コロナ騒ぎの最中に開催された全日展郵便史部門の出品リーフです。
さすがに出品数も少なくなっています。コロナの責任が半分、郵趣人口の減少が半分といったところでしょうか。
乾坤一擲、満を持しての出品のつもりがスベってしまいました(S.B.)。評価項目の細分がJapexと同じとすれば、多分マテリアル不足が大きいと思っています。
トリートメントで、基本にこだわりすぎて駄物でスペースを取りすぎた(△10点)。レアリティ―展開が不十分(△20点)。 ー といったところでしょうか。スタディー・プレゼンテーションは減点が少ないと思っています。
出品の趣旨は、
① まず丸二印の基本=使用局、使用時期、使用事務、印軸の構造分類です。使用局・使用時期は本池さんによって解明済み。使用事務も丸二印使用開始の公達に明示されています。 ただし天王寺と玉造など例外があります。(電信単独局は丸一電信印/明治23年公達第61号)
印軸の構造は大別して二種類。細いリングと後からできた太いリングとです。リング幅は0.3分/0.5分ですが、小数点が面倒なので10倍して3分環・5分環と呼ぶことにします。
② 次に今回のメインである局内・局間結束の分析と復元です。
丸二印の表示時刻は櫛型のそれとは異なり、押印の実時刻ではなく各便の差立・出発時刻です。本質は時刻の姿をした便号であることに変わりありません。
ただイロハを時刻に換えてくれたので、各局12便の差立時刻の全貌がほぼ復元できます。また東京局以外は差立便の隙間に配達便を挟むのでその位置もほぼ特定できます。さらに列車時刻表があれば護送便の列車まで判別可能です。
③ これだけでは地味で退屈なので、派手気味なエンタもいくつか散りばめています。コルビザールやら和田小太郎やら日露戦争俘虜救恤葉書やら…。これらにも逓送結束の分析も書き加えています。(珍しい丸二エンタで喜んでいるだけではないぞというメッセージです)
※ 引用自由ですが出典を明記してください。
ではまず丸二の基礎基本、第一部各局の印軸形式から始めます。
初日印が大正婚儀くらいで、年賀状は駄物です。
水牛印は東京局だけの特異な印軸です。町のはんこ屋さんがごり押しで納品した物でしょうから多分、印軸交付数85本の員数外でしょう。
ただ、こんな印軸があるということを知る人も少ないので、機会は少なくてもまだまだ拾えます。
このリーフは基本中の基本で、多分無くても良かったかと反省しています。丸二使用期間の途中で新設・改称された局の3分環使用状況だけで十分です。加えるなら赤坂・丸之内の櫛型での局名表記くらいでしょう。
このリーフも色どりのひとつで、京橋局の局内風景です。厚手紙にコロタイプのフチなし印刷は、日露戦争後の明治41~42年頃のもののはずです。
絵葉書コレクターで、示準となる技術・絵柄を明示した編年研究をやってくれる人はいないのでしょうか。珍しい絵葉書をたくさんため込んで喜んでいるだけの「大家」ばかりで…。
お好きな方のために絵葉書の写真面だけアップしておきます。
柱に貼ってある逓信大臣訓示はかろうじて明治四…と読めますが定かではありません。
逓信省画像はご愛敬。切手の右に書き込みを入れたので、左右バランス維持のために突っ込みました。櫛型印はご存じの通り、このあとA欄「遞信省假廰舍内」表示に変わります。
偶然新橋の時刻入りと櫛型とのCTOが入手できました。東京では日比谷交番焼打ちなど民衆の不満慰撫のため戦利品展示やら何やらと手を尽くしますが…。
このリーフも東京同様で梅田局の活字互換だけで、よかったと思います。また、無集配局・郵便電信受取所の時刻入りが高輪だけは、減点の対象だったと思います。 有るなら見せてみろと言いたいのですが、菊ならそれくらいのものは展示してしかるべきと のご高説も頷けなくもないです。
その梅田局は「田」が2種類あるので3分環/5分環で局名欄も互換性のあることが証明できます。
臨時局設置の世相まで出そうとするのは、ネチこくしない方がよかったか…。
櫻木局のような無集配局でも窓口引受の普通便は押印することになっていたのでしょうか。恥ずかしい限りですが根拠となる法令を知りません。
僅か200メートルの距離に無集配二等局を二つも作らせるのは陸軍の高慢ですが集配担当の兵庫局にしてみれば、ポストが二つ増えただけという見方も…。
郵便印は長崎でおしまいですが、もう一つ手形交換所で使われた日付印があります。「交換拂」印です。
