天気予報士の言では「秋雨前線のような」前線が日本海にあって、そこから伸びる寒冷前線が今回の大雨となった ― とのことですがどう見てみても梅雨前線…。
本当は梅雨明けしていないのに、体面だけ取り繕っているのではないかと疑いたくなるような今年の太平洋高気圧の弱さであることよ。
郵趣の世界では嘘は禁物 ―どの世界でもそうですが― 一昨日お知らせしましたDelcampeのチンピラ詐欺師については、昨夜担当者からメールが来て、
「出品者のcentrestampsがこのことをきちんと説明するまでアカウントを一時凍結する」旨知らせてくれました。
デンマークかどこかの方がワンビッド抛り込んでおられただけで、さすがに日本のディーラーさん方は様子見を決め込んだはりました。
それにしても、思わず手を出したくなるような似ノ島俘虜製ppcなんかがズラッと並んで実に壮観でした。
今日は多少趣を変えて、本国から俘虜に届いた「俘虜郵便」葉書です。
名宛人は、かの悪名高き久留米にずっと滞在してはった御方です。
差出人は、葉書を御覧いただきましたらお判りのように"Deine Fraue Martel" と書かれています。
― 名宛人の奥さんです。
仲睦まじいことです。私はとっくに諦めてます。諦めると表向き仲良く見えます。
葉書の絵は、当時おそらく人気を博していたのであろうフランスの画家、アンリ=ロンデル作の肖像画です。
この画家はどうしたことか、Wikipediaにも出てきません。
私は気に入ってます。裸婦を描くこともあり、マリアを題材にした大作の宗教画を発表することもありました。
この絵葉書が印刷された年には未だ御存命だったようです。
葉書そのものを見てみると、外観は収容所発の俘虜郵便とほとんど変わりません。
俘虜宛郵便も無料だったんですね。
私も初めて知りました。
違うところと言えば、
① "Kriegsgefangenen Sendung" と書かれていること。
② 消印の日付が、収容所発の俘虜郵便と逆の順番になっていること。
(当然ながらドイツの消印の日付が最も古く、日本の消印がその後の日付)
くらいです。
名宛人のReinhold Walzさんとおっしゃる方は、一等兵(=Gefreiter お好みによっては「上等兵」。ドイツは二階級制です。)。
葉書に "I. III. S.B." とあるのが、「第三海兵大隊第一中隊」の意味です。
以前にも書きましたが、実は編制の都合で海軍を名乗っている陸軍です。
最初に「悪名高き久留米収容所」と書きましたが、それも初めの二人の所長時代くらいまでで次の林銑十郎中佐(もちろんアノ方です)のころからはオーケストラを組織して久留米高等女学校で演奏会を催したり ― と活発な文化交流が行われています。
名宛人のヴァルツさんは、このオーケストラのフレンチホルン担当。
2年前の「チンタオ・ドイツ兵俘虜研究会」会報に、小宮寧さんとおっしゃる方がお孫さんの旦那さんから遺品を譲り受けたという記事が掲載されています。
リーフの御本人の肖像写真もそのときのものです。
併せて、その旦那さんによってeBayでもエンタが何点か売り立てられています。
久留米について、私は最初と二番目の所長だけが悪いとは思っていません。
国内最大規模となる1,300人を超える俘虜を一箇所(=国分第18師団衛戍病院)に集めて管理するとなると、その大変さは判ります。
さらに追い打ちをかけるかのように中央から植田謙吉氏(後の関東軍司令官。ノモンハンの敗戦の将)が巡回視察に来て厳しい指導を行っています。
それに地元の一部の業者。所内の酒保でビールなどを法外な値段で売ったようです。
リーフです。
【自己評】 私のプリンタ(Canon PIXUS)は、どうも厚紙とは相性が悪いようで、普通紙ですときれいにプリントアウトできるのですが、リーフくらいの厚さになると御覧のようなインク漏れが生じてしまいます。
画像には多少細工をして、黒くなったところを白っぽくしていますが…。
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Delcampの詐欺事件をきっかけに盗用防止対策を考えるつもりでしたが、当分の間このままで行きます。
ヤフオクは今年に入ってから、流用防止のため画像のダウンロードをできないようにしていますが、私自身も画面のハードコピーを取って欲しい部分を切り取って保存…などという面倒なことをしています。
何か細工をしてもそれをすり抜けるヤツは出てきます。
郵趣関係のネット市場から完全に追放する根本的な対策を考えた方がよいと思っています。
ヤフオクの「評価」やeBay / Delcampeのfeedbackは重要なものとして考えた方がよいでしょう。
