2023年12月18日月曜日

爲替取扱所・郵便受取所の為替事情( JAPEX2023出展リーフ反省記)ー第1フレーム

先日開催のJAPEX2023への出展リーフです。郵便電信局・郵便局に対して受取所の果たした役割を個別に見てみようとした展示です。

明治憲法の施行で予算総計主義が確立し、明治23年度から郵便局の受け取る手数料も全て郵便切手で支払うこととなります。為替手数料は切手を縦書為替印で消印するようになりました。この年度から郵便受取所制度の消滅した明治37年度末までをこの展示の対象としています。

この期間は偶々、日清戦争賠償金によって松方財政が結実、念願の金本位制が確立し経済が急激な発展を遂げた時期に合致します。

第一次大戦の期間にはさらに大きな波が来ますが、それはさて措き人口は1.2倍程度の増加に対して国民総支出は3倍以上に膨れ上がっています。国民一人当たり3.2倍の成長です。


このような状況下で遠隔地間の決済のうちリテール部分をほぼ全て担った郵便為替制度の一部として縦書為替印を眺めると、マルコフィリーとは異なる面白さがあります。

とりわけ官業の民間委託である爲替取扱所・郵便受取所は、その営業主が相応の利益を見込んで為替の取扱を開始したはずです。

一般には郵便受取所が為替も取り扱ったと認識されています。間違いではないのですが、為替の受払に必要な準備資金のことを考えると「貯金預所」にその起源を求める方が納得できます。

貯金預所も爲替取扱所も所管局から支払い資金は預かっていますが、超過した額は自己資金で立替えた後、局が利子をつけて補償しています。相応の自己資金が無いとできない業務でした。

この展示では爲替取扱所・郵便受取所・貯金預所を「受取所」と総称していますが、開設の由来を見ると、

   市街地の中心部や繁華街、駅や港の近傍に開設された「コンビニ的な受取所」

 - 為替・貯金の扱い量は市の経済規模に比例し大きい。

    市内の南北など、地理的に局と住み分け分業している場合が多い。

    局の無い郡部の村落や都市の郊外に開設された「局に代替する受取所」

   - 生活圏域の経済規模が小さく、為替・貯金の扱い量も額も小さい。

    為替以外の業務=郵便・貯金が開設の主目的となる。

に大別できます。

この時期は、全国の管轄局から詳細な統計書が刊行されており、国会図書館のサイトでコピーを見ることができます。

局・所ごとの為替の振出と払渡との口数・金額が一の位まで掲出されています。しかし全部は残存していません。

これを補完するのが各県が編纂した統計書ですが、これも完全には残らず、また県ごとに粗密があります。

私の住む京都府では、府立資料館(京都学・歴彩館)に国会図書館にはない京都郵電局の統計書が残っていました。

これらの史料を基に県別・局(所)別の為替取扱数を円グラフで示しました。

比べると一目瞭然、①と②とに峻別されました。

この作業を全国的にやってみるのが今回の展示です。

まず五大都市のうち、東京市から。






















銀座受取所が、神田支局を抜いて2位に躍り出ています。

いきなり卑近な話ながら、リーフに示したグラフはできるだけ為替の振出口数を入れるようにしています。

この口数の比率=それぞれの局・所別の消印残存比率です(近似的に)。確かに銀座や神田はよく見かけます。

第3リーフの霊岸島東湊町は27年2月1日から為替を始めましたが、悩ましいことにこの日に為替を開始した複数の受取所には年型の見つかったところと月型しか見当たらない所とがあります。

第3フレームの郵電局為替印の形式分類でも展示していますが、大郵電から小郵電に切り替わる日付が22年12月1日で重複しています。

尾張の熱田郵電局はこの日から為替業務を開始して大郵電、方や同日に為替を始めた越中泊町は小郵電が支給されています。遞信省が町のはんこ屋さんに縦書印を発注した日付の違いです。