二重丸貯金印の時代から、貯金事務には何故か朱肉・朱色のインクを使うのがお好みで密接につながっている為替事務も同様です。交換所の設置経過はリーフの書き込みどおり。
当時は二線引と言わず「線引」と呼称していたようです。貯金の払戻依頼書を小切手・手形・為替の代用にした時代の産物です。
ここまで(印軸構造)と次の局内の集配結束を併せて一フレームに収めるべきだったと思っています。
次のリーフ(第2フレーム)からは、結束の復元です。
郵便局の郵便業務には絶対に混同されない二つの業務があります。一つが「取集」(小判の時代は「聚集」)、もう一つが配達です。
この二つの作業は、それぞれタイムスケジュールが組まれていて定められた時刻に定められた作業をこなすことで局内と局間との「結束」が成立しています。
取集業務は、①取集人(雇員=日給のアルバイト)が郵便函・郵便受取所・無集配局から集めた郵便物 ②窓口引受の郵便物 ③局前の郵便函から集めた郵便物。 が対象です。日付印押印の後、逓送先ごと・郵便物の種類ごとに行嚢に入れて、逓送人(=雇員)に渡して完了です。
③は、菊の時代以前から「差立作業の時刻毎に開凾する」というキマリがあります。現在も守られており局の取集結束の作業開始時刻=局前のポストの開凾時刻です。
次に配達です。局に到着した行嚢を開けて到着印を押印、配達人の受持ち区域ごとに分ける作業ですが、自局集配の郵便物が加わり、紛来郵便物は取集結束の流れに戻したり、料金不足の郵便物に付箋を貼ったり、欧文宛名の郵便物に邦字を書き加えたりと面倒な作業がたくさん混じることになります。
丸二印の使用局はこの作業を毎日12回繰り返します。集配人は受持区域を時速8kmで走ることが義務付けられていて、受持経路を一日12回走るというしんどい業務です。
局内で押印・区分けする局員(官吏)も然り。小包もありますから、一日中埃だらけで作業をこなすことになります。
この辺りの事情は、国会図書館デジタルアーカイブ「維新後に於ける名士の逸談」にやや誇張したリアルな記述がありますのでご覧ください。
ここまでの3リーフは東京局の集配12便の動きを追ったものです。
リーフの書き込みは表示時刻=配達開始時刻説ですが、別の考え方もできます。
到着印と引受印の時刻が同一だからと言って集配作業を同時並行で行った証しとは言い切れず、私自身も実は未だに確証が持てません。
通常、取集結束の押印と配達結束の押印とは同時に行わず、時間をずらして交互に行われます。限られた人員とスペースで効率よく作業するならそれが最適解です。
明治33年取扱規程の締切時刻は差立/配達の30分前を超えてはならない旨の規定があります。これを逆に解釈して、差立/配達の30分前に押印作業を完了し、次の集配便の押印を開始、締切後の30分間は仕分け作業だけ ーという推定です。
これが丸二使用開始以前からの姿だったとすれば、明治36年4月以前だけが「日付印便号は取集便号」の規定を守っていた ーという単純な結論になり、第II期の着印表示時刻変更は配達の順立て時間を考慮したものではなく配達結束の実時刻を表示したことになります。
両説とも推論としては成立しますので、今後の課題とするしかありません。
次のリーフから局間結束に入ります。
2局の未収は恥ずかしいのですが、東京市内局間の交換便をダイヤグラムで示すことが目的のリーフです。
加えて地方への鉄道ルート、各駅との受渡便も入れてあります。山手線が完成する前は千葉銚子へは本所駅(現在の会場駅=錦糸町です)まで郵便物を運んでいました。
次のリーフから東京=飯田町局間の第V期結束の復元です。
どの時代も、第2便はとても数が少なく苦労しますが幸いコルビザール宛エンタが入手できました。
しかもこの時期は大倉喜八郎宅に住んでいたことまでわかります。
着印を12枚並べるだけならさしたる苦労はないのですが、ここから大きな時刻のずれが見つかります。小包便の処理に充てた時間帯でしょう。
結束を復元する上で他にも考慮しなければならない時間があります。局員・雇員の食事時間です。当時は20分間と定められていて、お昼時や午後8時頃ダイヤグラムに不自然な空隙が有ればまずこの時間とみて間違いないようです。
このリーフは、郵便史としては落第です。もう一枚通常の引受時刻のものを貼らなければなりません。
単片だけでも貼ればよかったと後悔…。
次は1リーフだけですが、第II期芝口局の補助便がほぼ完全に復元できました。
リーフには「通常便の10分前」と書き込みましたが補助便の発生から言えば「一つ前の便の1時間後」との表現が正しいのかもしれません。