まずい評価が多くてヤフオクで商売できなくなり、他のマイナーなネットオークションに引っ越した京都の業者を知っています。
今月に入ってヤフオクに靑島軍事の偽物を出品したh******_*****や菊軍事の偽加刷を出したm******は、いずれわが身に跳ね返ることを銘記すべきです。
菊軍事にはC欄三星はありません。収集家をナメるとエライことになりますぞ。
2014年8月28日木曜日
2014年8月26日火曜日
緊急のお知らせです! Delcampに詐欺師出現です。
今朝、Delcampを見て驚きました。
私のコレクションが売り立てられています。
7月30日に御紹介しました靑島俘虜郵便のうち、靑野原收容所発信の絵葉書(濵勇姐さんのRPPC)です。
http://kitte-renshucho.blogspot.jp/2014/07/die-kriegsgefangenenpost-tsingtau-das.html
もちろん売リ飛ばしたりしていません。今手元にあります。
ネットでそこらへんの画像を拾いまくって、眼腐れ金をせしめようとする輩です。
ほかにも何通かのTsingtau-POWのエンタが同じ売り手によって出品されています。
Centrestampsというのが、このタコのニックネームです。
Delcampの英語担当職員には、すぐに通報しました。
それにしても、制定シートや冠10銭をそれらしい安めの値段で売るように見せかけるのではなく、随分玄人好みの渋いところを狙ってくれます。
結構プロっぽいチンピラですナ。
それから気に食わないのが、安いこと!
10ユーロとは何事ぞ。
出品された画像は、私のスキャナの癖までそのままです。画像が赤味がかってしまうのです。
他の靑島POW便も、当然全てインチキでしょう。
さて、この事件は私にも何か落ち度があるのかな ― と思っています。
リアルさを追求するあまり、こんな盗用にまでは気が回りませんでした。
さりとて、画像にロゴを入れるとせっかくの「リーフ丸ごとアップロード」というコンセプトが崩れてしまいます。
至急に対策を考えます。
とりあえずは、お知らせまで。
私のコレクションが売り立てられています。
7月30日に御紹介しました靑島俘虜郵便のうち、靑野原收容所発信の絵葉書(濵勇姐さんのRPPC)です。
http://kitte-renshucho.blogspot.jp/2014/07/die-kriegsgefangenenpost-tsingtau-das.html
もちろん売リ飛ばしたりしていません。今手元にあります。
ネットでそこらへんの画像を拾いまくって、眼腐れ金をせしめようとする輩です。
ほかにも何通かのTsingtau-POWのエンタが同じ売り手によって出品されています。
Centrestampsというのが、このタコのニックネームです。
Delcampの英語担当職員には、すぐに通報しました。
それにしても、制定シートや冠10銭をそれらしい安めの値段で売るように見せかけるのではなく、随分玄人好みの渋いところを狙ってくれます。
結構プロっぽいチンピラですナ。
それから気に食わないのが、安いこと!
10ユーロとは何事ぞ。
出品された画像は、私のスキャナの癖までそのままです。画像が赤味がかってしまうのです。
他の靑島POW便も、当然全てインチキでしょう。
さて、この事件は私にも何か落ち度があるのかな ― と思っています。
リアルさを追求するあまり、こんな盗用にまでは気が回りませんでした。
さりとて、画像にロゴを入れるとせっかくの「リーフ丸ごとアップロード」というコンセプトが崩れてしまいます。
至急に対策を考えます。
とりあえずは、お知らせまで。
2014年8月23日土曜日
青島俘虜郵便‐大阪収容所 Die Kriegsgefangenenpost Tsingtau - Das Osaka Lager
靑島俘虜郵便の絵葉書だけを、それも芸妓・半玉の写真絵葉書だけを全収容所分集めてみようかと思いましたが、2年や3年でどうにかなるようなものではありません。
当然ただの風景写真絵葉書も入ってしまいます。
昨日、ジャパン・スタンプ商会オークションの下見に大阪第三ビルまで出かけて行きました。
坂東や似ノ島の俘虜製絵葉書が沢山あって、ただただ見とれて時間を過ごしてしまいました。
そんなものも世の中には有るのですが、とてもとても手に入る値段ではありません。
今日は大阪収容所の俘虜の葉書です。
先に紹介しました「チンタオ・ドイツ兵俘虜研究会」のサイトには該当者の氏名が見当たりません。
広い世界のどこかにはヒットするサイトが有るだろうと、俘虜のフルネームを原語で打ち込んで検索してみますと、ありました!
