同一日に二つ投稿するのは初めてですが、予告どおり横濵の支局も御覧いただくためです。
最初から難問です。
神奈川支局は丸二の使用以前から表題どおり「横濵郵便電信局神奈川支局」として営業していました。
ところが、通信官署官制施行日以降は「横濵神奈川局」ではなく「神奈川局」に改称したようです。
告示は見つかりません。
神戸の兵庫局も同様に、よく分からない理由で「神戸」を削っています。
しかも、知られているデータは多くありません。やっかいです。
リーフに貼った茶1銭の「35 -4 -9」が今のところ最初期データらしい…。
したがって、ほとんど書くべきことがありません。
仕方ないので、あと1リーフ見ていただきます。
横濵局とのコラボエンタですが、見るからに小汚い葉書 ―。
ただ、薄いながらも変な時刻表示の組み合わせです。
どうしたら、こんな組み合わせになるのか考えてみました。
両局の距離から、横濵局の時刻は少なくとも1時間以上の経過(=早くとも「前 7 .30」くらい)が必要です。
推理をリーフに書き入れてみましたが、まず常識的な判断としては
「一つのデータだけでは推定できない」
ということでしょう。
先の「横濵」削りと併せて、安上がりに楽しめる推理ゲームとしておいた方がよさそうです。
大阪支局のリーフをまねて支局地図を拵えてみました。
神奈川局だけが離れています。
もしかして、「郵便区」に関わって「横濵」が削られたのか(富士見橋を町はずれと見做して6間―ちょっと苦しいかな) ― でも兵庫局は神戸局とは離れていない…。
兵庫局は昔から「兵庫」だったから官制改正を機に旧名に復した/兵站基地の和田岬の近くだから神戸局から独立させられた ― いろいろと邪推の悦楽を享受しています。
リーフ2枚です。
【自己評】神奈川の時刻空欄は、全く心配していません。
今年中にかなり埋まるでしょう。今までも何度か見ていますが「値が合わんなぁ―」というのが多かっただけです。
いや、負け惜しみではなく…。
実際、投稿した尻からアップ済みリーフの穴がそこそこ埋まってきています。
(だから、リーフ整理は大事と身を以って知りました)
次回は、残りの長者町と櫻木を予定しています。
2015年10月23日金曜日
丸二型日付印 ‐ 横濵郵便電信局/横濵郵便局 (3)
前回投稿の予告に反して、この投稿も横濵局の続きにします。
横濵局発着の葉書があったのを忘れていました。
居留地内の発着で、御覧のとおり随分あっさりとした宛名書です。
住所は、「N180」。
「N」は山下町のようです。居留地としての山下町の後に設置された山手町(山下町の南側)と区別するために付けた符号と思われます。
葉書の文面もあっさり。今も東京にある「ドイツ語福音教会」の前身から発せられた礼拝の案内です。
興味を持ったのは、礼拝の時刻が「10 1/2」となっていることです。
確かに英語もドイツ語も時刻の表現に "half" , "quarter" を使用しますが分数表記は初めて見ました。
本池さんも丸二初期の時刻分数表示について「このような発想はどこから生まれたのか」と訝っておられます。
でもこれだけでは「 /6」という表記があったことの根拠にはならないですね。まあ、こんな書き方も有った ―くらいなことでしょう。
先述の東京のドイツ語福音教会のサイトを拝見しますと、牧師さん Dr. Hans Haas さんは1909年までお務めだった方のようで、当然葉書の文面と符合します。
礼拝の時刻は、今も10時半からでした。
リーフです。
【自己評】同一局発着の葉書をたくさん集められるとよいのですが、当然限りがあります。判断できるのは、結束や伝送便についての全貌のごく一部…。
多分、午前中の状況はこの先も解明できないかも。
それでも、いくつかのデータが集まれば推測くらいは ―ただの希望です。
横濵局発着の葉書があったのを忘れていました。
居留地内の発着で、御覧のとおり随分あっさりとした宛名書です。
住所は、「N180」。
「N」は山下町のようです。居留地としての山下町の後に設置された山手町(山下町の南側)と区別するために付けた符号と思われます。
葉書の文面もあっさり。今も東京にある「ドイツ語福音教会」の前身から発せられた礼拝の案内です。
興味を持ったのは、礼拝の時刻が「10 1/2」となっていることです。
確かに英語もドイツ語も時刻の表現に "half" , "quarter" を使用しますが分数表記は初めて見ました。
本池さんも丸二初期の時刻分数表示について「このような発想はどこから生まれたのか」と訝っておられます。
でもこれだけでは「 /6」という表記があったことの根拠にはならないですね。まあ、こんな書き方も有った ―くらいなことでしょう。
先述の東京のドイツ語福音教会のサイトを拝見しますと、牧師さん Dr. Hans Haas さんは1909年までお務めだった方のようで、当然葉書の文面と符合します。
