2017年10月15日日曜日

靑島俘虜郵便(番外)‐ディーデリッヒ碑文

アジ歴に保存されている文書を毎日眺めていますが、結構退屈で鬱陶しい作業です。

ということで、息抜きリーフです。

絵葉書のディーデリッヒ碑文(Diederichsstein/迪特里希碑)は、清潔で美しい街並みを西側に見下ろす「信號山」(山頂の無線基地に因む名前)の中腹に据えられていました。

この碑文はいつまで存在していたか ―というのが謎のままのようです。

近年、中国の地元史家たちによって破壊後の碑文の文字の痕跡がいくつか現地で発見されています。

ドイツ語版のWikipediaでは、1922(大正1112月に破壊されて東京に持ち帰られた ―とありますが、根拠は不明確です。

探検家菅野力夫は1924(大正13)年3月後半に靑島を訪れ、碑文の前で記念写真を撮っています。

小川一眞写真館製の絵葉書まで残っています。
























また、「青島満帆」という旧靑島在留邦人の方々のブログにも、以下のような記事があります。
※ 以下ブログの引用
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   青島中学第4回生(大正13年、1924年卒業)斉藤昌司氏は、
   「通学生は市街地から時計台の下の左手の崖に
   ドイツ人の作った双頭の鷲の壁面彫刻を見ながら
   先生の宿舎を左に見て魚山路のアカシアの疎林、
   そして山道をたどって旭練兵場、
   それを横切って校舎背面のだらだら坂にと、相当きつい距離だった。」
   (青島日本中学校校史)
   と書いています。

   つまり、ディーデリッヒ記念碑は1924年までは確かに存在していましたが、
   それ以後の記録はばったり途絶えてしまいました。
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1922(大正11年に「山東懸案解決ニ關スル條約」が締結され、靑島が中国に返還されることになり、守備軍司令部は廃止され、軍事郵便も取扱が停止されました。

これに合わせて總領事館の開設やら靑島居留民團の設立やら、そこそこの権益を留保しながら形式上「返還」されています。
       ※ この4行、簡単に書いてしまいましたが、実際は複雑怪奇な国際情勢
        が背後にあります。

1922年説はこの条約に基づく推測と思われますが、上記の二つの事実から、碑文の破壊は1924(大正13)年度ころと考えるのが順当なようです。

軍部が東京に持ち去ったのなら残骸は遊就館にあるのでは ―との疑念をお持ちの方も上掲の中国地元史家においでのようですが、遊就館は否定しています。

まさかとは思いますが、惇明府 ―いや、全く根拠のない憶測です。こんなことを書くと、どなたにどんな迷惑をお掛けするやら分かりませんので読み流し願います。

リーフの絵葉書は靑島ではなく大連消しなので迫力がイマイチですが、写真の彩色がきれいなのと平和4銭が貼ってあるのとで入手しました。

ただ、実際にこんな色であったかと言えば疑問です。Der Reichsadler=帝国の鷲も、残っている写真を見ると金色ではなく、むしろ黒色ではと思えます。

標準的な小ライヒスアドラーです。





















現在のドイツ国章と同じく背景の方が金/黄色です。

日本軍によって加刻された「大正三年十一月七日」も、生前の墓碑みたいに朱が入れられていたのか今となっては判りません。

葉書の表書きにはもっと泣かされました。差出人のお名前が判読できません。しかも名字だけ。
「大分紡績」でググると、幸いにも川野彌五郎という方の名前が一緒にでてきました。

リーフには出していませんが、絵葉書の下二分の一には「病を得たので医師の勧めで航海に出て洋上療養している」みたいなことが書かれています。

こんな贅沢ができるのはこの人に違いない ―で断定しました。

漢字の偏と旁をひっくり返したり、上下に変えてしまうのは古代文書以来よく見られる書き方ですので、こんな画像まで作って書き込みのセンテンスの中に貼り付けました。







いろいろと楽しめたエンタです。









































































【自己評】
手に入れたときは「ヒカリモノ」として見とれていましたが、背後にあった戦争やら占領やら諸帝国の思惑渦巻く「和睦」 ―考えてしまうと、やっぱり鬱陶しいですな。
 それでも、かつて存在した事実は受け止めて郵趣という道楽のネタに…。

【追記】(2017.10.17
目ざとく「郵便ハガキ」はおかしいじゃないか ―と見つけられた方、
慧眼に感服します。

確かに、昭和8年の点付き楠公までは、官製はがきは「郵便はかき」ですし私製葉書もこれに倣って(郵便規則を遵守して)「はかき」としています。

しかし、横濱伊勢崎町にあったトンボ屋という絵葉書屋さんだけはロゴマーク的にリーフに貼りつけた画像のような「郵便ハガキ」という文字を使い続けていました。
しかも明治末から。(つまり13線時代から)