Tsingtau - historisch-biographisches Projekt というサイトです。
http://www.tsingtau.info/index.html?namen/p.htm
彼の氏名は見つかりましたが、seesoldat=二等水兵でヴェストファーレン出身ということくらいしか判りません。
したがって、このリーフについて書くことはこれで終いです。
それでは面白くないので、消印の日付でも御覧ください。
大正5年6月1日となっています。
この3箇月前に大阪収容所で大火があり、収容棟のいくつかが消失しました。
その焼跡にグラウンドを作りラグビー競技が行われています。このチームは似ノ島まで継続し、そこで本邦初の国際試合が行われたとか。
それはともかく、この火事の後は事務方が大忙しでした。
当時の記録では、
「俘虜郵便物ノ檢閲ハ常ニ煩累ヲ極メタル所ニシテ所員及通譯ハ多ク之レニ没頭シタルノ状況ナリ」
となっています。
将校二人と通訳文官だけでは、とても500名を超える俘虜全員の面倒は見きれないでしょう。
私も退職前は、とんでもない大規模府立学校(職員数実に240名)の事務方をしておりましたので、気持ちはよく分ります。
大阪収容所の記録は多くは残っていません。(捜し方が下手なだけかも…)
上述の俘虜の氏名も含めて、いろいろ検索すると面白いものが残っていました。
薄田泣菫が大阪毎日に連載した随筆です。
彼の体験談ではなく伝聞を題材にしていますので、話半分でしょうが ―
もとより全てのロシア兵や全てのドイツ兵がこうではありません。当時の人の目にはこのように写った ― という程度です。
それから、決してヘイトスピーチではありません。念のため。
日露戦争俘虜を道後温泉に連れて行ったら、風習の違いからとんでもない誤解を生じたなどという笑い話もアジ歴の公文書に残っていますが、またの機会に…。
さてリーフです。
白紙みたいなリーフで書き込むべき内容がありませんが、それにしてもこの葉書に押されたゴム印は、誰が拵えたのでしょう。
俘虜が原稿を書いて、日本の印判屋さんが彫ったのでしょうか。
【自己評】 コレクションとしては誠に貧弱至極ですが、資料調査が面白い分野です。財布の負担を考えながら少しづつ増やしたいですネ。
当然ただの風景写真絵葉書も入ってしまいます。
昨日、ジャパン・スタンプ商会オークションの下見に大阪第三ビルまで出かけて行きました。
坂東や似ノ島の俘虜製絵葉書が沢山あって、ただただ見とれて時間を過ごしてしまいました。
そんなものも世の中には有るのですが、とてもとても手に入る値段ではありません。
今日は大阪収容所の俘虜の葉書です。
先に紹介しました「チンタオ・ドイツ兵俘虜研究会」のサイトには該当者の氏名が見当たりません。
広い世界のどこかにはヒットするサイトが有るだろうと、俘虜のフルネームを原語で打ち込んで検索してみますと、ありました!
