2016年5月25日水曜日

青島俘虜郵便‐大阪収容所                              Die Kriegsgefangenenpost Tsingtau                                 - Das Osakalager                               Vizefeldwebel Heinrich Müller  Gef. -Nr. 4561

今日は大阪収容所です。
ここ何度かの投稿は、収容所のロケーティングに凝っています。

チンタオ・ドイツ兵俘虜研究会さんのサイトでは、
「西区恩加島町の府警察部衛生課管理隔離廠舎に開設」、

タカハシスタンプさんは
「大阪市西区南恩賀島町(木津川下流)の大阪府警察部衛生管理隔離廠舎が利用された」
と書いておられます。

「隔離廠舎」と言われているものが本当はどんな名称だったのか気になりましたので
ネットで調べると、『「ユーハイム」を歩く』というサイトに行き当たりました。

現地訪問までしておられました。「隔離所」と呼ばれたそうです。

菊切手の発行された明治32年以来、大阪は幾度かペストに襲われています。

府が明治413月に西区南恩賀嶋町に開設した「大阪府立木津川隔離所」というのが正しい名称です。

この翌年、明治427月の末に大阪は大火に見舞われます。
このときも隔離所が罹災者の避難所になっています。

どんな施設かと調べますと、ありました。








































明治423月発行の「大阪府百斯篤流行誌 巻二」の計画平面図です。
「大阪府木津川隔離所」と書かれていて「立」の字がありませんが、明治434月の「大阪市大火救護誌」では「大阪府立木津川隔離所」です。
(※ 上掲の両書はいずれも近デジ)

地方自治法で定めている「公の施設」は(設置者名+立)を冠し、その他の行政機関の名称には「立」を附さないこととされています。
(例: 京都府立〇〇高等学校⇔京都府〇〇保健所)

施設の名称に、明治時代からこんなルールがあったのか否かまでは知りません。
ただ、元木っ端役人としては「立」の有無が気になった ―というだけです。

上図は計画図です。竣工図は見つかりませんでしたが、大正元年発行の2万分の1測量図はこうなっていました。











ともあれ左様な由来の施設です。アジ歴ではペスト流行の再発に伴い大阪府から施設の返還要求がなされたとの史料をみることができます。


































































Jacar-RefC03025301300
結局このときの流行は幸い大きくはならず、杞憂に終わったようです。

さてリーフですが、大阪収容所の初期に見られる二重丸の俘虜郵便印。
大阪には、後期に見られる(ごく稀にデス)差出許可切手と呼ばれるシールもあって、そちらの方が難関です。

差出人は、Der  Landsturm 「国民軍」と訳されています。「義勇軍」の意味ですが、自発的な参加なのかどうか怪しいのは、万国共通。

御本人さんも非戦闘員であるとして解放願を出されたそうですが、アジ歴を探しまくって見つからず仕舞です。(ちょっと悔しい…)

国民軍は俘虜の中でも100名程度。若くない方が多いと思っていましたが、そうでもないようです。
この方、戦闘参加時は約30歳。

俘虜の内訳は、
III.S.B.が2,300
M.A.K.1,100
O.M.D.400
国民軍は大した戦力ではありません。

奥さんと息子さんとを靑島に残して気がかりですわな。
港に面した大通りにお住まいだったようです。

靑島郵便局員が薄墨で書いた「徒牛」が判りません。
日本軍駐留後の地図を眺めて「囚禁所」 ―多分これだろう…。(徒牛=徒牢)
1枚ン千円もするだけあって、随分時間をかけて楽しませてくれます。





































































【自己評】絵葉書に特化したコレクションのつもりが、このエンタの場合、葉書裏の写真に大きな意味はありません。
ひょっとしたら、こんな感じのリバーサイドラーゲリだよ―と奥さんに言いたかったのかも…。

2016年5月11日水曜日

青島俘虜郵便‐久留米寺院収容所(来日俘虜第1号)                        Die Kriegsgefangenenpost Tsingtau                                 - Das Tempellager (Kurumeamt der Otanischüle)                                  Gef. -Nr.513 Paul Iserlohe