礼拝の時刻は、今も10時半からでした。
リーフです。
【自己評】同一局発着の葉書をたくさん集められるとよいのですが、当然限りがあります。判断できるのは、結束や伝送便についての全貌のごく一部…。
多分、午前中の状況はこの先も解明できないかも。
それでも、いくつかのデータが集まれば推測くらいは ―ただの希望です。
2015年10月12日月曜日
丸二型日付印 ‐ 横濵郵便電信局/横濵郵便局 (2) 中宮祠郵便電信取扱所着コルヴィザール令嬢宛の絵葉書
今日はまたこの方のエンタです。
Wikipediaから拝借しました。Charles Pierre René Victor Scipion Corvisart さん。
リーフに貼ったのは、横浜から中宮祠にいる家族に宛てた何の変哲もない絵葉書ですが、この日付は、彼=観戦武官が同道すべき第一軍がクロパトキンを遼陽から潰走させた日です。
騎兵中佐としては、見ておかなければいけなかった戦闘のはずです。
彼がこの大事な時に仕事をほっぽり出して何をしていたのか気になりましたので、この絵葉書の日付前後 ―明治37年中ごろの足跡を既知のカバーのデータで辿ってみました。
結果をリーフ最下段に書き込んでいます。
当時のフランス貴族の風習に従ってヴァカンスです。
この年の7月中旬ころから9月初めまで家族と一緒に中宮祠に滞在していたのです。
フランスからの観戦武官は彼を含めて5人で、彼はサブリーダーの立場です。あとの4人がどうしていたのかは判りません。
なお御本人の名誉のために申し上げますが、男爵はこのあと単身で第一軍に戻られたようです。
(現地から発した12月付の軍事郵便が残っています。)
首都大学東京の高田先生が「中禅寺湖畔別荘地の形成過程と近代日本における外国人建築家と施主の関係性に関する研究」という論文をネットで公開しておられます。
それによると、中禅寺湖畔の夏季はさながら赤坂辺りの各国の公使館全部が引っ越してきたような賑わい。
外交官同士の駆け引きなんかもあったのかも知れません。
その論文から引用して拵えたのがリーフにも刷り込んだ地図です。
明治37年も同じだったとは限りませんが、こんな別荘を独・白・伊・英など各国がそれぞれいくつも持っていたとのことです。
図中の「レーキサイドホテル」は欧米諸国の方々御用達…。
コルヴィザール一家の宿泊先までは判明しませんでしたが、この翌年も中宮祠でヴァカンスを楽しんでいたようです。
ただ、面白いデータではありますがこれを主役にするわけにはいきません。
着印は脇役、横濵局の消印が主役です。
そう自戒しながらもやはりリーフに書き込まずにはいられないので、遠慮して下の方に小さく並べて置きました。
【自己評価】横濵局の時刻「后3 .40」は37年では既知。丸二研究から言えば特に新鮮味はありません。
こんな書き込みをすると、丸二のリーフではなくなってしまうことも承知の上の確信犯。
コルヴィザール研究の域も越えてストーキングまがい ―恐縮の至りですが、私の性格なので仕方ありません。
反省しながら、次回は横濵の支局を見ていただく予定です。
Wikipediaから拝借しました。Charles Pierre René Victor Scipion Corvisart さん。
リーフに貼ったのは、横浜から中宮祠にいる家族に宛てた何の変哲もない絵葉書ですが、この日付は、彼=観戦武官が同道すべき第一軍がクロパトキンを遼陽から潰走させた日です。
騎兵中佐としては、見ておかなければいけなかった戦闘のはずです。
彼がこの大事な時に仕事をほっぽり出して何をしていたのか気になりましたので、この絵葉書の日付前後 ―明治37年中ごろの足跡を既知のカバーのデータで辿ってみました。
結果をリーフ最下段に書き込んでいます。
当時のフランス貴族の風習に従ってヴァカンスです。
この年の7月中旬ころから9月初めまで家族と一緒に中宮祠に滞在していたのです。
フランスからの観戦武官は彼を含めて5人で、彼はサブリーダーの立場です。あとの4人がどうしていたのかは判りません。
なお御本人の名誉のために申し上げますが、男爵はこのあと単身で第一軍に戻られたようです。
(現地から発した12月付の軍事郵便が残っています。)
首都大学東京の高田先生が「中禅寺湖畔別荘地の形成過程と近代日本における外国人建築家と施主の関係性に関する研究」という論文をネットで公開しておられます。
それによると、中禅寺湖畔の夏季はさながら赤坂辺りの各国の公使館全部が引っ越してきたような賑わい。
外交官同士の駆け引きなんかもあったのかも知れません。
その論文から引用して拵えたのがリーフにも刷り込んだ地図です。
明治37年も同じだったとは限りませんが、こんな別荘を独・白・伊・英など各国がそれぞれいくつも持っていたとのことです。
図中の「レーキサイドホテル」は欧米諸国の方々御用達…。