したがって、このロゴを見かけたらトンボ屋製とお考え下さい。



2017年10月13日金曜日

縦書為替印‐京都五條支局

久しぶりに縦書の面白いものが二つ手に入りました。
京都郵便電信局の五條支局です。

一つは、月型の後に年型が再登場。しかも、使い古しの印顆の再使用ではなく新調です。
もう一つは、支局名の表示が俗字体「条」となったもの。

1リーフに落とし込んでみました。






































































もう一つ気になることがありました。
毎日お世話になっている成田さんの「明治の全郵便局所沿革」の抜粋です。








「移轉?」と書かれています。
地図を漁ってみましたが動いていません。


(明治26西京區組明細圖)




























(明治28京都市圖




























(明治33京都新圖)




























※ 上図3枚は日文研地図データベースさんから。
今昔マップ上の地理院所蔵データ(明治43)も下図のとおりです。





























次に原文のコピーです。
(明治35郵便区画市町村一覧)





















(明治42通信区画便覧)




























明治34年の「市勢一斑」(京都市役所刊)には正しい町名が掲載されています。





































結局明治35年の市町村一覧の誤記(×上ル⇒○下ル)でした。

【自己評】
案外、「五條橋」表記の丸一が難関かも…。
リーフのレイアウトは、できる限りあっさりと ―と思いながらですがつらつら眺めてみると、まだゴテゴテ感があります。






2017年9月2日土曜日

靑島俘虜郵便‐久留米收容所

調べるのに随分時間が要りました。

靑島俘虜收容所の中では最大規模ですから、全貌の確認に時間がかかるのは致し方ないにしても最後まで判らず仕舞というのは残念です。


〇 俘虜の異動経過

収容俘虜の異動です。途中まではほぼ精確であろう収容人数を追跡できましたが、大正8年の末 ―喜福丸・ヒマラヤ丸の神戸港解纜直前― になって30人ほどの余剰が出てしまいました。

大正89月末現在で俘虜情報局が作成した統計では、久留米收容所には32人のシレジア出身者がいたようですが、喜福丸出帆前に宣誓解放の手続きは終わらなかったようです。

シュレスヴィッヒ・アルザス=ロレーヌ・ポーランド出身者はそれぞれ当該利益代表官に引き渡されて解決していますので、全くの行方不明です。

面倒なので、収容所閉鎖の時の解放人数に丸め込んでしまいました。リーフの異動一覧の表末「△119人」と書いたのがそれです。

ですから、その部分は信用なさらないようにお願いします。

もっとも、「内地契約成立者」と言われている俘虜の中にも雇用契約成立にも関わらず、本国に帰国した者もいます。

したがって、大正8年度下半期は、1,082名を固有名詞で追跡する以外に正確を期すことはできません。

幸いにもそれがコレクションの最終目的ではないので、よい加減なところで打ち切ることにしました。

〇 各宿舎等のロケーティング

設置された順に判明したことを書いておきます。
▼ 梅林寺将校宿舎
  リーフに大庫裏の絵葉書を貼っています。
  この絵葉書の販売は地元業者ですが、製作は東京の銀花堂。
  寺を代表する風景なら他に沢山ありますので、この庫裏が将校宿舎と見て間違いな
  いでしょう。
  多分将校2名に各1室、従卒に1室。計3室を充てたと思われます。
  Wikipediaにはこの大庫裏の画像が2枚も掲載されていて、一枚は絵葉書と同構図。
  もう一枚は扁額「春糟界」です。風情があってヨイです。
























▼ 香霞園将校宿舎
  タカハシブログに、この料亭跡の絵葉書が掲載されています。
  大3.9.28刊「九州電話實業案内」に「香霞園 鈴木榮 篠山神社境内」とあります
  が久留米城の二の丸敷地内だそうですので、多分ここだと思います。




































タカハシスタンプのブログから無断拝借ですが、絵葉書はこんな風景です。


















   通りから奥まったところにあるのは上掲の建物だけです。
   ちなみに、通りのお向かいさんは紡績工場。現在はブリジストンの工場です。

 ▼ 眞宗大谷派教務所と収容所事務所とは以前に書きましたので省略します。

 ▼ 高良臺宿舍  
   さすが軍都米府です。きちんと石碑を立ててくれています。
   グーグル地図で判明しました。




























   実際に二つ建っているかどうかまでは知りません。ストリートビューでは草叢だ
   けが見えていますので…。

▼ 他に、将校の妻たちの住んだ場所も判明しました。
「森新別荘」という記述は散見しますが、その説明は見たことがありません。

  森新というのは久留米の豪商が営んでいた三本松町の呉服屋さん、その当主高崎さ
  んが持っていた別荘と判りました。




















  
















