「審査評」に対する反論ではなく、それを基に自分なりの総括を試みるための短文です。
某大臣のごとく「どのような意見もありがたく受け取る」立場は変わらず、他者から見た自分のコレクションに対する意見というのは得難いものがあります。
まず、講評者に対して敬意を込めてお礼を申し上げます。
頂いた講評は次のとおりです。
何となく「違和感」を覚えました。この展示はタイトルリーフ冒頭のとおり「経済活動としての為替史」を示そうとしたものですが、講評者の念頭には「郵便史=制度史」との発想があったのではないでしょうか。
これは正当で何ら非難されるべきでない考えであって、従来構築されてきた郵便史はほぼ制度史です。
制度は為政者(遞信省)の考えたシステム設計です。例えば郵便の逓送路や結束時刻・時間などがこれに該当します。
しかしこの展示は、郵便為替用紙の様式の変遷や外国為替との交換制度を追いかけたりするものではなく、その制度設計が利用された結果を(数値を含めて)できるだけ体系的に示してみようという試みです。
狭義の郵便史に例えるなら、郵便逓送路の確定ではなく各路線ごとの郵便物数の経年変化を統計史料で追跡する ーというような作業です。
したがって「郵便史の作品には見えない部分があります」という辛辣な意見も制度史の観点からならば頷けますが、出展者には居丈高で心無い講評と感じられます。
同じく、「多くのリーフが東京、大阪、京都、神戸(原文は神戸)と言った特定の地域の為替印の展示」との批判も為替の枚数・金額を含めた経済活動史との立場ならば1フレームを充てるのは当然の帰結であるはずです。
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再述しますが、これは講評者に対する展示者の身の程知らずの批判ではなく、展示方法や書き込みの稚拙さが生み出した誤解という展示者側の反省すべき事柄です。
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講評の「郵便史として、このテーマで展開するなら、明治8年に始まった為替制度の歴史の展開を中心に置き」との一文が、経済活動史を中心にしたものは郵便史にカテゴライズされないとの宣言のように聞こえます。
郵趣は科学・学問・学術ではなく所詮道楽の世界です(理論構築の手法は科学的でなければいけませんが)。科学でも旧来のカテゴリーはどんどん破砕されていくご時世です。須らく郵趣人たるもの、自由な発想を妨げないような配慮は学者以上に必要ではないでしょうか。
もうひとつ展示者として反省すべきは、第1・第2フレームが「単なる各地地誌のアキュムレーション」に堕していないかという点です。
これこそが最も恐れていた点です。せっかく第27リーフで各都市の為替超過額を棒グラフで示しているのですから、せめて全リーフを通じて「各該当県/全国」の為替量(枚数・金額)の円グラフを示すのは最低限必要だったとの想いがあります。
さらに言えば、前回投稿のGDEと密接につながる県ごとの年度末郵便貯金残高もです。
もとより金持県/貧乏県の判別ではありません。和歌山県を例に挙げます。
明治27年度和歌山の外国為替払渡超過額は2,624円=和歌山ミカンのGDE増加貢献額
同年度全国の外国為替払渡超過額は300,624円⇒和歌山ミカンのGDE増加貢献度は0.9%
リーフに書き込まなかったのは橋向町も久保町も未収だったからです。
全国統計では全くわからない地域ごとの特色が市や県単位に分けるといろいろと見えてきます。しかし上述の「地誌のアキュムレーション」だけでは物足りなく、為替の経済史らしくするのに苦心の途上です。県ごとのGDEや人口分布も考慮しなければ満足できるものにはなりそうもありません。
(それならサッサとやれよ ーとのお声はごもっともですが…)
講評はさらに続けて、
「郵便受取所時代の為替がどのような経済的役割を果たし、取扱、発展を遂げたのかという、為替関連のマテリアル中心の展開」
を要求しておられます。
世に行われている制度史的郵便史からの連想ではないかとも思われるセンテンスですが、為替式紙を何十枚か並べたところで何か主張できるというものでないことは第1・第2フレームを見ればわかることです。
為替取扱所の始まりは「年を追って急増する為替量のうち局で捌き切れない分の補助を民間に託した」ことに尽きます。受取所が単独で果たした経済的役割というものは存在しません。
なお季節開設の郵便電信取扱所は例外で、西ヨーロッパ・東アジア・北米とのリンク役を果たしています。
その為替量を局別・受取所別に振出・払渡が何枚何円/1時間で示せる県・市もあるし不明の県・市もあるという以上のことは残存史料では解明できません。ただ類推はできます。
受取所の発展というものもあり得ません。明治38年4月1日にすべて三等郵便局に収れんされてしまいます。(温泉・中宮祠は二等局)
もちろん講評者も「マテリアル的には難しい」と認識しておられますが、具体的に何を指しておられるのかこの講評文だけでは私には皆目見当がつきません。為替の経済史には統計史料の方が大切と思っています。
為替の経済史全体から見れば、第40リーフの戦時国債を郵便局で扱ったこと(證書送達)と手形交換所に為替が持ち込まれたこと(交換払)などは、今回の展示で自慢できることの一つです。数字を含めて示すことができました。
しかしこれも受取所単独で果たした役割ではありません。戦時国債に至っては受取所では取り扱っていません。
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結びに
偉そうなことをいろいろと書きましたが、もとを糾せば完成済みの縦書印マルコフィリーに飽き足らず、何か色を付けられないか ーという程度の代物です。
しかしマルコフィリーならばドヤ顔のできる品物をそろえたつもりです。
講評者もその辺は見抜いて、「消印はたくさん並んでいるが」との趣旨を述べておられます。
弁解ながら、タイトルリーフに書いたとおり「将来完成させるべき為替史の基礎資料/試論」ということでご理解賜ればと思っています。
文末ながらも講評者には改めてお礼を申し述べます。
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