或いは次フレームの大阪市内局のようにかさ張る小包を先に処理して、落ち着いたところで通常便を処理するというスタイルだったのか判別できません。
次の4リーフは東京局ゆかりのアトラクションエンタです。2リーフが日露戦争関係、後の2リーフが郵便ではなく貯金・為替業務関係です。ちょうど国内経済規模の増大期に当たっています。(貯金のグラフは郵便百年史)
日比谷交番焼打ち以外にも横濱で羽衣座騒擾、神戸で大黒座事件が起こっています。横濱はリーフに書き込んだとおり、神戸は同じ9月に伊藤博文像引き回し事件が起きています。
テーマチクにしては舌足らず、郵便史にしては的外れ、どっちつかずの中途半端なものになってしまいました。1フレーム16リーフの員数合わせです。
第3フレームは大阪です。どの市内局も数はたくさん集まるのですが、表示時刻は更にたくさんあり整理に困ります。データを全て並べてみると、どうも全便に補助便がついているらしい ―と理解できます。
しかも他局と異なり小包を先に処理したようです。芝口局で説明したように嵩張るものから処理し、スペースを確保したうえで通常便を ―との方法しかなかったのでしょう。
大阪の第1差立便は新橋行き急行に結束するようにセットされています。市内局もそれに合わせて深夜にせっせと3便も大阪局に運びます。
このリーフで示したように市内局の差立便はグループとして大掴みに分けるしかありません。
本池さんが膨大なデータを残してくれています。そのおかげで恥じらいの「未収」のブランクができました。
未収のブランクは恥ずかしいのですが、仕返しの趣旨にはあらず、大阪局の小包専用便の痕跡(だけ)を新発見しました。
通常便12便はここまでです。見ていただきましたように大阪局の通常便・小包便(補助便)ごとに市内局の通常便・小包便がくっついています。
繁雑で配達便の復元まで手が廻りません。何とか興味を引きそうなエンタを3リーフ作っています。
引受・到着時刻の逆転葉書です。このあと横濱・長崎でも同様のものをご覧いただきます。
後の2リーフはフレームの穴埋めながら博覽會局の結束がほぼ判断できます。定数も予算も不十分な中で拵えた臨時局です。しかも大阪局までは距離があります。
天王寺地域は難波局の管轄ですので、大阪までの逓送を難波にお願いしたのかと思っていましたが、大阪中央の着印時刻を見るとそうでもなさそうです。
第4フレームは横濱です。エンタが多く1フレームを占拠してしまいます。
当時の横濱駅は東海道線から外れた支線のターミナルでした。この時期の神奈川駅が現横浜駅になったのは関東大震災後らしいです。図の横濱駅は現桜木駅です。
東海道線で郵便を大阪・神戸に送るのは平沼駅への受渡便が必要でした。
ただ、新橋横濱両駅間は55分で到達でき鉄郵印も第十便まで残存しています。それ以外に護送便があったのかは不明です。
第1便は前6/前6.30の2種ですが、本池さんが詳説の中で指摘しておられたうち、半分ほどは解明できました。
2段目左の2枚の貼る位置が逆です。出展締切日に追われて焦って貼りました。
右の青枠は新橋まで運ぶのにわざわざ遠い平沼駅まで行った例です。新橋=横濱間は27本/日もあるのにです。受渡便は、当然神戸からの郵便を受取りますから渡す郵便があっても不思議ではないのですが、最速達経路選択の原則を律儀に順守している姿が偲ばれて、好きなエンタです。
発着時刻逆転葉書です。情けない姿ながら横濱第1便に時刻順接はあるのかなど課題を与えてくれます。
この辺りから未収が目立ってきます。
丸二と欧櫛試行印との共演です。
下の「横濱冩眞」絵葉書は実逓です。MM汽船の船員さんが、香港やマルセイユで大量に売りさばこうと自分宛に沢山出した葉書のうちの一枚。それ故宛名欄は欧文のみで、把束で配達され邦文宛名の青書きは最上部の1枚だけです。
東京=下諏訪間の鉄道が開通するのは明治38~39年です。これも締め切りに追われて、36年時点の鉄道の結束は調べられず仕舞でした。
青枠葉書の名宛人は、横浜で「船舶屋」と呼ばれた欧米客船相手の切手・絵葉書商です。文面は絵葉書卸元への返品要求。フレーム最下段の和田小太郎が差出した葉書宛名と同一人物です。
芝口で15時に出した葉書が19時には横浜で配達されているスピードぶりです。
第11便時刻が押された着印エンタですが、2度配達されています。「山下町24 ゲルフ方ベック」宛ですがゲルフが「ベックという者は居ない」との趣旨でポストに投函、局はぶち切れることなく丁寧に付箋を付けて再度配達、本人に確認の上差出人戻し ―面倒な話です。