   東北側を流れる高良川は別荘の庭に水を引くのに適していたため、多くの別荘が
   並んでいたそうです。

   別荘の北側に架かる「高崎橋」もこの御当主さんの寄進とのことです。
   ストリートビューで見ることができます。

































   ちょうど画像右側の青い屋根のあたりが別荘の位置に当たります。
   大きな画像ですが、親柱に取り付けられた銘板に高崎橋の文字が見えます。

   リーフに示した6人以外にも、どなたかの妹さんやらメイドさんもお住いの大所帯
   でした。

   福岡收容所での脱走事件に絡んで家宅捜索もあったとか。
   周囲の目も、猜疑心やら敵対心など住みよい状況ではなかった中で貸してくれた
   別荘です。

さて、1枚目のリーフです。
収容人員の異動表だけで埋まってしまいます。


山本茂中尉はドイツ留学も経験し、俘虜たちのよき理解者であったそうです。
次は地図ですが、これも1リーフ全部使い切ります。

高良臺宿舍と事務所との距離感を出すために、1枚の地図に埋め込みました。






































































いよいよエンタのリーフですが、大掛かりな舞台装置の割には大した役者はいません。
教務所宿舍収容と思しき伍長さんです。







































































実はこの葉書、ジャパンさんの落札品なのですが鯛さん、どうしたことか「出品者が高良台というてはります」だけで法外な(ごめんなさい)最低値でした。

高良臺ではないことは最初から判っていましたが、梅林寺の写真が欲しかったので相場の倍以上払って頑張りました。

次は、何ということのないバラック收容所の平凡品です。
ただ、発信が久留米收容所。着信も久留米。







































































ジャパンさんの店頭での下見で、「ゆっくり謎解きをしてやろう」と思いながらの入手でしたがこれも判らず仕舞いでした。

ただ、受信者はドイツ帝国宰相の甥っ子さん。収容所内では結構な問題児だったようで、記録を読むと、いわゆる「気位の高い我儘な坊ちゃん」みたいな感じです。

多分、連隊へのいやがらせみたいな積りでやらかしたんでしょうが収容所は大人の対応。知らん顔で事務的に事を治めています。
郵便局は良い迷惑です。

最後に、これもデータだけのリーフですが、こんなものを拵えてみました。








































































前回も「悩んでます」と書きましたが、まっとうな郵便史のコレクションにするため消印とともに「俘虜郵便/SDPDG」印に着目することにしました。

俘虜郵便は検閲印が大きく派手なのでそちらの方に目が行ってしまいますが、切手に代わる役割を果たしているのは「俘虜郵便/SDPDG」印です。

画像は実際のリーフサイズより大きくしていますので、実寸に戻してご覧ください。
久留米や松山で使われたSDPDG印は実寸が80mm、縦書の俘虜郵便印が実寸で40mmです。

赤色の柘植/ゴム印は、朱肉を使用したものとスタンプ台を使用したものとがあります。
ゴム印は朱肉を使うと、その脂分で早く傷むため通常はスタンプ台を使います。

採用間もないころに、先輩の女性職員から教わった知識です。

シャチハタさんのサイトによると、このころはスタンプ台のインクは使用の都度補充しなければならなかったようで、現在のようなものは昭和の初めごろの発明だそうです。

実は、郵便史コレクションのためには、さらに逓送ルートの問題も無視できません。
入手できたものは、ほとんどが敦賀経由のシベリア鉄道便です。

しかし、大正4年度の終盤から大正5年度の初めころにかけてシベリア鉄道便が途絶したとの記録があります。
このため西回りの船便で運ばれたらしいのですが、詳細不明です。

外にも、経由地のスエーデンが専用の交換局を設置したとか、いろいろと調べるべきことがありそうです。


【自己評】
俘虜郵便印一覧を拵えたばっかりに、コレクションの筋の悪さが露見してしまっています。

SDPDG印では、「Sce」の上付き・下付き、そしてバラック使用の「!」印が少なそうです。
ありふれた青色の「俘虜郵便/檢閲濟」印も使用開始月のエンタが無いと面白くありません。
ついでにAGの初出データも ― と思いは広がりますが難しいものです。



2017年7月5日水曜日

青島俘虜郵便‐丸龜收容所

今日は丸龜を頑張ってみました。

結構良いペースで進んでいるので「いっぺん切手展に出してみたろか」とも思ったのですが、JAPEXの要項を見て「やっぱりあかんかな…」。

郵便史のカテゴリーではありますが、それ以外のこと=俘虜の日々の生活やら收容所長、俘虜情報局の思惑、日独の絵葉書に垣間見える風俗やら戦争観やら ― 興味の大半が郵便史以外のことに向いてしまっていて、何を言いたいコレクションなのかコンセプトを失っています。

もう少しいろいろな絵葉書に当たってみて、最短でも来年の全日展 ― コレクションの方向が見えてこなければ永遠にダメ…

今よりもっと理屈っぽくネチっこくリーフづくりをしてみないと五里霧中から抜け出せません。

それはさて措き、丸龜は髙橋輝和先生の一般向けの本があって大変便利です。また記録もほとんどすべてアジ歴で見ることができて「楽勝やろな」 ― しかし無いものは無いというのが世の常。

收容所事務所の位置探しは苦労しました。でも見つけました。
事務所の位置が分かったところで歴史解釈に影響を与えるわけではありませんが、他の収容所でも頑張って見つけ出しているので意地だけです。