コルヴィザール一家の宿泊先までは判明しませんでしたが、この翌年も中宮祠でヴァカンスを楽しんでいたようです。
ただ、面白いデータではありますがこれを主役にするわけにはいきません。
着印は脇役、横濵局の消印が主役です。
そう自戒しながらもやはりリーフに書き込まずにはいられないので、遠慮して下の方に小さく並べて置きました。
【自己評価】横濵局の時刻「后3 .40」は37年では既知。丸二研究から言えば特に新鮮味はありません。
こんな書き込みをすると、丸二のリーフではなくなってしまうことも承知の上の確信犯。
コルヴィザール研究の域も越えてストーキングまがい ―恐縮の至りですが、私の性格なので仕方ありません。
反省しながら、次回は横濵の支局を見ていただく予定です。
2015年10月6日火曜日
丸二型日付印 ‐ 横濵郵便電信局/横濵郵便局 (1)
今日から横濵局シリーズを見ていただきます。
このリーフを作るに当たってちょっと困惑しました。
今までさんざん書き倒してきた「8分環」が見当たらないのです。
「無いもんは無いねんし、まぁええか」で済ませばよいのですが、でき得れば「無い」と断言したくなります。
そこで、新兵器を導入。
今まで使っていた「VIEW CRAFT」を止め、「SCOTT MULTI-GAUGE」を買いました。
これです。(左画像は従来の愛用品)
私を直接悩ましていたのは、この切手です。
左の画像は一見8分環のような堂々とした風合いがあります。
それでもVIEW CRAFTで測ってみると外径は24mmもありません。
くどいようですが、7.6分環と8分環との違いは外径です。
内径は、活字の互換性を担保するために7分(≒21mm)に統一されています。
模式図のとおりですが、換言すれば7.6分環と8分環とは外枠の厚みの違いに過ぎないということです。
しかしこのわずかな差が、一瞥したときの印象を大きく変えてくれるのですから面白いものです。
さて、MULTI-GAUGEの出番です。
栗3銭の右図ですが、
① まず内径が2.1mmですので、そう測れるようにゲージの位置を決めます。
② その上で外径を見れば、正しく測定できます。
上図の切手についての結論は、「余分のインクが外環の内側に回り込んで外枠に1.5mmの厚みが出てしまった」でした。
これで、「横濵局の印軸には、8分環は多分無いだろう」くらいのことは言う自信がつきました。
さてリーフ作りに取り掛かるのですが、頼りになるのは本池さんの教科書だけです。
明治35年度末までの時刻表示一覧は推測を交えています。
既知の時刻一覧を眺めて目についたのは、「前 6」と「前 6.30」とがどの年度にも出現していることでです。
本池さんは「季節的なことか」と考えておられます。
同日使用の可能性も否定できませんが、とりあえずは「交替現象」としておきます。
※ リーフでは「交代」としましたが、「交替」が正しいですね。
(同日使用の例が見つかれば、丸一で言う「ワ便」ではなく、「イ便」に対して「イダッシュ便」を使ったことになります)
リーフ最下段の時刻空欄は、
8分環が無い≒最終年度まで7.6分環が使われた
ことを示すために並べましたが、ちょっと苦しいですね。
理屈だけは一人前ながら、並べると実力のメッキが剥げます。
でも、半分埋められただけでも上出来と甘い点数を付けています。
ブランクを一つでも減らすためにエンタのリーフを援用します。
35年度の「后 5.40」です。
それだけで終われば心正しいスタディーリーフですが、道草です。
単片リーフでも靑島の独軍少尉を引っ張り出しましたが、横濵ならこの人でしょう。
後の横浜松坂屋になった旧野澤屋さん。
「入九」の屋印は、「2代目茂木惣兵衞が信州から横浜に出てきたときに、蟇口に9銭しか残っていなかったから」というのは後世のこじ付けのようです。
【自己評価】道草とは言いながら、御当地の英雄所縁のエンタ。
このくらいの道草は許される範囲でしょう。
私は、横浜の消印を並べるからには必要不可欠の話題 ―と思っています。
次回も再度道草。コルヴィザールさんに登場願います。
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【追記】
以上を10月6日の午前に投稿しました。
その日の午後に、eBayの落札品が届きました。
届いたロットの中に何とも名状しがたい菊25銭が入っておりましたので、ありのままを御覧いただきます。
8分環と言えなくもない ― 或いは8分環かも知れない ― と言う以外に何も言えません。
外径で24mmに掠っています。
実測で23.6mm~23.8mmほどでしょうか。
消印の日付は38年4月で、使用開始から3年経過しています。
しかも、当時の我が国経済の大きな部分を担った横濵局です。印軸の稼働量も大阪に比すべきほどだったでしょうか。
印軸の磨滅が無かった=印軸の更新が無かったなどということはあり得ないと思います。
