以前に、東京局について丸二型日付印使用時期の電信業務やら電話業務の消印(=丸一電信/電話印)を御覧いただきました。
(この話、御存じの方はスルー願います。)
その大阪局バージョンです。
東京局のリーフをコピペするだけで出来上がりなんですが、一箇所だけ異なります。
明治43年に「中央」局が再び出現します。
ただし制度上だけのことで、郵便日付印は「東京/大阪」の名称のままです。
電話業務用の日付印だけが「東京中央」に変わりました。
しかし大阪は変わらず丸二型の料金収納印のままです。何故だか分りません。
もうひとつ面白いのは、丸一ファンにはおなじみの横バーがたくさん(三本だけです)入った丸一電話印。
相も変らぬ穴だらけ品で恐縮ですが、普段から気を付けていれば一年ほどで完集できそうな ―いや、完集できてから言います。
【自己評】在庫を漁ればあるような気もするのですが、根気のいる作業なので遠慮しています。
(そういうズボラが収集を阻害するものであることは承知です…ハイ。)
次回からは大阪の支局(市内局)に移ります。
2015年8月22日土曜日
2015年8月20日木曜日
丸二型日付印 ‐ 大阪郵便電信局/大阪中央郵便局/大阪郵便局 (3) ― 日露戦争負傷兵救済葉書
前回の大層な議論を続けるなら、今日御覧いただくエンタもただの外郵到着印に過ぎません。
ただの到着印として扱うなら、わざわざ1リーフを割くほどのものではありません。
さらに、貴重な葉書であるがゆえにこんなところに貼るのは場違いとも思っています。
左様思いながらも敢えて丸二のリーフに貼っているのは、実は一昨年Delcampeで訳が分からないままに「珍しい葉書の着印」として$25.00で落とした代物だからです。
後で調べると、ロシア赤十字が日本の露軍俘虜の扱いに謝するため発行したものとか。
「関西郵趣」に連載された「日露戦争の俘虜郵便と、最も大きかった大阪地区の俘虜収容所」という大西二郎さんの労作を一冊にまとめた「日露戦争と大阪の俘虜収容所」から1ページ抜粋します。
※ 著者や発行元の転載許可をいただいておりません。
問題がありましたらすぐに削除しますので下記まで
御連絡をお願いします。
mich.yamada
(※アットマーク以下は、グーグルのメールです。)
青島の日独戦で収容した俘虜将兵は5千人ですが、日露戦争ではその14倍の将兵を国内に受け入れています。
葉書は、ロシア赤十字が知日派のベルギーを通じて発売したものです。
この論文に書かれているように俘虜の扱いに「感激」したのか、何か術数があったのか不明ですが、素直に謝意の表明とみて良いと思います。
ことほどさように、個人と個人との関係では残虐な大量殺戮など生ずるものではありません。
国家権力や偏狭なナショナリズムが介在することによってのみ「戦争」を生み出すのでしょう。
国家として感激したのであれば第二次大戦後のシベリヤ抑留は無かったはずです。スターリン一人が悪者であったわけでもなく、なべて個人を超越した国家”権力”のなせる業 ―。
俘虜への対応は「美談」ではありますが、戦争を美化する意思は毛頭ありませんので念のため。
先に「貴重な葉書」と書きましたが、ネット・オークションではあまり見かけないものの、今春にはジャパンさんがフロアで扱っておられました。
ただ、説明に困ったのか説明書きは「恤兵葉書」 ― 広義には正しいと思いますが…。
【自己評】場違いなリーフながら、これはこれで良いのかも。
エンタでの道草道楽はこの辺にして、次回は大阪局の丸二の最終のつもりです。
ただの到着印として扱うなら、わざわざ1リーフを割くほどのものではありません。
さらに、貴重な葉書であるがゆえにこんなところに貼るのは場違いとも思っています。
左様思いながらも敢えて丸二のリーフに貼っているのは、実は一昨年Delcampeで訳が分からないままに「珍しい葉書の着印」として$25.00で落とした代物だからです。
後で調べると、ロシア赤十字が日本の露軍俘虜の扱いに謝するため発行したものとか。
「関西郵趣」に連載された「日露戦争の俘虜郵便と、最も大きかった大阪地区の俘虜収容所」という大西二郎さんの労作を一冊にまとめた「日露戦争と大阪の俘虜収容所」から1ページ抜粋します。
※ 著者や発行元の転載許可をいただいておりません。
問題がありましたらすぐに削除しますので下記まで
御連絡をお願いします。
mich.yamada
(※アットマーク以下は、グーグルのメールです。)
青島の日独戦で収容した俘虜将兵は5千人ですが、日露戦争ではその14倍の将兵を国内に受け入れています。