初期の収容所は、下調べに骨が折れます。
今日は久留米寺院収容所。

梅林寺と大谷派教務所とに分けて収容された ― まではすぐに分かりましたが、それどこ?
となるといきなり大変でした。

梅林寺は今もその姿を拝めます。ところが、大谷派教務所は日吉町ということしか手がかりがありません。

日吉町で大谷派のお寺さんは、順光寺。後はこの頃の地図に「眞宗九州中學」というのを日吉小学校の東隣に見つけています。

久留米市教委の文化財保護課さんが一昨年収容所にまつわる展覧会を開催されたようですのでメールでお伺いしようかとも思いました。

何でもかんでも聞くというのも癪です。執拗に調べると、電網恢恢です。近デジで久留米市誌に記載があるのを見つけました。





































最後に残るのが、収容所本部の位置。
これは、今も判りません。

タカハシスタンプさんのブログでは、「久留米教務所近くの本部事務所(借用民家)」との記載があります。

アジ歴では、大正42月の植田謙吉少佐の視察報告に「下士卒収容寺院對屋」との記載があります。(※Ref-C03024453500

梅林寺からは既に撤収し、香霞園・高良内・大谷派教務所の時代ですが本部事務所の位置は変わっていません。

ただ具合の悪いことに、教務所のお向いさんは日吉神社。
境内の一部が民家であったのか、教務所の門が北か南を向いていたのか不明です。

上掲の報告書では植田少佐一流の細部へのこだわりで、俘虜の部屋より本部事務所の方が貧弱だとか、俘虜に日本語を教えるのは害があるとか好きなことを書き散らかしてます。

それはともかく、収容所開設当初は初めてずくめ。慎重に事を進めています。
大正310月には「衛兵服務規則」(アジ歴Ref-C14060954400)を作っていますが、そこに職員の一覧までありました。






































こんな詳細なものは、他の収容所ではあまり見かけません。
山本茂中尉は、検閲印でおなじみの御方。

或いは、赤司大尉が住所にしているところが本部事務所だったのかも。

しかし、これらの記録は厳密さに欠けているところも散見されます。

(例1
留守第18師團長から陸軍大臣への収容所開設報告では、「104日開設」、「下士宿舎 日吉町大谷派布教所」と書かれています。

(例2
陸軍省から留守師団への俘虜収容の通牒は
「中少尉各1、下士9、卒44」ですが、
同師団からの復命では「将校2、見習士官1、下士10、卒42」。
総数は一致しています。

彼我の階級比較は難しいです。戦時の混乱中のことでもあり、武官だからということもあるのでしょう。

リーフですが、ドイツからの到着便でどうもフィアンセか恋人からのようです。
Schmidt名簿にも頻回の手紙のやり取りが記録されています。
 ※ 以前にもこの方の名簿は引用していますが、誤って"Schmitt"と綴っています。訂正します。





































































【自己評】あれこれと調べ始めるとすぐにカレンダーが進んでゆきます。
私の性分に合っています。楽しいですが、面倒です。

2016年5月4日水曜日

青島俘虜郵便‐松山収容所その2                        Die Kriegsgefangenenpost Tsingtau                                 - Das Matsuyama (Dairinji) Lager                                  Gef. -Nr.2866 Johann Freyenhagen

前々回の板東の投稿で、「1収容所1リーフ」と書きましたが手元に大林寺の絵葉書があったので、忘れないうちに片づけてしまいます。

俘虜の誰かさん作成の平板測量図のお陰で、どこからどの方向を撮影したのか一目瞭然。
誠に結構な回遊式の庭園です。

17人のうち、どの方がFreyenhagen兵曹さんやら判り兼ねますが寛いでおいでの御様子。

階級の「Obermaat」は兵曹/曹長などいろいろな訳がありそうです。陸軍の兵隊の位で言うと伍長さん。

所属中隊も、チンタオ・ドイツ兵俘虜研究会のサイトではM.A.K.1中隊」ですが、Schmitt名簿では「突撃中隊」。多分同じなんでしょう。

折角、お住まいの様子が判る写真ですので、部屋の広さも調べました。収容所日誌(Jacar.Ref-C10073195300)に詳細に残っています。

大林寺に限らず、山越・公會堂ともに2畳/人の広さを確保しています。
折り畳みベッドを持ち込んでいたそうですので、布団と同様に昼間は多少なりとも広く使えたのでしょう。
それでも広い本堂などは夏の暑さは…。

この方、シュレスヴィッヒ=ホルンシュタインの御出身で、早期解放されています。

私も知りませんでしたが、民族自決主義に基づいてデンマーク/ドイツへの帰属を決める国民投票があったようで、デンマーク赤十字の要請で同州出身者は早期解放。
(ただし、解放後にドイツ国籍を取得しないという条件付き。)

収容所日誌に目を走らせていますと、やはり3箇所に分散というのは大変だったようです。
前回の山越地区は、町はずれということもあり、「怪しげなる婦人が住まいし」と報告されています。

そのお陰で、性感染症で入院する俘虜も数名いたようです。
律儀な国民性とは言え、若い男性ばかりです。

前回の山越に配置された新婚軍曹さんも、上海に荷物を送る際に箱の二重底が見つかって20日間の重謹慎を課されています。

やはり兵隊さんたちは、当然に反抗心もあったのでしょう。

リーフです。




































































【自己評】山越と重複するような押印の表示は省略してみました。面白そうな(と言えば失礼ではありますが)事項だけをリーフに書き込むというのも、やってみたかった…。