丸龜は、検閲印でいえば4種類。
初期の枠有り縦書の「檢閲濟」、三角の「俘虜收容所」、三角の市川中尉ひらがな印、そして「滿るかめ」丸印です。

うち2種が集まりました。
「いちかわ」三角印はご本人が大正410月から1年ほどしか在籍しておられませんので難しそうです。
初期の「檢閲濟」も然り。集まり方は正直なものです。

まずは、恒例の地図と出入り表です。
出入り表はドイツのサイトにもありますが一部は記録と合致しません。そこは日本語が読める強み    ―。 一致させました。

ついでながら、前回の靜岡も1人勘定が合わない原因も見つけました。上部アルザス籍の兵隊さんが宣誓解放を受けていました。
こういうことは記録に残したくなかったのでしょうか。
まあ、公表すれば我も我もと …。大変ですわな。







































































地図に「多度津道」というのを入れたのがミソです。丸龜驛ではなくお隣の多度津町から船で出入りしたようです。港からは徒歩。兵隊さんですから大丈夫です。
泰面鉄道建設の時みたいな行軍ではありません。

2リーフ目は「門前運動」の行進風景。
版権を有すべき初版ではありません。紙も大戦の資源欠乏の影響で粗悪です。複製した原版にも小さい埃のようなものが散らばって、ルーペで見るとバッチイです。

無いよりましかと思いながら貼りました。



名宛人の名前には閉口しました。
調べてもこのような苗字は見当たりません。ほかに読みようがあるのでしょうか。
どなたかお教えいただければ幸いです。

この「收容所記録」の「衞兵配置圖」に事務所の位置が明示されていました。唯一の資料です。
毎日の行進は衆目に晒す拷問のようなものではなく、むしろドイツ軍の誇りを誇示できる機会だったようです。

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【追記】

投稿後も名宛人の名前が気になっていろいろと調べているうちに、ふと気が付いてSchmidt名簿を繰ってみました.

当たりました。












私の語学力を超える解説をしてくれていますが、消防団で指揮を執っていた ― でよいのでしょうか。
早い話が民間人扱いで俘虜にはならなかった方です。

しかしずいぶんたくさん引っ越しをしてどっさり転職して子供さんもたくさん設けて、いらちなんですかな。
葉書の差出人Pflugerさんも文面や字体を見る限り多少横着な感じです。

靑島ではどんなご関係だったか知りませんがウマの合うた方々とお見受けします。

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3リーフ目は到着便。
クリスマスのフラワーオーナメントですが2月の着印。
他の例も調べましたがこれくらいの延着ならまだかわいい方でした。ロシア革命前夜のこととてシベリア鉄道も大変だったのでしょう。






































































ただ、差出人が" Lili Weiß " 全く無い名前ではないのですが出来過ぎ。あっさりした通信文ながらツボは押さえてあります。
多分お母さん ― "Lili Violet"を嫌ってしょっちゅうこう書いてはったんちゃうかいなと思うと…。

住所はグーグルで一発ヒット。ベルリンのど真ん中です。
今年のジャパンさんの戦利品ですが、下見で迷いました。切手をはがした跡が。

でも、剥がした上からGeprüft印があるからドイツ官憲によるものというのが明白、まるかめ印が鮮明やしまあええか ―で買いました。

リーフにも堂々と剥離跡を示すと、何となく立派に見えるから不思議です。

【自己評】
冒頭に書いた件、どうしようか真剣に悩んでします。
下手をすると(一般の方から見て)珍しいものを並べて喜んでいるだけのアホらしいコレクションになってしまいます。
難しいです。

2017年6月17日土曜日

青島俘虜郵便‐靜岡収容所                      Die Kriegsgefangenenpost Tsingtau

先日の新聞に、「日独戦争俘虜の手紙等を世界記憶遺産に― との動きが両国にある」という記事が載っていました。

私も一時は、同じようなことを考えていました。
しかし、これらの一連の出来事を恰も美談のごとく扱うのはいかがなものでしょうか。

俘虜の扱いは板東のような例ばかりではありません。
吹浦忠正先生の「捕虜たちの日露戦争」を読んで考えさせられました。
日露=日独両戦争を通じて、
「俘虜となるのは武士の恥辱、死ぬ方が潔い」⇔「俘虜もハーグ条約で定められた兵の勤務の一形態、命は大切」
両方の考えが消えたり現れたりしながら日本社会が進んでいきます。

私の良く利用する資料では(後のノモンハン敗戦将軍)植田謙吉少佐の「收容所視察報告」は前者の代表格でしょう。
むしろ、この人の考えが支配的だったのではないかしらと思わざるを得ません。