葉書は、ロシア赤十字が知日派のベルギーを通じて発売したものです。
この論文に書かれているように俘虜の扱いに「感激」したのか、何か術数があったのか不明ですが、素直に謝意の表明とみて良いと思います。
ことほどさように、個人と個人との関係では残虐な大量殺戮など生ずるものではありません。
国家権力や偏狭なナショナリズムが介在することによってのみ「戦争」を生み出すのでしょう。
国家として感激したのであれば第二次大戦後のシベリヤ抑留は無かったはずです。スターリン一人が悪者であったわけでもなく、なべて個人を超越した国家”権力”のなせる業 ―。
俘虜への対応は「美談」ではありますが、戦争を美化する意思は毛頭ありませんので念のため。
先に「貴重な葉書」と書きましたが、ネット・オークションではあまり見かけないものの、今春にはジャパンさんがフロアで扱っておられました。
ただ、説明に困ったのか説明書きは「恤兵葉書」 ― 広義には正しいと思いますが…。
【自己評】場違いなリーフながら、これはこれで良いのかも。
エンタでの道草道楽はこの辺にして、次回は大阪局の丸二の最終のつもりです。
2015年8月18日火曜日
丸二型日付印 ‐ 大阪郵便電信局/大阪中央郵便局/大阪郵便局 (2)
前回御覧いただいた「大阪局の印軸の大きさの違い」を示すエンタが、たまたま手元にありました。
7.6分環と8分環と双方ともに当時流行した絵封筒です。並べてみました。
マルコフィリーをストイックに且つ厳密に追及するのであれば、本日のリーフは無用の長物であることは承知しています。
しかし私のような移り気の道草好きは、さようなストイシズムから見放された「縁なき衆生」。
もとより生粋の消印研究を否定するものではなく、むしろ憧れます。
トップクラスの郵趣家の方々がその道に没頭なさることを尊敬しますし、そういった発見と蓄積とが無ければ郵便史は暗黒のままです。
さらに、消印を展示すべきリーフに余計なものを差し挟むことは「何を言いたいのか」全く分からなくなってしまう危険性をも生むこととなります。
もちろん、テーマティクとして、「丸二型と日露戦争」といったようなカテゴリーで作品を作るなら別ですが、それはそれでマテリアルが不足しています。
結果として、とても中途半端で訴える力の弱いリーフ展開になることを承知の上で、個人的な興味のみを満たすリーフに甘んじています。
それでも、消印展示のリーフに、その時代の風俗やら何やらの片鱗を覗かせるのも悪くはない ― と手前勝手な解釈をしている次第です。
左のエンタは絵封筒と言いながら文字のみで、篆刻風に「帝國慈惠」「女學院」と書かれています。
調べると「不測ノ惨害二會ヒタル無辜ノ女兒」の教育・授産施設だったそうです。
ただ民間からの寄付のみで運営していたがためにすぐに頓挫して解散しました。
その後始末に現地で頑張っておられた良家の御内儀から旦那さんあてに出した手紙です。
多少不躾ながら冒頭だけを御覧いただきます。
やや薄墨ながら綺麗な良い筆跡(て)です。
でも、以前に東京局の年賀状についても書きましたが「新玉の年を」となっています。
このころにはこの表現が普通だったのでしょうか。
年末年始に旦那をほったらかして大阪に長逗留できるのは、女中さんがようけいてはるお家です。
宛先の武庫郡鳴尾村は、周辺の村々が反対する中、この手紙の年の2年後に阪神電鉄の誘致に成功します。
阪神電車も駅駅に郵便ポストを設けて逓送にも電車が一役買ったとか。
もう一通の方は、国会議員さんあてです。
由緒ある姓ながら大きな業績はあまり聞きません(失礼)。
中央交渉部という会派に属しておられたとか…。
むしろ絵封筒の方に興味が湧きます。
外側の薄紙を剥がしてスキャンしてみました。
日通マークはお馴染みながら、左側の二つの車型を調べましたが判らずじまい。
どうも内国通運愛用のEEマーク
の図案化のようです。
【自己評】本文に書きましたように、いつもながらの道草好きは我ながら悩ましい限りです。
それでも楽しいものは楽しい ― と開き直ってマルコフィリーでもなくテーマティクでもない中途半端なリーフ作りを続けています。
7.6分環と8分環と双方ともに当時流行した絵封筒です。並べてみました。
マルコフィリーをストイックに且つ厳密に追及するのであれば、本日のリーフは無用の長物であることは承知しています。
しかし私のような移り気の道草好きは、さようなストイシズムから見放された「縁なき衆生」。
もとより生粋の消印研究を否定するものではなく、むしろ憧れます。