同じことが27年2月1日にも起こったのでしょう。ただそれを証明するデータが手元にありません。致し方なく年型をブランクで展示しました。













赤坂局は局舎も敷地も狭かったようで、リーフに書き込んだ間口・桁行は図面から起こした寸法です。この建坪ですと郵便や小包の区分け作業場所を確保するのが精一杯だったと思われます。

このために二つの受取所が局窓口の代わりを務めさせられたという変則局です。中でも一ツ木が中心で、縦書印の押印回数も多くなり印軸の更新も頻繁になった次第です。













本郷森川町は帝大赤門の真向かいに開業しています。






















3枚のリーフはエンタを入れたために冗長な印象になりました。













東京の最終リーフはいわゆる「下町」です。商取引が少なかったわけではないはずです。淺草は大金の動く吉原があり深川は木場で大きな額の材木取引がありました。

ただそれらは「遠隔地間のリテール決済」ではなかったというだけです。

次は京都市です。













各受取所のうち、その性格を最も顕著に現しているのが六條です。東側に法華宗の本圀寺と東本願寺(本願寺派)、西側に西本願寺(大谷派)を擁し全国の末寺や教務所からの冥加金を受け取っていました。













京都は本局以外では五條支局が最大の為替取扱量を誇っています。東に清水焼の窯元群、北に京扇子の製作地があり両者の内訳は不明ですが、大層な黒字局でした。

このため印軸の更新回数も多く年型と月型とが逆転交差する賑わいぶりです。

また後期に伏見・七條の両支局が出現しますが、リーフに書き込んだとおり郵便業務合理化のための開設局で為替には影響はありませんでした。

上述の「京都郵電局統計書」発見で「良いリーフができた」とうれしがっていましたが、後で考えると実証には不十分で、振出者/受取者のわかるエンタが無ければ仮説の域を出ないことに気づきました。

切手集めは学問でも芸術でもなく唯の道楽に過ぎませんのでどうでも良いようなものですが、郵便史の手法に限っては歴史学、考古学、経済学のそれと同一の厳密さがなければいけません。

次の神戸市については兵庫と神戸とが旧湊川を挟んでそれぞれ別の地域であったことに留意しながら各受取所の特色を見たつもりではあったのですが…













右下の円グラフは明治38年のデータから29年以前開設の受取所だけを抜き出して比率を求めるという間の抜けたことをしてしまいました。

やはり、全局・所を旧神戸と旧兵庫とに分けてその地域性を見るべきでした。













兵庫局は謎だらけです。郵便も神戸との間に交換便があったかどうかさえ解明できていません。横濱の神奈川局のように一般の集配局同士の差立便が存在しただけと見る方が正しいような気がします。

丸二印で横濱や神戸の文字をあれほど毛嫌いしたのはその独立心に発するものと考えています。

大阪に移ります。































順慶町と船塲局とは300mしか離れていません。リーフに両局・所の為替扱い量の比較を入れていますが、順慶町の払渡量が船塲局の倍近くあるのが気になります。

為替の受取人は問屋の町船塲の商店なのか頻繁に令達される憲兵隊本部への公金なのかこれも内訳が不明です。

ちなみに明治29年には、この憲兵隊本部の管轄は近畿・岡山・鳥取となっています。

横濱です。




















リーフのとおり、横濱の中心地から外れた郊外地に開設された局代替の受取所で、郵便の取り扱いが主な業務と思われます。

横濱局から南東に延びる居留地の郵便局利用者は外郵課のある本局に行ったはずです。吉田局のある地域は邦人商店街ですが、縦書印も丸一も見つかりません。

移転前の梅ヶ枝局も移転後の福富局も同様です。リーフの書き込みどおり明治26~28年のデータが消えています。唯一切手売下額のみが記載され、貯金は吉田局の項目はあるものの預・払ともに額の記載がありません。

この時期の遞信省職員錄には支局長以下各職員の氏名が掲載されていますが、支局長はこの3年間、毎年氏名が変わっています。

真相がわからず、リーフでは「開店休業」状態としましたが今後の研究課題です。

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