Tsingtau - historisch-biographisches Projekt というサイトです。
http://www.tsingtau.info/index.html?namen/p.htm
彼の氏名は見つかりましたが、seesoldat=二等水兵でヴェストファーレン出身ということくらいしか判りません。
したがって、このリーフについて書くことはこれで終いです。
それでは面白くないので、消印の日付でも御覧ください。
大正5年6月1日となっています。
この3箇月前に大阪収容所で大火があり、収容棟のいくつかが消失しました。
その焼跡にグラウンドを作りラグビー競技が行われています。このチームは似ノ島まで継続し、そこで本邦初の国際試合が行われたとか。
それはともかく、この火事の後は事務方が大忙しでした。
当時の記録では、
「俘虜郵便物ノ檢閲ハ常ニ煩累ヲ極メタル所ニシテ所員及通譯ハ多ク之レニ没頭シタルノ状況ナリ」
となっています。
将校二人と通訳文官だけでは、とても500名を超える俘虜全員の面倒は見きれないでしょう。
私も退職前は、とんでもない大規模府立学校(職員数実に240名)の事務方をしておりましたので、気持ちはよく分ります。
大阪収容所の記録は多くは残っていません。(捜し方が下手なだけかも…)
上述の俘虜の氏名も含めて、いろいろ検索すると面白いものが残っていました。
薄田泣菫が大阪毎日に連載した随筆です。
彼の体験談ではなく伝聞を題材にしていますので、話半分でしょうが ―
もとより全てのロシア兵や全てのドイツ兵がこうではありません。当時の人の目にはこのように写った ― という程度です。
それから、決してヘイトスピーチではありません。念のため。
日露戦争俘虜を道後温泉に連れて行ったら、風習の違いからとんでもない誤解を生じたなどという笑い話もアジ歴の公文書に残っていますが、またの機会に…。
さてリーフです。
白紙みたいなリーフで書き込むべき内容がありませんが、それにしてもこの葉書に押されたゴム印は、誰が拵えたのでしょう。
俘虜が原稿を書いて、日本の印判屋さんが彫ったのでしょうか。
【自己評】 コレクションとしては誠に貧弱至極ですが、資料調査が面白い分野です。財布の負担を考えながら少しづつ増やしたいですネ。
2014年8月19日火曜日
青島俘虜郵便‐大分収容所 Die Kriegsgefangenenpost Tsingtau - Das Oita Lager
前回の投稿からずいぶん間隔が空いてしまいました。
リーフ整理を少しくサボったこともありますし、盆休みで久しぶりに孫が来たり…いろいろありました。
靑島俘虜郵便の2回目です。
大分収容所は、早めに店じまいされてしまって全員が習志野に収容換(※)されています。
※ お役所用語では「シュウヨウカン」と読むのだと思います。
今でも任命換(=ニンメイカン。異なる任命権者が発令すること。)
などと使われています。
大分収容所では、兵士・下士官用の宿舎に古い校舎が充てられます。
3棟の建物のうち1棟は棟の半分をまだ学校として使っている状態です。
そのため、子供たちとの良い交流もあったとのことです。
一方、宿舎の周囲は板塀で囲われていましたが、外の田園風景はよく覗くことができ、女性の田植え仕事で胸がはだけたりするのが眺め放題だったとか。
そんな開放的な状況も手伝ってか、日本の風習に通じた将校が3名ほどの下士官・兵士を連れて「脱走」し、遊郭に上がり込んで日本女性との「意思疎通」を堪能した ― という武勇伝が残っています。
当然30日間の営倉入りでした。
将校は全く別棟の赤十字社の建物が割り当てられていましたが、寝泊まりは校舎だったそうです。
お示ししますRPPC(写真絵葉書)は、差出人が何やらロシアめいた名前ですがもともと靑島で鉄関係の商いをしていた方のようです。
それにしても愛想の無い葉書で、住所は8月から東京の近くの習志野というところに変わるよというゴム印と、後は大分よりと書かれているだけです。
多分随分たくさん同様の葉書を出したのでしょう。
それも、葉書を出したくない相手にいやいや書いた…みたいなところが面白いです。
所属の「海軍野戦砲兵隊」というのは、生粋の海軍で、靑島守備の主力であった「第三海軍歩兵大隊」みたいな「本当は陸軍」とは異なるようです。
この方は、解放後も靑島に住むことを希望したようで、大正9年2月付けで靑島民生部から発出されたこんな報告書が残っています。
文頭に書かれている2名の解放俘虜のうち「アルクシンンスキイ」とあるのが御本人さんです。
アラブ系ロシア人みたいな変な名前になってしまっています。
