2017年9月2日土曜日

靑島俘虜郵便‐久留米收容所

調べるのに随分時間が要りました。

靑島俘虜收容所の中では最大規模ですから、全貌の確認に時間がかかるのは致し方ないにしても最後まで判らず仕舞というのは残念です。


〇 俘虜の異動経過

収容俘虜の異動です。途中まではほぼ精確であろう収容人数を追跡できましたが、大正8年の末 ―喜福丸・ヒマラヤ丸の神戸港解纜直前― になって30人ほどの余剰が出てしまいました。

大正89月末現在で俘虜情報局が作成した統計では、久留米收容所には32人のシレジア出身者がいたようですが、喜福丸出帆前に宣誓解放の手続きは終わらなかったようです。

シュレスヴィッヒ・アルザス=ロレーヌ・ポーランド出身者はそれぞれ当該利益代表官に引き渡されて解決していますので、全くの行方不明です。

面倒なので、収容所閉鎖の時の解放人数に丸め込んでしまいました。リーフの異動一覧の表末「△119人」と書いたのがそれです。

ですから、その部分は信用なさらないようにお願いします。

もっとも、「内地契約成立者」と言われている俘虜の中にも雇用契約成立にも関わらず、本国に帰国した者もいます。

したがって、大正8年度下半期は、1,082名を固有名詞で追跡する以外に正確を期すことはできません。

幸いにもそれがコレクションの最終目的ではないので、よい加減なところで打ち切ることにしました。

〇 各宿舎等のロケーティング

設置された順に判明したことを書いておきます。
▼ 梅林寺将校宿舎
  リーフに大庫裏の絵葉書を貼っています。
  この絵葉書の販売は地元業者ですが、製作は東京の銀花堂。
  寺を代表する風景なら他に沢山ありますので、この庫裏が将校宿舎と見て間違いな
  いでしょう。
  多分将校2名に各1室、従卒に1室。計3室を充てたと思われます。
  Wikipediaにはこの大庫裏の画像が2枚も掲載されていて、一枚は絵葉書と同構図。
  もう一枚は扁額「春糟界」です。風情があってヨイです。
























▼ 香霞園将校宿舎
  タカハシブログに、この料亭跡の絵葉書が掲載されています。
  大3.9.28刊「九州電話實業案内」に「香霞園 鈴木榮 篠山神社境内」とあります
  が久留米城の二の丸敷地内だそうですので、多分ここだと思います。




































タカハシスタンプのブログから無断拝借ですが、絵葉書はこんな風景です。


















   通りから奥まったところにあるのは上掲の建物だけです。
   ちなみに、通りのお向かいさんは紡績工場。現在はブリジストンの工場です。

 ▼ 眞宗大谷派教務所と収容所事務所とは以前に書きましたので省略します。

 ▼ 高良臺宿舍  
   さすが軍都米府です。きちんと石碑を立ててくれています。
   グーグル地図で判明しました。




























   実際に二つ建っているかどうかまでは知りません。ストリートビューでは草叢だ
   けが見えていますので…。

▼ 他に、将校の妻たちの住んだ場所も判明しました。
「森新別荘」という記述は散見しますが、その説明は見たことがありません。

  森新というのは久留米の豪商が営んでいた三本松町の呉服屋さん、その当主高崎さ
  んが持っていた別荘と判りました。




















  
















   東北側を流れる高良川は別荘の庭に水を引くのに適していたため、多くの別荘が
   並んでいたそうです。

   別荘の北側に架かる「高崎橋」もこの御当主さんの寄進とのことです。
   ストリートビューで見ることができます。

































   ちょうど画像右側の青い屋根のあたりが別荘の位置に当たります。
   大きな画像ですが、親柱に取り付けられた銘板に高崎橋の文字が見えます。

   リーフに示した6人以外にも、どなたかの妹さんやらメイドさんもお住いの大所帯
   でした。

   福岡收容所での脱走事件に絡んで家宅捜索もあったとか。
   周囲の目も、猜疑心やら敵対心など住みよい状況ではなかった中で貸してくれた
   別荘です。

さて、1枚目のリーフです。
収容人員の異動表だけで埋まってしまいます。


山本茂中尉はドイツ留学も経験し、俘虜たちのよき理解者であったそうです。
次は地図ですが、これも1リーフ全部使い切ります。

高良臺宿舍と事務所との距離感を出すために、1枚の地図に埋め込みました。






































































いよいよエンタのリーフですが、大掛かりな舞台装置の割には大した役者はいません。
教務所宿舍収容と思しき伍長さんです。







































































実はこの葉書、ジャパンさんの落札品なのですが鯛さん、どうしたことか「出品者が高良台というてはります」だけで法外な(ごめんなさい)最低値でした。

高良臺ではないことは最初から判っていましたが、梅林寺の写真が欲しかったので相場の倍以上払って頑張りました。

次は、何ということのないバラック收容所の平凡品です。
ただ、発信が久留米收容所。着信も久留米。







































































ジャパンさんの店頭での下見で、「ゆっくり謎解きをしてやろう」と思いながらの入手でしたがこれも判らず仕舞いでした。

ただ、受信者はドイツ帝国宰相の甥っ子さん。収容所内では結構な問題児だったようで、記録を読むと、いわゆる「気位の高い我儘な坊ちゃん」みたいな感じです。

多分、連隊へのいやがらせみたいな積りでやらかしたんでしょうが収容所は大人の対応。知らん顔で事務的に事を治めています。
郵便局は良い迷惑です。

最後に、これもデータだけのリーフですが、こんなものを拵えてみました。








































































前回も「悩んでます」と書きましたが、まっとうな郵便史のコレクションにするため消印とともに「俘虜郵便/SDPDG」印に着目することにしました。

俘虜郵便は検閲印が大きく派手なのでそちらの方に目が行ってしまいますが、切手に代わる役割を果たしているのは「俘虜郵便/SDPDG」印です。

画像は実際のリーフサイズより大きくしていますので、実寸に戻してご覧ください。
久留米や松山で使われたSDPDG印は実寸が80mm、縦書の俘虜郵便印が実寸で40mmです。

赤色の柘植/ゴム印は、朱肉を使用したものとスタンプ台を使用したものとがあります。
ゴム印は朱肉を使うと、その脂分で早く傷むため通常はスタンプ台を使います。

採用間もないころに、先輩の女性職員から教わった知識です。

シャチハタさんのサイトによると、このころはスタンプ台のインクは使用の都度補充しなければならなかったようで、現在のようなものは昭和の初めごろの発明だそうです。

実は、郵便史コレクションのためには、さらに逓送ルートの問題も無視できません。
入手できたものは、ほとんどが敦賀経由のシベリア鉄道便です。

しかし、大正4年度の終盤から大正5年度の初めころにかけてシベリア鉄道便が途絶したとの記録があります。
このため西回りの船便で運ばれたらしいのですが、詳細不明です。

外にも、経由地のスエーデンが専用の交換局を設置したとか、いろいろと調べるべきことがありそうです。


【自己評】
俘虜郵便印一覧を拵えたばっかりに、コレクションの筋の悪さが露見してしまっています。

SDPDG印では、「Sce」の上付き・下付き、そしてバラック使用の「!」印が少なそうです。
ありふれた青色の「俘虜郵便/檢閲濟」印も使用開始月のエンタが無いと面白くありません。
ついでにAGの初出データも ― と思いは広がりますが難しいものです。



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