それに記憶遺産になんかなったら、絵葉書を落札するのに文化庁の許可が要るなどというのは願い下げです。

愚にもつかない話から始めてしまいましたが、今日は靜岡収容所の絵葉書を見ていただきます。

靜岡は珍しく小規模の収容所です。
この市には日独戦の10年前、日露戦の時も収容所が設置されました。
当時の知事の収容所誘致嘆願書が残っています。

靜岡の聯隊が出兵したが、戦争で特産品の漆器が輸出できず大水害もあったので景気振興のため収容所を設置してくれ ―という手紙です。

ロシア俘虜同様にさんざん金を遣ってくれると思い込んでいたのでしょう。
私の住まいの近くの某メトロポリスでも未だに「インバウンド景気」に浮かれた愚挙が毎日…。

今日の主役 Unteroffizier Hans Marfuke (Gef.-Nr.1762) マルフケ伍長さん、実は収容換された習志野では大活躍 ―演劇好きで監督やら演出、主演までこなした方です。

伍長ではありますすが、戦闘部隊ではなく事務屋さんに近いポジションにいてはったみたいです。
靑島在住時代は一介のサラリーマン。お付き合いしていたロシアの音楽家女性と後に結婚、お子さんもお二人 ―とのことです。

靜岡收容所全体を見れば、脱走劇のオンパレード。脱走失敗の常習犯やら見事に故国に帰着した者やら。
そういう方面ではとても賑やかだったようです。

収容所の建物は他所と同様、既存建物を色々と工夫して使用しました。
ひとつは赤十字靜岡支社。

詳しく調べると「附属舎」となっています。記録によっては看護婦寄宿舎とも看護学校とも書かれています。收容所使用直前は寄宿舎だった ―が正解みたいです。

もうひとつは調べるのに難儀しました。「恤兵團授産所」。
34聯隊の組織の一部と思っていたたら大間違いでした。

日露戦争出征兵の家族で生活に困った人たちを対象にした民間の慈恵団体。
縫い工場の写真を根性で見つけてやりました。

明治40年に内務省が広報用に発行した写真集です。































































当時の内務省も日露戦争後の民間の憤懣慰撫のためにあの手この手の工夫をされてたのでしょう。

団の本部は鷹匠町1丁目70ですが「Annex」と書かれた縫い工場は所在不明です。
リーフに書き込みましたが、脱走成功者のHeinrich Unkel さんの逃走経路は
「第2収容所南東方向にある傳馬町の田圃の中」
との記録がありますのでリーフの地図でほぼ正解と思っています。

或いは、同じ1丁目でも静鉄の北側の可能性は残ります。
同じ大正期と思われる住宅地図もネットで拾っています。













































もう一つヒントになる資料があります。
2收容所を撤廃して第1收容所に合併させるときの文書です。

「加藤岩藏所有元恤兵團工塲」だそうです。
幸いにも「靜岡市地主名鑑」(大正53月帝國興信所刊)というのがありましたが、加藤岩藏さんという方は鷹匠町には土地を持っていないことになっていました。

建物の大きさは、写真で見ると桁行方向で12間くらいありそうです。
Rüfer=Rungas本には"in einer ehemaligen Mädchenschule mit nur 130qm"とあります。

間口方向に3間半程とすると約139㎡で丁度計算が合います。

1枚目のリーフには熊本と同様、俘虜の出入り表を書き込みましたが計算が合いません。
習志野に収容換された人数の記録=106人は一人少ないのです。

もうひとつ、いわゆる「長老将校」となった方のお名前も判らず仕舞です。いっちゃん偉い人は大尉で2名ですが…。

2枚目のリーフはシンプルなものになりました。筆記体が少しだけ読めるようになりましたが最後の2行が全くお手上げです。








どなたかお教えいただけるとありがたいです。
差出人も読み方不明 ―随分丁寧な書き方ですので、かつての部下だった人かなくらいしか分りません。











































































































































【自己評】
あまり書くことがありませんでしたので、絵葉書の発売者も調べました。実際にドイツ人日本人を問わず評判がよく、重宝されたお店だったようです。

2017年5月12日金曜日

丸二型日付印 ‐ 大阪局の時刻表示(推定)

しばらく投稿をサボると、すぐに季節が変わってゆきます。
何か考えがまとまる都度、それをリーフで表現する場にしたい ― 思いどおりには計行きしません。

先ごろのジャパンオークションで丸二のロットを落としました。おかげさまで大阪の丸二が少し纏まりましたので、今までの蓄積分と合わせて年月日順にプロットしてみました。

私の所持分だけでは当然足りないので、いつもお世話になっている本池さんの教科書やデジタルデータも併せています。

赤字が所持していないもの。
黒字が所持品です。

いきなり「神武天皇祭」などという文字が目に入ると思いますが、私は右翼ではありません。
(どちらかといえばleft sideデス)