トップクラスの郵趣家の方々がその道に没頭なさることを尊敬しますし、そういった発見と蓄積とが無ければ郵便史は暗黒のままです。
さらに、消印を展示すべきリーフに余計なものを差し挟むことは「何を言いたいのか」全く分からなくなってしまう危険性をも生むこととなります。
もちろん、テーマティクとして、「丸二型と日露戦争」といったようなカテゴリーで作品を作るなら別ですが、それはそれでマテリアルが不足しています。
結果として、とても中途半端で訴える力の弱いリーフ展開になることを承知の上で、個人的な興味のみを満たすリーフに甘んじています。
それでも、消印展示のリーフに、その時代の風俗やら何やらの片鱗を覗かせるのも悪くはない ― と手前勝手な解釈をしている次第です。
左のエンタは絵封筒と言いながら文字のみで、篆刻風に「帝國慈惠」「女學院」と書かれています。
調べると「不測ノ惨害二會ヒタル無辜ノ女兒」の教育・授産施設だったそうです。
ただ民間からの寄付のみで運営していたがためにすぐに頓挫して解散しました。
その後始末に現地で頑張っておられた良家の御内儀から旦那さんあてに出した手紙です。
多少不躾ながら冒頭だけを御覧いただきます。
やや薄墨ながら綺麗な良い筆跡(て)です。
でも、以前に東京局の年賀状についても書きましたが「新玉の年を」となっています。
このころにはこの表現が普通だったのでしょうか。
年末年始に旦那をほったらかして大阪に長逗留できるのは、女中さんがようけいてはるお家です。
宛先の武庫郡鳴尾村は、周辺の村々が反対する中、この手紙の年の2年後に阪神電鉄の誘致に成功します。
阪神電車も駅駅に郵便ポストを設けて逓送にも電車が一役買ったとか。
もう一通の方は、国会議員さんあてです。
由緒ある姓ながら大きな業績はあまり聞きません(失礼)。
中央交渉部という会派に属しておられたとか…。
むしろ絵封筒の方に興味が湧きます。
外側の薄紙を剥がしてスキャンしてみました。
日通マークはお馴染みながら、左側の二つの車型を調べましたが判らずじまい。
どうも内国通運愛用のEEマーク
の図案化のようです。
【自己評】本文に書きましたように、いつもながらの道草好きは我ながら悩ましい限りです。
それでも楽しいものは楽しい ― と開き直ってマルコフィリーでもなくテーマティクでもない中途半端なリーフ作りを続けています。
2015年8月16日日曜日
丸二型日付印 ‐ 大阪郵便電信局/大阪中央郵便局/大阪郵便局 (1)
暫くぶりの丸二です。
本日からは大阪とその支局(市内局)にお付き合い願います。
東京とその支局の印軸の大きさ別やら時刻表示の分数/小数の区分、日付表示の8駒型/3駒型などという面倒な作業から解放され一息つけます。
― と思ってリーフ作りを始めましたが、世の中は思いどおりに行かないのが常。
やっぱり大阪にも印軸の大きさに違いがありました。
東京の部で何度も書きましたが、大阪局でも
〇 初期のものは外径が7.6分=23.03mm
〇 その後に 8.0分=24.24mm
が現れます。
大阪に限っては、明治35年3月15日の公達第181號に拘わらず明治35年4月1日以前の使用例が見つかっておりません。
したがって、この公達の施行以前に姿を消した分数型/日付表示の8駒型はありません。
しかし印軸の大きさは何の定めも無く、担当者の裁量一存で決めることができたのでしょう。
何度も引用させていただいています本池論文(詳説)に「逓信博物館七十五年史」の引用があります。
丸二の製作に至る過程を孫引きします。
「浅草蔵前の高等工業学校、小石川橋の陸軍造兵厰、大阪造幣局等と協議を重ねた」
と書かれているそうです。
この記述だけでは印軸がいずれで作られたのか不明ですが、上記の複数箇所の製作である可能性もあります。
製作場所によって印軸の外径が異なっていたのでしょうか。
また、初期において印軸の活字以外の部分のみを大量に拵えておいて、活字部分は後から製作したのかも知れません。
或いは、本池さんが上述の論文で述べておられるように、大阪だけが予算の都合で使用開始が遅れたということであれば、東京の古い印軸を再使用した
……想像を逞しくすれば、さまざまなことが考えられます。
外径8.0分のものは、改正通信官署官制の施行時にようやく現れます。
(私の持っている最古データは明治36年12月25日です。)
さらに面倒なことに、官制改正以降(=「大阪郵便局」の時期)も7.6分環が見つかっています。
また、本池さんが東京とその支局に関しては相互間の結束時刻に由来すると看破された時刻表示についても、首をひねっておられます。