或いは「逓信博物館75年史」に記されているとおり、
「最も磨滅しやすい局名も、その度ごとに印軸全部を替える必要はなく、単に局名活字だけの取替えで鮮明となる便利なもの」
だったのでしょうか。
横濵局の8分環の有無についての結論は持ち越しです。
もっと沢山のデータが必要です。
以上、追記しておきます。(10月8日午後)
このリーフを作るに当たってちょっと困惑しました。
今までさんざん書き倒してきた「8分環」が見当たらないのです。
「無いもんは無いねんし、まぁええか」で済ませばよいのですが、でき得れば「無い」と断言したくなります。
そこで、新兵器を導入。
今まで使っていた「VIEW CRAFT」を止め、「SCOTT MULTI-GAUGE」を買いました。
これです。(左画像は従来の愛用品)
私を直接悩ましていたのは、この切手です。
左の画像は一見8分環のような堂々とした風合いがあります。
それでもVIEW CRAFTで測ってみると外径は24mmもありません。
くどいようですが、7.6分環と8分環との違いは外径です。
内径は、活字の互換性を担保するために7分(≒21mm)に統一されています。
模式図のとおりですが、換言すれば7.6分環と8分環とは外枠の厚みの違いに過ぎないということです。
しかしこのわずかな差が、一瞥したときの印象を大きく変えてくれるのですから面白いものです。
さて、MULTI-GAUGEの出番です。
栗3銭の右図ですが、
① まず内径が2.1mmですので、そう測れるようにゲージの位置を決めます。
② その上で外径を見れば、正しく測定できます。
上図の切手についての結論は、「余分のインクが外環の内側に回り込んで外枠に1.5mmの厚みが出てしまった」でした。
これで、「横濵局の印軸には、8分環は多分無いだろう」くらいのことは言う自信がつきました。
さてリーフ作りに取り掛かるのですが、頼りになるのは本池さんの教科書だけです。
明治35年度末までの時刻表示一覧は推測を交えています。
既知の時刻一覧を眺めて目についたのは、「前 6」と「前 6.30」とがどの年度にも出現していることでです。
本池さんは「季節的なことか」と考えておられます。
同日使用の可能性も否定できませんが、とりあえずは「交替現象」としておきます。
※ リーフでは「交代」としましたが、「交替」が正しいですね。
(同日使用の例が見つかれば、丸一で言う「ワ便」ではなく、「イ便」に対して「イダッシュ便」を使ったことになります)
リーフ最下段の時刻空欄は、
8分環が無い≒最終年度まで7.6分環が使われた
ことを示すために並べましたが、ちょっと苦しいですね。
理屈だけは一人前ながら、並べると実力のメッキが剥げます。
でも、半分埋められただけでも上出来と甘い点数を付けています。
ブランクを一つでも減らすためにエンタのリーフを援用します。
35年度の「后 5.40」です。
それだけで終われば心正しいスタディーリーフですが、道草です。
単片リーフでも靑島の独軍少尉を引っ張り出しましたが、横濵ならこの人でしょう。
後の横浜松坂屋になった旧野澤屋さん。
「入九」の屋印は、「2代目茂木惣兵衞が信州から横浜に出てきたときに、蟇口に9銭しか残っていなかったから」というのは後世のこじ付けのようです。
【自己評価】道草とは言いながら、御当地の英雄所縁のエンタ。
このくらいの道草は許される範囲でしょう。
私は、横浜の消印を並べるからには必要不可欠の話題 ―と思っています。
次回も再度道草。コルヴィザールさんに登場願います。
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【追記】
以上を10月6日の午前に投稿しました。
その日の午後に、eBayの落札品が届きました。
届いたロットの中に何とも名状しがたい菊25銭が入っておりましたので、ありのままを御覧いただきます。
8分環と言えなくもない ― 或いは8分環かも知れない ― と言う以外に何も言えません。
外径で24mmに掠っています。
実測で23.6mm~23.8mmほどでしょうか。
消印の日付は38年4月で、使用開始から3年経過しています。
しかも、当時の我が国経済の大きな部分を担った横濵局です。印軸の稼働量も大阪に比すべきほどだったでしょうか。
印軸の磨滅が無かった=印軸の更新が無かったなどということはあり得ないと思います。
或いは「逓信博物館75年史」に記されているとおり、
「最も磨滅しやすい局名も、その度ごとに印軸全部を替える必要はなく、単に局名活字だけの取替えで鮮明となる便利なもの」
だったのでしょうか。
横濵局の8分環の有無についての結論は持ち越しです。
もっと沢山のデータが必要です。
以上、追記しておきます。(10月8日午後)
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