配達等の業務に関係のありそうな、日祭日・正月の一週間(=配達回数半減期間)・暑中配達省減期間を色を変えて表示しているだけです。








































































Googleさんは大きい画像は原寸で表示してくれません。
仕方なく年別に分けて掲載しますので、頭の中で繋げてください。
36年分です。
























































































37年分




















































































38年分
























































































データ整理だけで終わらせるつもりだったのですが、やってみると面白かったので12便/日の構成を推定してみることにしました。

全データをプロットして、変化のあった直近の二つを⇔で結びます。
35年後半から36年前半にいくつも縦の⇔ができました。

大阪のデータの残存数は少ないので、1年くらいのレンジは当然覚悟の上です。
この変化は集中してごく短い期間に生じたと見るほうが合理的です。

そこで、すべての矢印の共通する期間をチョイスしました。
この短い期間に大きな変化が生じたはずです。
以下、同様にして調べたものが1枚目のリーフ上段の表です。

迷った点が二つありました。

〇 早朝と深夜(午前5時や午後9時台ですが)についてはいくつもの便が出現するが、すべて配達があったのか。

〇 日中でも、20~30分の間隔で異なる便号が存在する。どう考えるべきか。

迷ったら原点に立ち帰ります。
丸一の便号は、取集便ではなく配達便の順序を表示することと定められています。

しかし、本池さんの御努力のおかげで東京局は逓送便の便号と解明されています。
では、大阪は。

結論(推論であり仮説ですが)は、引受郵便物を処理する締切り時間の数と考えるのが妥当なようです。

明治339月制定の郵便取扱規程です。





































取集便と配達・差立便とを対立概念として扱っています。
成程、言われてみれば原料仕入れと製造工程みたいな関係です。

郵便函や受取所からの取集、他局からの行嚢などが仕入れ。
これらに引受印やら到着印を押印して、自局配達分は区分け、他局配達分は行嚢に詰めて差立て ― これが製造工程に該当します。

「成程」と自分で勝手に納得しています。

さすれば、東京局の丸二の便号の扱いもむべなるかな ― 配達便号のはずが逓送便号だったのはコインの裏表。

(大掴みには正しい理解と思いますが、本池さんご指摘の着印の便号体系が別に存在するという通信官署官制以降の問題は未解決のままです。)

色々考えて、同じ郵便取扱規程の次の条文が目につきました。






































もう一つ、櫛型の時代に入ってしまった後、明治42年刊ですが「通信要録」という一般向けの詳細なガイドブックがあります。

東京郵便局長で法学士の坂野という人が書いた本です。
小包についての記述です。













































東京郵便局長は奏任官でとてもエラい人ですので、多分局内の各部署担当責任者に書かせたのでしょうが、それだけにリアルで信憑性があります。

これらに目を通して後に思いついたのですが、局に到来した郵便物の処理が完了する時刻を全郵便物で同一にするのではなく、締切時刻を統一したのではないか ― という考えです。

上記の規程にもあるように、通常郵便より小包郵便の方が処理に時間がかかるようです。
その時間差は、小包と通常便との個数比によります。

大阪局の場合、その差が20~30分だったのでしょう。
当然推測の域を出ません。

実証するには、同日かごく接近した日の通常便・小包便のエンタが必要です。
通常便は書留が望ましい。 ―書留も通常便と同じ時刻に締め切られ消印されたことを示すために― です。

書留はどうにでもなりますが、小包送票は大阪ではむつかしそうです。
包装は ―布であれ紙であれ、ボロボロになるまできちんと再利用されています。
小包受領証なら何とかなりそうですが本池さんの本の表紙の写真しか見たことがありません。

せめて書留料金を超える15銭以上の切手に20~30分後の時刻が表示されていることを示せば傍証にはなります。

さて、もう一つの課題。 深夜・早朝便です。
これも、「逓信法規類纂」(郵便編―明治3412月現行版)からの引用ですが、






















































丸一便号の使用法についての照復です。

一日の最初の取集便より配達便の方を早く始めているので、(配達便に一致させる日付印の便号は)イ便取集便の検印にロ便の消印を使うのは変だ。何とかしてくれ ― との趣旨ですが一蹴されています。

興味を引くのは、神戸=新橋間直通列車が夜間に京阪神に到着するという話です。
調べてみました。



































成程、丸一鉄郵の東京神戸間は上り下りともに「五便」まであります。
京都局の言う「下り大線」で運ばれてくる東京からの行嚢は21時ころに到着。区分けして配達するのは翌朝早くでしょう。

大阪ではどうなるか。
2枚目のリーフで、こじつけを交えながら 支局(代表に大阪局から最も近い天滿局)=大阪局=「梅田のステンション」を並べてどの便号(時刻表示)が使われるべきか考えて作ってみました。

しかし、これも切手コレクションであるからには実物のエンタがないと意味はありません。
何年かのうちに入手できればまたお知らせします。
「予言が当たったゾ」と鼻高々に ―。






































































上のリーフでは各時期の頭と尻が不確かなので、合計12便/日という確実な結論が出せません。
ただ一つ、普通便と小包便との時間差というもっともらしい推論だけは自信があります。

