東京を引き継いだ習志野です。
表が縦方向に長いのはスペイン風邪の犠牲者が多いことも一因です。
5年弱の収容期間、1,000人規模の収容施設にしては変化の乏しい郵便物ばかりです。
収容初期の郵便です。淺草で使っていたゴム印一式を持っての引っ越しでした。もちろん職員も引っ越しです。
所管の衛戍は変わりますが、収容業務終了後は職員は原所属隊に復帰します。
習志野は俘虜解放後、大正9年4月1日にようやく残務処理を終え閉鎖します。
その時の職員の復帰一覧がアジ歴に残っています。
解放業務は多忙を極め、たくさんの応援部隊が必要だったようです。
後期の郵便に見られる検閲者印「岩崎」はこの表の中尉さんです。
大日本麥酒の絵葉書を見つけて、俘虜の労役先かと思いながら買った葉書ですが、この時期は習志野では所外通勤はなかったようです。
残念!と思いながら読んでみると、宛先はドイツ軍の部隊名。しかも住所の記載は一切ありません。
記録好きのお国柄 -早速調べるとすぐに見つかりました。
ただこの大隊、1914年に作戦行動で移動しますが名宛人が留守部隊なのか出征部隊なのか、いや留守部隊があったのかどうかも判りません。
米軍のAPO同様ドイツ軍もFeldpostnummerを持っているはずですが、記入がありません。
どうやって届いたのかさえ不思議です。
通信文は「お手紙ありがとう」みたいな内容ですので、名宛人は日本に手紙を差出すときに書いていなかったのでしょう。
宛名の敬称「Musketier」は公式の兵科や階級ではなく、"Privat" 同様二等兵ほどの意味合いのようです。
Muskete という旧式銃(日本でいえば三八式の前、村田銃みたいなもの)に由来しています。
逓送経路の推定は、すっきりまとまりました。
(内容に乏しい書き込みなのでスッキリ…)
リーフをプリントアウトしてから確認したら、喜望峰経由の欧州線所要日数は68日でした。
大正7年11月の休戦条約成立以降はいずこの収容所ものどかな雰囲気になっているようで、ルンプさん宛の年賀状です。
差出人が何者なのかちょっと梃子摺りました。なんと土管屋さん。雅邦と並び称される川端玉章の絵をお持ちだったようです。
そうなれば、稚拙ながらのびのびした雰囲気の年賀状の作者もきっと美術関係者。
確証はありませんが若き板倉鼎さんのようです。
掉尾は大正8年製と思われる俘虜製葉書。
葉書表面の「郵便はかき」「SDPDG」は名古屋製のものと同じです。
実はこの葉書、似島でも見つかっています。
強烈な印象のある葉書なので、どこかのネットオークションの画像だけを失敬して保存しておいたものです。
シラーの詩はドイツの教科書にたくさん掲載されているとのことですが、論語を理解している俘虜は多くいないと思います。
あるいはルンプさんが助言したのかもしれません。原画も尤もらしく作られており、中国や日本の絵画に通じて達者な絵を描ける人も多くはいなかったはずです。
【自己評価】
やはり習志野は、ルンプさんの稲毛海岸葉書がないと締まりません。人気があって値が張るのでドン引きしてしまいます。
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