「カ(ー)ル」の「カ」を「ア」に写し違えたのでしょう。或いは「カアル」の「カ」が脱落したのか…。
こんな靑島ファンが120数名ほどいたそうで、実に全俘虜の2.5%に及びます。
靑島で留守を守った家族や知人も、彼らを迎えるために港にアーチを作って歓迎したという話まで残っています。
例によって、写真の美少女は前回にも名前だけ出しました半玉の「音丸」ちゃんです。
この娘については面白い話があります。
養母によって新橋に出されたが一向に売れない。
これを案じた物好きの文士二三名で計略したのが、絵葉書。
明治の末年には既に照葉姐さんみたいにもともとスキャンダラスな娘が腕の良い写真家によってさらに有名になり、スターダムにのし上がっていました。
それにあやかろうと多くの写真を売り出したところ、元来生真面目で努力家だったこともあって一躍有名になり、「半玉七人娘」(揃いの半襟、揃いの帯…さながらAKB48か、ももクロかみたいな)に最若年で名を連ねたとのことです。
また、後に清元の家元に嫁ぎ幸せな生涯を送ったとか。
リーフです。
【自己評】 収容所の検閲印はいろいろあって面白いので、当分リーフごとに拵えてみようかな。
リーフ整理を少しくサボったこともありますし、盆休みで久しぶりに孫が来たり…いろいろありました。
靑島俘虜郵便の2回目です。
大分収容所は、早めに店じまいされてしまって全員が習志野に収容換(※)されています。
※ お役所用語では「シュウヨウカン」と読むのだと思います。
今でも任命換(=ニンメイカン。異なる任命権者が発令すること。)
などと使われています。
大分収容所では、兵士・下士官用の宿舎に古い校舎が充てられます。
3棟の建物のうち1棟は棟の半分をまだ学校として使っている状態です。
そのため、子供たちとの良い交流もあったとのことです。
一方、宿舎の周囲は板塀で囲われていましたが、外の田園風景はよく覗くことができ、女性の田植え仕事で胸がはだけたりするのが眺め放題だったとか。
そんな開放的な状況も手伝ってか、日本の風習に通じた将校が3名ほどの下士官・兵士を連れて「脱走」し、遊郭に上がり込んで日本女性との「意思疎通」を堪能した ― という武勇伝が残っています。
当然30日間の営倉入りでした。
将校は全く別棟の赤十字社の建物が割り当てられていましたが、寝泊まりは校舎だったそうです。
お示ししますRPPC(写真絵葉書)は、差出人が何やらロシアめいた名前ですがもともと靑島で鉄関係の商いをしていた方のようです。
それにしても愛想の無い葉書で、住所は8月から東京の近くの習志野というところに変わるよというゴム印と、後は大分よりと書かれているだけです。
多分随分たくさん同様の葉書を出したのでしょう。
それも、葉書を出したくない相手にいやいや書いた…みたいなところが面白いです。
所属の「海軍野戦砲兵隊」というのは、生粋の海軍で、靑島守備の主力であった「第三海軍歩兵大隊」みたいな「本当は陸軍」とは異なるようです。
この方は、解放後も靑島に住むことを希望したようで、大正9年2月付けで靑島民生部から発出されたこんな報告書が残っています。
文頭に書かれている2名の解放俘虜のうち「アルクシンンスキイ」とあるのが御本人さんです。
アラブ系ロシア人みたいな変な名前になってしまっています。
「カ(ー)ル」の「カ」を「ア」に写し違えたのでしょう。或いは「カアル」の「カ」が脱落したのか…。
こんな靑島ファンが120数名ほどいたそうで、実に全俘虜の2.5%に及びます。
靑島で留守を守った家族や知人も、彼らを迎えるために港にアーチを作って歓迎したという話まで残っています。
例によって、写真の美少女は前回にも名前だけ出しました半玉の「音丸」ちゃんです。
この娘については面白い話があります。
養母によって新橋に出されたが一向に売れない。
これを案じた物好きの文士二三名で計略したのが、絵葉書。
明治の末年には既に照葉姐さんみたいにもともとスキャンダラスな娘が腕の良い写真家によってさらに有名になり、スターダムにのし上がっていました。
それにあやかろうと多くの写真を売り出したところ、元来生真面目で努力家だったこともあって一躍有名になり、「半玉七人娘」(揃いの半襟、揃いの帯…さながらAKB48か、ももクロかみたいな)に最若年で名を連ねたとのことです。
また、後に清元の家元に嫁ぎ幸せな生涯を送ったとか。
リーフです。
【自己評】 収容所の検閲印はいろいろあって面白いので、当分リーフごとに拵えてみようかな。
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