ということで、息抜きリーフです。
絵葉書のディーデリッヒ碑文(Diederichsstein/迪特里希碑)は、清潔で美しい街並みを西側に見下ろす「信號山」(山頂の無線基地に因む名前)の中腹に据えられていました。
この碑文はいつまで存在していたか ―というのが謎のままのようです。
近年、中国の地元史家たちによって破壊後の碑文の文字の痕跡がいくつか現地で発見されています。
ドイツ語版のWikipediaでは、1922(大正11)年12月に破壊されて東京に持ち帰られた ―とありますが、根拠は不明確です。
探検家菅野力夫は1924(大正13)年3月後半に靑島を訪れ、碑文の前で記念写真を撮っています。
小川一眞写真館製の絵葉書まで残っています。
また、「青島満帆」という旧靑島在留邦人の方々のブログにも、以下のような記事があります。
※ 以下ブログの引用
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青島中学第4回生(大正13年、1924年卒業)斉藤昌司氏は、
「通学生は市街地から時計台の下の左手の崖に
ドイツ人の作った双頭の鷲の壁面彫刻を見ながら
先生の宿舎を左に見て魚山路のアカシアの疎林、
そして山道をたどって旭練兵場、
それを横切って校舎背面のだらだら坂にと、相当きつい距離だった。」
(青島日本中学校校史)
と書いています。
「通学生は市街地から時計台の下の左手の崖に
ドイツ人の作った双頭の鷲の壁面彫刻を見ながら
先生の宿舎を左に見て魚山路のアカシアの疎林、
そして山道をたどって旭練兵場、
それを横切って校舎背面のだらだら坂にと、相当きつい距離だった。」
(青島日本中学校校史)
と書いています。
つまり、ディーデリッヒ記念碑は1924年までは確かに存在していましたが、
それ以後の記録はばったり途絶えてしまいました。
------------------------------------それ以後の記録はばったり途絶えてしまいました。
1922(大正11)年に「山東懸案解決ニ關スル條約」が締結され、靑島が中国に返還されることになり、守備軍司令部は廃止され、軍事郵便も取扱が停止されました。
これに合わせて總領事館の開設やら靑島居留民團の設立やら、そこそこの権益を留保しながら形式上「返還」されています。
※ この4行、簡単に書いてしまいましたが、実際は複雑怪奇な国際情勢
が背後にあります。
1922年説はこの条約に基づく推測と思われますが、上記の二つの事実から、碑文の破壊は1924(大正13)年度ころと考えるのが順当なようです。
軍部が東京に持ち去ったのなら残骸は遊就館にあるのでは ―との疑念をお持ちの方も上掲の中国地元史家においでのようですが、遊就館は否定しています。
まさかとは思いますが、惇明府 ―いや、全く根拠のない憶測です。こんなことを書くと、どなたにどんな迷惑をお掛けするやら分かりませんので読み流し願います。
リーフの絵葉書は靑島ではなく大連消しなので迫力がイマイチですが、写真の彩色がきれいなのと平和4銭が貼ってあるのとで入手しました。
ただ、実際にこんな色であったかと言えば疑問です。Der Reichsadler=帝国の鷲も、残っている写真を見ると金色ではなく、むしろ黒色ではと思えます。
標準的な小ライヒスアドラーです。
現在のドイツ国章と同じく背景の方が金/黄色です。
日本軍によって加刻された「大正三年十一月七日」も、生前の墓碑みたいに朱が入れられていたのか今となっては判りません。
葉書の表書きにはもっと泣かされました。差出人のお名前が判読できません。しかも名字だけ。
「大分紡績」でググると、幸いにも川野彌五郎という方の名前が一緒にでてきました。
リーフには出していませんが、絵葉書の下二分の一には「病を得たので医師の勧めで航海に出て洋上療養している」みたいなことが書かれています。
こんな贅沢ができるのはこの人に違いない ―で断定しました。
漢字の偏と旁をひっくり返したり、上下に変えてしまうのは古代文書以来よく見られる書き方ですので、こんな画像まで作って書き込みのセンテンスの中に貼り付けました。
いろいろと楽しめたエンタです。
【自己評】
手に入れたときは「ヒカリモノ」として見とれていましたが、背後にあった戦争やら占領やら諸帝国の思惑渦巻く「和睦」 ―考えてしまうと、やっぱり鬱陶しいですな。
それでも、かつて存在した事実は受け止めて郵趣という道楽のネタに…。
【追記】(2017.10.17)
目ざとく「郵便ハガキ」はおかしいじゃないか ―と見つけられた方、
慧眼に感服します。
確かに、昭和8年の点付き楠公までは、官製はがきは「郵便はかき」ですし私製葉書もこれに倣って(郵便規則を遵守して)「はかき」としています。
しかし、横濱伊勢崎町にあったトンボ屋という絵葉書屋さんだけはロゴマーク的にリーフに貼りつけた画像のような「郵便ハガキ」という文字を使い続けていました。
しかも明治末から。(つまり1/3線時代から)
したがって、このロゴを見かけたらトンボ屋製とお考え下さい。