2015年11月26日木曜日

丸二型日付印 ‐ 神戸 三宮局/和田岬檢疫所内局

今朝の新聞に原節子さんが9月にお亡くなりになっていたとの記事が1面トップで出ていました。
日赤75年記念のモデルでは ―とのうわさが今でも聞かれます。

日本切手ナンバーワンの美人だけに、私もいろいろ調べたことがあります。何かの機会にどこかで公開したいと思いながら温めています。

とまれ、御冥福をお祈り申し上げます。

さて、神戸支局(市内局)の続きですが、三宮のリーフづくりは見事にスベッてしまいました。
何分にも手元のマテリアルが少なく、並べただけのアキュムレーションリーフになっています。

年別に1枚づつ、それから午前の時刻データが少ないようなので手に入ったものを並べてみよう…
殆ど思想性の感じられない駄作です。





































































さて、もうひとつは難関です。
和田岬檢疫所 ―年表を拵えて初めて、「戦後」の局であることを実感しました。

近デジの「明治三十七八年戦役検疫誌」で見ると、和田岬檢疫所は検疫人数が148千人弱。
これに対して大里檢疫所は402千人、似島檢疫所が663千人。

大きな役割は果たしていないように見えますが、将兵の帰還がピークに達する明治3811月から翌年2月までの4箇月で見ると、似島299千人、大里152千人、和田岬135千人(いずれも検疫人数ベース)と頑張っています。

遅れて設置された和田岬司令部内郵便局についてですが、第10師團は空港で言えばさしずめ管制塔の役割を果たしていたのでしょう。

それにしても、両郵便局は300メートルほどしか離れていません。しかも両局とも2等局です。
告示では両局ともに郵便・電報の配達はしないとのことですが、時刻入りもどこかにはあるのでしょうか。

-----------------------------------------------------------------------------------------
さてここで、恒例になってしまった「お詫び」です。
大阪の丸二で「大阪停車塲内」について、「日本郵便印ハンドブック」の悪口を書いてしまいました。
「丸一印が使用された」との記述に対して、根拠が不明である旨のクレームを付けたのですが、有りました。

http://www.geocities.jp/m_nari/maruichi/maruichi/v-nichiro.html

私もほぼ毎日お世話になっている「明治の全郵便局所沿革(CD-ROM)」の作者成田さんのサイトです。

したがって、大阪停車塲内局の丸二は存在しないことになります。
日露戦争臨時局で丸二を使用したのは和田岬檢疫所内局だけで、他の局は丸一⇒櫛型のパターンということになります。

(お詫びついでに、リーフ下部の年表で宇品碇泊塲局の櫛型は11日からの使用開始ではなく明治392月中です。他の局も11日付けの印影は確認していません。)
---------------------------------------------------------------------------------------------

なお、和田岬にあった両局の消印は「Stampedia Philatelic Journal 2012」で完影を見ることができます。
(今年、ジャパンでも兄弟カバーが売り立てられましたが負けました。)





































































【自己評】和田岬司令部内の印影は半欠けでもラッキーな入手。Delcampeも最近は日本からのバイヤーさんが少しづつ増えてきて、「草刈り場」ではなくなってきていますが、何十枚かの使用済みロットの中にこんなものを見つけるのは、セミプロのディーラーさんでは難しいでしょう。

まあ、逆に誰でもわかるような貴重マテリアルは手を出しにくくなってきています。仕方ありません。日本切手が高値になることが多ければ、出品も多くなるでしょうし将来の楽しみが増えます。

2015年11月14日土曜日

丸二型日付印 ‐ 神戸 神戸郵便電信局兵庫支局/兵庫郵便局

今回から神戸シリーズですが、神戸はマテリアル不足のためスキップします。
いくつか未発表の時刻も有りますが、それだけで納得のゆくリーフ作りはできません。
内心忸怩たるものがありますが、しゃーないです。

いきなり支局からです。
縦書(為替印)ではさんざん苦労させられた兵庫支局ですが、丸二印でも印軸の更新やり放題。
揚句、御禁制の縦書為替印を明治354月まで引き延ばして使用するという傍若無人の振舞い…。







