和田小太郎差出しの葉書。既に「雨龍」やら「墨六」などの愛称が生まれ、小雨龍ホは珍重されていたことが分かります。平均単価=66銭/枚。あくどい商売です。文面の文字は殴り書き気味なれど言葉遣いは士族風…。鎌倉幕府侍所別当和田小太郎の末流ではとあらぬ事まで考えてしまいました。
もの好きな方のために文面と「並べ版」とのスキャン画像を上げておきます。
2222*1424pic
2020*1449pic(出典はDelcampe)
次の3リーフも穴埋め。コルヴィザール男爵さんです。
明治33年の来日当時から、長女のSolangeさんを秘書代わりに連れてきています。父君に感化され郵便(切手)収集に励んでいました。二人目の子供が跡継ぎ息子Didier ―この名前はCorvisart家開祖の名前でもありますが、男爵の滞在途中からやって来て長崎の海星校で寄宿生活を送っています。
下の封筒は男爵とSolangeさんとの合作。特徴のある金釘流とまる文字。明治33年8月ですので、丸二エンタではないのが残念。
お嬢ちゃんの角印は初見です。父親からもらった絵葉書に蔵書印みたいに使っています。(左下の写真はお国で男爵が誂えた写真絵葉書)
上の御曹司宛ての葉書は、もらった手紙へのお礼くらいまでしか読めません ー靑島俘虜郵便に凝っていたころはもう少し読めたと思いますが2年たつときれいに忘れてしまいます。年のせいです。
最終フレームは神戸・長崎です。
本筋の差立時刻復元とは無関係ながら軍事郵便は差出人所属が「第四軍乙兵站」で引受印が「第一野戰局」です。
甲乙も第一第二も設置順でしょうから、第一野戰局は第四軍司令部に随伴して兵站線の先端まで移動し、司令部付近に設置した兵站は乙と名付けた ーと考えられます。
通常便に小包が混じるのは珍しくありません。むしろ逆で、一回の差立で捌ききれないときに補助便が差立てられるのです。
実務的には、郵便受取所・無集配局から取集した小包を補助便に廻し、神戸局窓口引受を通常便差立に乗せた ーといったところでしょうか。
長崎局です。
本池さんが「長崎=本博多局間は片便」と詳説に書いておられるので、解釈に苦労しました。
明治33年郵便取扱規程§99は「片便ハ始點局ヨリ遞送人ヲ差立…極端局ニ遞送ヲ爲サシムルモノトス」とあり、持ち帰り郵便物のあるものは持戻便と定義されています。
地図と睨めっこすること一日、ひらめいたのがリーフ上部の概念図です。①長崎局を出発した逓送便はまず本博多局に立寄ります。ここまでが長崎局仕立ての本博多局宛片便です。ところが逓送人は長崎駅までの受渡便も運んでいます。つまり片便兼受渡便です。 ②本博多局で半分荷物を降ろし身軽になった逓送人は長崎駅で鉄道便を全部渡します。 ③引き換えに長崎宛の行嚢を貰いますが、駅駐在の長崎局員が本博多局分と長崎局分とに分けて渡してくれます。 ④逓送人は再び重い荷物を引いて(担いで)本博多局で同局宛の行嚢を渡します。(②~④は純粋の受渡便) ⑤引き換えに本博多⇒長崎局の行嚢を貰い長崎局に戻ります。(片便兼受渡便)
こう考えると三者の位置関係から合理的で「片便」も無矛盾に説明できます。これを思いついたときはユリイカーッ!でした。
右の軍衙証明印付き軍事郵便は本物だと嬉しいのですが、どうも軍政署の将校が手近の印を押して間に合わせたもののようです。赤インクは稟議書の手直し(=将校の仕事)に常時使っていたもので、全部手近なもので間に合わせたナマクラ葉書です。
この長崎=本博多局間を何度も往復した迷子郵便もNo.73リーフの片便で説明できます。長崎市の地名に十分熟達していない局員が駅で「知らない地名は全部本博多局へ」くらいの気持ちで仕分けしたと思われます。
地図でお分かりのように長崎局は市の門番みたいな位置に有ります。市内の中心地を受け持つのは県庁の北に位置する本博多局です。市内の事は長崎局より熟知していたことでしょう。
何とか5フレームをそれらしく埋めることができました。作品提出の締め切りに追われてのやっつけ仕事の部分もありますが、数年間温めてきた逓送結束の研究に関しては付け焼刃ではありません。
採点基準がトラッド向けに構成されているのは仕方ないにしても、幾許かの不満は消え去りません。
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