暑中の配達省減期というのは、毎年7/119/10の間炎天下の配達を回避するために配達回数を減らしてもよいよ ― というお触書で明治23年公達第270號です。

当然午後1時台の配達時刻が間引きの対象になったと思っています。
配達夫は体力維持のため、昼食後の短い午睡に利用したのではないでしょうか。

それにしても、通年で手に入れにくいのは何故なんでしょう。
もしかしたら、別配達が有るときだけの配達便でしょうか。

1日の全部の便を眺めると、朝・昼・夕の食事に充てた時間らしきものが何となく浮かび上がってきます。
(直前の便との時間差が1時間半ほどの便のことです)

或いは、「后0」というのが書留や別配達などの特別の便かもしれません。残存数も少なく、リーフに貼った10銭切手も書留エンタからわざわざ剥がしたものです。

次のリーフも、肝心の部分については結局判らず仕舞いです。
早朝の35便の関係が全く掴めません。







































































【自己評】
精進の甲斐あって、時刻のバラエティーはかなり埋まりました。
次は、これらの推論のどれか一つでも実証できるエンタを探すことです。
楽しみが増えました。
同時に、ここまでいじくりまわして調べまくったのも初めてのことです。
先達の御苦労のかずかず、末座を汚すものとしてそれらの片りんでも味わえたなら幸甚ではあります。

明治の時刻表を調べたい方へ;

旧近デジに資料が豊富ですが、「時刻表」や「列車」ではヒットしません。
それぞれ「時間表」「汽車」に変えていただくといくつか見つかります。
あとは、「旅行」や「(地名や地方名) 案内」なども有効です。
地方の図書館でも「明治大正時刻表―復刻版」(1998刊 第1巻から第10巻+1冊あります)を所蔵しているところもあります。
私はまだ見ていません。

2017年3月2日木曜日

青島俘虜郵便‐熊本収容所                      Die Kriegsgefangenenpost Tsingtau

ようやくお水取りが始まり、時々立ち消えのする書斎のエアコンと付き合うのもあと僅かとなりました。

手元にある幾十枚かの俘虜絵葉書の中から熊本を選んで挑戦してみました。

アジ歴に熊本收容所の日誌が残っていますので全容の概略はわかりますが、細かいところはまだ調査が要るようです。

従来からの解説書に書かれているようにいくつかのエリアに分けて収容したのですが、「京町」という地区も散見されます。

收容所の日誌でも最初の計画には入っています。

往生院と光永寺とが候補として挙げられています。西南戦争でも政府軍の宿舎となり、柱に弾跡が残っている ― とネットでの聞きかじり…

しかし、以降の日誌には一切登場しませんので、多分実際には使われなかったのでしょう。
細工町收容所には西光寺・阿彌陀寺以外に「光惠寺/光善寺」があると書かれている教科書もありますが「光永寺」の誤りかと思われます。

千反畑收容所は将校宿舎と本部事務所とが置かれた場所ですが、将校宿舎だけが特定できました。

将校用の「物産館集議所」は元熊本洋學校教師であったL.L.ジェーンズ邸。国会図書館資料で見ると当時は貸し会場として運営されていたようです。

1970年水前寺公園に移築され、昨年の熊本地震本震で倒壊とこのと。

























移築後の姿ですが、瀟洒な建物だけに惜しいです。
この建物に将校56名は詰め込みすぎではと心配します。

分からないのが将校従卒の宿舎に充てられた「米穀檢査所」。当時の熊本の案内書には物産館にあると書かれています。

また、本部事務所に充てられた「縣農會事務所」も同様で物産館内。

しかしこの千反畑(正しくは南千反畑町)地区は公共施設エリアでいくつもの公共施設が様々に使い廻されてきた経過があります。

ですので、本館内とは限らず集議所以外にも別館があったかもしれないのです。
もう少し調べれば判明するかもしれません。

施設の使い廻しは短い収容期間にも起こっていて、坪井郵便局が移築されるので収容場所を変更し縣會議塲に移動したと日誌に書かれています。

一見関係がなさそうですが、多分この施設をあそこへ、あの施設をどこへ ― という玉突きがあったのでしょう。































リーフの画像ではわかりずらいので、拡大図です。

縦書丸一収集家を悩ませ続ける、あの「熊本坪井郵便局」(旧称熊本坪井郵便電信支局)のことだけに気になります。

実際に、大正15年のナントカ共進会会場図には坪井局の位置が上図の移転後の場所に描かれていました。

以前にもブログに書きましたが、1枚のリーフに地図やら絵葉書の裏やらと収め切るのはかなり無理があります。

将来はもう少し熊本エンタを手に入れることを見越して地図だけのリーフも作ってみました。






































































学部の卒業論文レベルまでは達していなくても、高校生のレポートくらいの水準は超えていると自負しています。

さてエンタのリーフです。






































































差出人は、Johann  Gerlich とおっしゃる海軍の2等火夫さん。(Gef. -Nr. 3346
一緒に収容されていたお友達の火夫が大分に収容換されて一人ぼっちになりました。