それでも、花の神戸の中心地 ―何故か愛着が湧きます。
自ずと収集にも力が入って、何とか満足できるところまで来ました。

勿論、素人としての水準での話です。専門家ならあと12リーフはブランクなしで拵えなければならないでしょう。
道楽も厳格に楽しもうとすると険しい坂道みたいになります。





































































丸二印の電信使用は多くありません。東京局と大阪局とでは丸二を使わず、専用の丸一電信印で対応しています。
これは、単に交付を受けた丸二型の印軸が少なかったというだけのようです。

返って支局の方が電信事務にも使えるほど印軸数に余裕があったのでしょう。

明治36年の5月と7月のデータを持っていますが、「神戸」を磨滅のように見せかけて半分削った印影は、意地らしくもあります。

本池さんの教科書では、新たに拵えた(「神戸」抜きで)「兵庫」だけ表示の新活字を明治3810月頃の出現としておられます。

今回、私自身もリーフの書き込みをするまで気がつかなかった最初期データを併せて御覧いただきます。

明治3879日に既に使用されていました。
この「兵庫」だけの印軸には愛称を付けたいような気がします。

本池さんは「新活字」と呼んでおられました。私個人の趣味で言えば「大兵庫」 ―いや、もとよりこんなしょーもないことを声高に主張するつもりはありません。

それにしても、よく本省通信局でこんな局名表示を許可したものだと思います。
根拠は判らず仕舞いですが元から「神戸」を冠しない「兵庫」局だと言われれば、仕方なかったのかも。





































































【自己評】頼信紙は売り下げ時の裁断が乱暴です。リーフに貼ってから気づいたのですが、一旦直角に切った台紙に貼ってからリーフに貼ったほうが見栄えが良かったですね。
もうひとつ、今まで書き込んできた丸二型使用時期の局の年表を入れ忘れています。
「よっしゃ、でけた~」だけで貼り込んでしまわずに、一日二日温めておいた方がミスは少なくて済むのですが…。

2015年11月7日土曜日

丸二型日付印 ‐ 横濵 長者町局/櫻木局                     附 横濵郵便局 補遺―8分環

前回投稿から間があきました。長者町局と櫻木局とです。
今回の投稿タイトルは局種を付けずに局名だけにしました。

櫻木局は、明治37年に無集配の郵便局に改定されるまでは丸二型は使用されなかったようです。
丸二時期の局の呼称は「横濵櫻木郵便局」のみで変化はありません。

後期の使用開始ということもあり、印軸は8分環のみしか目にしていません。

長者町局はやっかいです。丸二型を使用した期間に
横濵郵便電信局長者町郵便支局 ⇒ 横濵郵便電信局長者町支局 ⇒ 横濵長者町郵便局
と三とおりの名前があります。

しかも、郵便支局としての使用期間は最も多く見積もっても5日間。

印影には何の影響も有りませんが、初期使用でもあり何としても入手したいものです。
8分環の使用は不明です。(確定できるような印影を持っていません)







































































もうひとつ、大事なお知らせです。
先の投稿で横濵局の8分環は無いかもしれないと書きましたが、見つけました。

しかも、結構早い時期の使用データです。



































こういうときのエンタはありがたいものです。全影が出ます。
差出は前にも登場した合名會社茂木商店 ―裏判も前回のと全く同じ。

宛先の七曜星社については、リーフには地元の商業紙と書いてしまいましたが、共同出荷組合だったようです。

時刻無しの25錢の方は縦に裂けています。接合が下手なのではなく、消印の印影を合わせるとこうなります。(― つまり裂けた切手を式紙に貼って使った)
もとより疵切手ですので、リーフに貼るべきではないのですがこれしか持っていません。





































































【自己評】いずれにしてもデータの少ないのは、どう捻くり廻してみても面白くありません。
こういう数少ない局を沢山集めるのが、私のような素人と本物の大家との差なのでしょう。
まだまだ精進せねばなりません。