大阪とその支局の時刻表示に関しては、結束時刻との不一致があるそうです。
単純そうな大阪でも解明されていないことが多いのですが、リーフです。
【自己評】
使用開始初年度の時刻表示を一緒に並べてみました。(いつもながら穴だらけではありますが…)
現在見つかっているのは11種類(=11便)ですが、これでは一便少ないです。
「午前7時/午前7時30分」に「未見」と入れているのは未見だからですが、この直後の大阪中央郵便局の時代には、午前5時と午前7時とが見られます。
午前に3便だけというのは間尺に合いません。大阪中央と名前が変わったから頑張って一便増やしたというのも説明に無理があります。
山師みたいなリーフになってしまいましたが、ここは12便/日を前提にして一山当ててやろうと思っています。
もうひとつ、予算が単年度主義となっていますので、お金の要る仕事に関してはやはり暦年ではなく会計年度を基本に考えてゆくべきであろうと思っています。
東京以外は時刻表示ルール未解明だそうですが、とりあえずデータ作りは局別・年度別・時刻別でやっています。( ― 遅々として進みませんが)
本日からは大阪とその支局(市内局)にお付き合い願います。
東京とその支局の印軸の大きさ別やら時刻表示の分数/小数の区分、日付表示の8駒型/3駒型などという面倒な作業から解放され一息つけます。
― と思ってリーフ作りを始めましたが、世の中は思いどおりに行かないのが常。
やっぱり大阪にも印軸の大きさに違いがありました。
東京の部で何度も書きましたが、大阪局でも
〇 初期のものは外径が7.6分=23.03mm
〇 その後に 8.0分=24.24mm
が現れます。
大阪に限っては、明治35年3月15日の公達第181號に拘わらず明治35年4月1日以前の使用例が見つかっておりません。
したがって、この公達の施行以前に姿を消した分数型/日付表示の8駒型はありません。
しかし印軸の大きさは何の定めも無く、担当者の裁量一存で決めることができたのでしょう。
何度も引用させていただいています本池論文(詳説)に「逓信博物館七十五年史」の引用があります。
丸二の製作に至る過程を孫引きします。
「浅草蔵前の高等工業学校、小石川橋の陸軍造兵厰、大阪造幣局等と協議を重ねた」
と書かれているそうです。
この記述だけでは印軸がいずれで作られたのか不明ですが、上記の複数箇所の製作である可能性もあります。
製作場所によって印軸の外径が異なっていたのでしょうか。
また、初期において印軸の活字以外の部分のみを大量に拵えておいて、活字部分は後から製作したのかも知れません。
或いは、本池さんが上述の論文で述べておられるように、大阪だけが予算の都合で使用開始が遅れたということであれば、東京の古い印軸を再使用した
……想像を逞しくすれば、さまざまなことが考えられます。
外径8.0分のものは、改正通信官署官制の施行時にようやく現れます。
(私の持っている最古データは明治36年12月25日です。)
さらに面倒なことに、官制改正以降(=「大阪郵便局」の時期)も7.6分環が見つかっています。
また、本池さんが東京とその支局に関しては相互間の結束時刻に由来すると看破された時刻表示についても、首をひねっておられます。
大阪とその支局の時刻表示に関しては、結束時刻との不一致があるそうです。
単純そうな大阪でも解明されていないことが多いのですが、リーフです。
【自己評】
使用開始初年度の時刻表示を一緒に並べてみました。(いつもながら穴だらけではありますが…)
現在見つかっているのは11種類(=11便)ですが、これでは一便少ないです。
「午前7時/午前7時30分」に「未見」と入れているのは未見だからですが、この直後の大阪中央郵便局の時代には、午前5時と午前7時とが見られます。
午前に3便だけというのは間尺に合いません。大阪中央と名前が変わったから頑張って一便増やしたというのも説明に無理があります。
山師みたいなリーフになってしまいましたが、ここは12便/日を前提にして一山当ててやろうと思っています。
もうひとつ、予算が単年度主義となっていますので、お金の要る仕事に関してはやはり暦年ではなく会計年度を基本に考えてゆくべきであろうと思っています。
東京以外は時刻表示ルール未解明だそうですが、とりあえずデータ作りは局別・年度別・時刻別でやっています。( ― 遅々として進みませんが)
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