そこへ大分から届いたイースターの挨拶状 ― よほど懐かしかったと見えて大喜びで返事を書いたはります。

胸を張って、「戦友ヨハンより」(Kriegskamerad  Johann
同室収容であろう二人の名前も並べて「よろしく伝えて」みたいなことをごちゃごちゃと。

したがって、1枚の絵葉書に俘虜兵が4人も登場しているお買い得品でした。

Herrnを冠せずHeizer3格も同形)と書いたものは初めて見ました。

陸軍で言えば輜重輸卒同等の僅かな尊敬しか得られなかったであろう2等火夫という仕事にこの二人は大きなプライドやら仲間意識を感じていたのでしょう。

それとも、ただの社交儀礼の挨拶葉書…。

郵趣上の見地から問題になるのは検閲印です。
初期には「檢閲濟」と縦に書かれた朱印が使われたようですが未収です。

面白いのは検閲者の印。
渡邉さんは所長の次に偉い人で「渡勉」のハンコもあるようです。

武藤印は書記。
日誌には「本部事務所に書記を二人置く」とあり、両名の事務分掌まで定めています。(日誌1120日)

うち一人が俘虜郵便に関することを担当することとなっており、これが武藤さんと思われます。

「横」字は横手收容所、「細」は細工町です。
「細」字は吉田景保さんの訳本に写真がありました。(p44

SDPDG印はとても面白い特徴があって、
①「Sce  DE  SPRISON…」としか読めないこと
②「PRISONNIERS」の「I」が小文字「i」の形になっていること
です。
後者の特徴は、手書き文字にはしばしば見られる読み違い防止策ですが…。

絵葉書の裏は墺洪兵を収容した妙永寺。
ネットで調べて知りましたが、加藤淸正のお母さんの廟所だそうです。

山門右の石碑、刻字の上に紋が二つ並んでいますが左が淸正公の蛇の目紋。右は判然としません。


【自己評】
エンタをしゃぶり尽くす快感が味わえました。
ついでながら、フォントの活用も。武藤さんによって鉛筆書きされたであろう「大分」の文字は「恋文ペン字」というフォントです。とても便利です。


2017年1月11日水曜日

縦書為替印‐爲替取扱所

新年おめでとうございます。

アメリカもヨーロッパも中東も北東アジアもとても騒がしく、とてつもなく酷い事件だけは勘弁してほしいと願う新年ではあります。

随分長い間投稿から遠ざかっていました。
その間、縦書の爲替取扱所が手元にたくさん集まって収拾がつかなくなりました。

ということで、リーフの再整理です。
いきなり全リーフをご覧いただきます。前回あれこれと書きなぐっていますので今回は画像中心の投稿です。

まず東京から。




































































































































淺草田町はとても難しそうです。
ウェブの青雲倶楽部で拝見した以外見たことがありません。






































































この3リーフで東京の部は仕舞です。続いて京都。






































































地元ですので、室町丸太町が手に入ったときは嬉しさも倍増でした。
それ以上に、六條受取所に月型の存在を確認できたことの方がよかったですね。

四條繩手は、月型が有るのかどうか未だ不明です。

次は大阪の2リーフです。






































































これも瓦町受取所の褐色印が有るはずなのですが…。







































































順慶町受取所の月型に2種類あるのは、自分としては新発見です。
欲を言えば、天滿市塲の郵電改定前の丸一が欲しいところです。

更に、名古屋以下各市の取扱所とその後継受取所が続きます。






































































こうして並べてみると、「全部を赤二で」というのは夢のまた夢。
それよりも、各受取所の月型の存否確定が先決です。






































































東四十物町取扱所を手に入れたときは、さすがに興奮しました。






































































先日ヤフオクに廣島京橋町取扱所の赤二が出品されていましたが、なぜが気が萎えて競り合いませんでした。

私の入れた札に、下から20数ビットかけて小刻みに這い上がってきた方の手に落ちています。
まあ長い人生、また入手の機会はあることでしょう。






































































追手町取扱所は情けない印影ではありますが、市内の取扱所はこの一箇所だけです。






































































北長狹の年型は、やっとの思いで手に入れました。






































































このリーフ辺りからは、一枚でも手に入れば赤飯(私としては―です)もの。











































































































































以上で全部です。
宇都宮大工町は以前見ていただきましたものから殆ど進歩していません。

しかし、受取所の年型と月型との日数の乖離が短縮されました。
もうひとつ、宇都宮町が意外に大都市であったことも勉強してわかりました。

【自己評】
各リーフの下に年表を入れるのは、書き込みがとても簡潔になって良いアイデアとは思いましたが10数年ものレンジをリーフの横幅に入れ込むのにはチト無理がありますな。

そして各取扱所の消長はよく分かるのですが、これに消印のタイプ変化まで対応させるとなると、1リーフ4段では詰まりすぎます。

今日ご覧いただいた各リーフも、いずれはさらに詳細・精確な書き込みのために変える時が来るのでしょう。

ただし、10年ほど必要かと…。