に二つ建っているかどうかまでは知りません。ストリートビューでは草叢だ
   けが見えていますので…。

▼ 他に、将校の妻たちの住んだ場所も判明しました。
「森新別荘」という記述は散見しますが、その説明は見たことがありません。

  森新というのは久留米の豪商が営んでいた三本松町の呉服屋さん、その当主高崎さ
  んが持っていた別荘と判りました。




















  
















   東北側を流れる高良川は別荘の庭に水を引くのに適していたため、多くの別荘が
   並んでいたそうです。

   別荘の北側に架かる「高崎橋」もこの御当主さんの寄進とのことです。
   ストリートビューで見ることができます。

































   ちょうど画像右側の青い屋根のあたりが別荘の位置に当たります。
   大きな画像ですが、親柱に取り付けられた銘板に高崎橋の文字が見えます。

   リーフに示した6人以外にも、どなたかの妹さんやらメイドさんもお住いの大所帯
   でした。

   福岡收容所での脱走事件に絡んで家宅捜索もあったとか。
   周囲の目も、猜疑心やら敵対心など住みよい状況ではなかった中で貸してくれた
   別荘です。

さて、1枚目のリーフです。
収容人員の異動表だけで埋まってしまいます。


山本茂中尉はドイツ留学も経験し、俘虜たちのよき理解者であったそうです。
次は地図ですが、これも1リーフ全部使い切ります。

高良臺宿舍と事務所との距離感を出すために、1枚の地図に埋め込みました。






































































いよいよエンタのリーフですが、大掛かりな舞台装置の割には大した役者はいません。
教務所宿舍収容と思しき伍長さんです。







































































実はこの葉書、ジャパンさんの落札品なのですが鯛さん、どうしたことか「出品者が高良台というてはります」だけで法外な(ごめんなさい)最低値でした。

高良臺ではないことは最初から判っていましたが、梅林寺の写真が欲しかったので相場の倍以上払って頑張りました。

次は、何ということのないバラック收容所の平凡品です。
ただ、発信が久留米收容所。着信も久留米。







































































ジャパンさんの店頭での下見で、「ゆっくり謎解きをしてやろう」と思いながらの入手でしたがこれも判らず仕舞いでした。

ただ、受信者はドイツ帝国宰相の甥っ子さん。収容所内では結構な問題児だったようで、記録を読むと、いわゆる「気位の高い我儘な坊ちゃん」みたいな感じです。

多分、連隊へのいやがらせみたいな積りでやらかしたんでしょうが収容所は大人の対応。知らん顔で事務的に事を治めています。
郵便局は良い迷惑です。

最後に、これもデータだけのリーフですが、こんなものを拵えてみました。








































































前回も「悩んでます」と書きましたが、まっとうな郵便史のコレクションにするため消印とともに「俘虜郵便/SDPDG」印に着目することにしました。

俘虜郵便は検閲印が大きく派手なのでそちらの方に目が行ってしまいますが、切手に代わる役割を果たしているのは「俘虜郵便/SDPDG」印です。

画像は実際のリーフサイズより大きくしていますので、実寸に戻してご覧ください。
久留米や松山で使われたSDPDG印は実寸が80mm、縦書の俘虜郵便印が実寸で40mmです。

赤色の柘植/ゴム印は、朱肉を使用したものとスタンプ台を使用したものとがあります。
ゴム印は朱肉を使うと、その脂分で早く傷むため通常はスタンプ台を使います。

採用間もないころに、先輩の女性職員から教わった知識です。

シャチハタさんのサイトによると、このころはスタンプ台のインクは使用の都度補充しなければならなかったようで、現在のようなものは昭和の初めごろの発明だそうです。

実は、郵便史コレクションのためには、さらに逓送ルートの問題も無視できません。
入手できたものは、ほとんどが敦賀経由のシベリア鉄道便です。

しかし、大正4年度の終盤から大正5年度の初めころにかけてシベリア鉄道便が途絶したとの記録があります。
このため西回りの船便で運ばれたらしいのですが、詳細不明です。

外にも、経由地のスエーデンが専用の交換局を設置したとか、いろいろと調べるべきことがありそうです。


【自己評】
俘虜郵便印一覧を拵えたばっかりに、コレクションの筋の悪さが露見してしまっています。

SDPDG印では、「Sce」の上付き・下付き、そしてバラック使用の「!」印が少なそうです。
ありふれた青色の「俘虜郵便/檢閲濟」印も使用開始月のエンタが無いと面白くありません。
ついでにAGの初出データも ― と思いは広がりますが難しいものです。



2017年7月5日水曜日

青島俘虜郵便‐丸龜收容所

今日は丸龜を頑張ってみました。

結構良いペースで進んでいるので「いっぺん切手展に出してみたろか」とも思ったのですが、JAPEXの要項を見て「やっぱりあかんかな…」。

郵便史のカテゴリーではありますが、それ以外のこと=俘虜の日々の生活やら收容所長、俘虜情報局の思惑、日独の絵葉書に垣間見える風俗やら戦争観やら ― 興味の大半が郵便史以外のことに向いてしまっていて、何を言いたいコレクションなのかコンセプトを失っています。

もう少しいろいろな絵葉書に当たってみて、最短でも来年の全日展 ― コレクションの方向が見えてこなければ永遠にダメ…

今よりもっと理屈っぽくネチっこくリーフづくりをしてみないと五里霧中から抜け出せません。

それはさて措き、丸龜は髙橋輝和先生の一般向けの本があって大変便利です。また記録もほとんどすべてアジ歴で見ることができて「楽勝やろな」 ― しかし無いものは無いというのが世の常。

收容所事務所の位置探しは苦労しました。でも見つけました。
事務所の位置が分かったところで歴史解釈に影響を与えるわけではありませんが、他の収容所でも頑張って見つけ出しているので意地だけです。

丸龜は、検閲印でいえば4種類。
初期の枠有り縦書の「檢閲濟」、三角の「俘虜收容所」、三角の市川中尉ひらがな印、そして「滿るかめ」丸印です。

うち2種が集まりました。
「いちかわ」三角印はご本人が大正410月から1年ほどしか在籍しておられませんので難しそうです。
初期の「檢閲濟」も然り。集まり方は正直なものです。

まずは、恒例の地図と出入り表です。
出入り表はドイツのサイトにもありますが一部は記録と合致しません。そこは日本語が読める強み    ―。 一致させました。

ついでながら、前回の靜岡も1人勘定が合わない原因も見つけました。上部アルザス籍の兵隊さんが宣誓解放を受けていました。
こういうことは記録に残したくなかったのでしょうか。
まあ、公表すれば我も我もと …。大変ですわな。







































































地図に「多度津道」というのを入れたのがミソです。丸龜驛ではなくお隣の多度津町から船で出入りしたようです。港からは徒歩。兵隊さんですから大丈夫です。
泰面鉄道建設の時みたいな行軍ではありません。

2リーフ目は「門前運動」の行進風景。
版権を有すべき初版ではありません。紙も大戦の資源欠乏の影響で粗悪です。複製した原版にも小さい埃のようなものが散らばって、ルーペで見るとバッチイです。

無いよりましかと思いながら貼りました。



名宛人の名前には閉口しました。
調べてもこのような苗字は見当たりません。ほかに読みようがあるのでしょうか。
どなたかお教えいただければ幸いです。

この「收容所記録」の「衞兵配置圖」に事務所の位置が明示されていました。唯一の資料です。
毎日の行進は衆目に晒す拷問のようなものではなく、むしろドイツ軍の誇りを誇示できる機会だったようです。

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【追記】

投稿後も名宛人の名前が気になっていろいろと調べているうちに、ふと気が付いてSchmidt名簿を繰ってみました.

当たりました。












私の語学力を超える解説をしてくれていますが、消防団で指揮を執っていた ― でよいのでしょうか。
早い話が民間人扱いで俘虜にはならなかった方です。

しかしずいぶんたくさん引っ越しをしてどっさり転職して子供さんもたくさん設けて、いらちなんですかな。
葉書の差出人Pflugerさんも文面や字体を見る限り多少横着な感じです。

靑島ではどんなご関係だったか知りませんがウマの合うた方々とお見受けします。

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3リーフ目は到着便。
クリスマスのフラワーオーナメントですが2月の着印。
他の例も調べましたがこれくらいの延着ならまだかわいい方でした。ロシア革命前夜のこととてシベリア鉄道も大変だったのでしょう。






































































ただ、差出人が" Lili Weiß " 全く無い名前ではないのですが出来過ぎ。あっさりした通信文ながらツボは押さえてあります。
多分お母さん ― "Lili Violet"を嫌ってしょっちゅうこう書いてはったんちゃうかいなと思うと…。

住所はグーグルで一発ヒット。ベルリンのど真ん中です。
今年のジャパンさんの戦利品ですが、下見で迷いました。切手をはがした跡が。

でも、剥がした上からGeprüft印があるからドイツ官憲によるものというのが明白、まるかめ印が鮮明やしまあええか ―で買いました。

リーフにも堂々と剥離跡を示すと、何となく立派に見えるから不思議です。

【自己評】
冒頭に書いた件、どうしようか真剣に悩んでします。
下手をすると(一般の方から見て)珍しいものを並べて喜んでいるだけのアホらしいコレクションになってしまいます。
難しいです。