続いて第二フレームは北から順に地方都市を見ていきます。まず北海道です。
豐平の爲替取扱所は現存が危ぶまれる印影です。道の統計は郵便局業務に限っては年度単位で掲出しています。データを提供する札幌局が暦年に書き換えるのを拒否したようです。
リーフに示したように明治17年に開設されていた受取所が突然為替・貯金業務を開始しています。取扱量が小さいので多額の自己資金は必要なかったと思われますが、第7師団からの要望に従ったとしか思えません。
小樽の港町は、猪野氏が「褐色印を使用した唯一の受取所」として紹介されてます。しかし初期と後期の短い期間は黒色印です。
この港町と次の鶴岡町とはそれぞれの所管郵便局に対して地理的に相互補完的な役割を果たしていたようです。
東北です。
東北には受取所の取扱量を示すデータは見当たりません。どこかの県立図書館や東北大学あたりに未発表の統計書があるやもしれませんので、ご存じの方はご教示を。
奥野は受取所が明治19年、貯金預所が25年に開設され29年に為替を扱うと同時に浦町から奥野に改称されていますので、豐平とは異なり順当な事業拡張のようですがロケーションは悪く、局代替の受取所と考えられます。
靑森町編入前に、かつ市制施行前に「靑森市の奥野」を名乗るのは或いは事実上そのような位置づけが黙認されていたのかもしれませんが今となっては不明です。
岩手・山形は地理的に局と地域分担をしていたと思います。
万葉集の相聞に出てきそうな地名ではありますが、政宗公が徒歩武士の中の選抜メンバー(御名懸組)を住まわせた町とのことです。
秋田の上通町とともに地理的分担を担ったと考えています。
關八州に移ります。下野から。
宇都宮大工町のktは以前ずいぶん良い値で取引されていましたが今だと如何ほどでしょう。
宇都宮市為替取引の1/4を分担しています。値が張るのは為替量に由来するものではなく、半年弱という使用期間の短さに起因するものですが、振出の目的は不明です。
駅前通りの繁華街に位置していますので仕入れ商品の代金という推定はできますが、管轄する宇都宮局の払渡の大きさは何でしょう。宇都宮市は元宇都宮二荒山神社の門前町とのことですが、冥加金にしては規模が大きすぎ、大谷石細工やケヤキなどの引物・曲物にしても同様で県庁の歳入金かもしれません。
このリーフのもう一つのハイライトが古河鉱業の支配する足尾です。足尾局と赤倉とは扱い額が拮抗しています。
所名は「足尾赤倉」で一貫しているのですが縦書印は途中から足尾抜きの赤倉になっているのは、足尾局との対抗意識でしょうか。
足尾局が取集・配達の傍ら為替の取り纏めに通った道は鉱毒を流し続けた渡良瀬川沿いです。
常陸・上野です。
水戸の2箇所は、扱い額の規模から郊外地の局代替受取所のようです。リーフの馬口勞町郵電受取所は誤植で「36.3.31~」です。
下市・馬口勞町ともに縦書の郵電受取所が存在しているはずですが見たことがありません。前橋も市全体の扱い額が小さく、その分残存数も少ないものと思われます。
これに対して、前橋の立川は管轄局総量の1/4を担っています。宇都宮大工町と好一対で商店街に位置しているため扱い額も大きかったのですが、大工町同様使用期間の短さに由来する希少さがあります。
靜岡市はさし渡し2km四方ほどで、その中核地域はお城の南側一帯。ここに官庁街がありその周囲が繁華街です。
追手町が官庁街で、移転先の靜岡本通が繁華街です。税材規模も左程大きくは無く、円グラフに示したとおりです。書き込み漏れですが明治28年度の為替量で、靜岡局の為替単価に「千円」とあるのは「円」の誤植です。
振出・払渡ともに内容不明ですが、官公庁の歳出入金が少なからず含まれているのではないでしょうか。
リーフ下部の加納は残存量からみても局代替の受取所で、駅の南側は小さな集落に過ぎなかったようです。河原湊町も同様と思われますが郵電改定されているので、美濃紙の搬出には便利だったのでしょうか。これも現物がなく詳細不明です。
愛知県の為替量のうち半分ほどが名古屋市で、駅から東に延びる榮町を中心とした繁華街の石町受取所は名古屋局に対してかなりの部分を担い切ったと推測されます。
伊勢の特異形式を持つ両受取所は、従来「親局の名称をI欄に入れた」(猪野氏)と言われていたものです。
リーフの書き込みにあるように明治22年来旧山田町(外宮門前町)と宇治町(内宮門前町)とで合併の際の名称争いがありました。局は旧山田町に所在するためそのまま山田局となっていますが、旧山田町に所在する両受取所は旧町名を冠称したと考えた方が自然かと思います。なお、両受取所と山田局との為替分担比率は不明です。
リーフ下部の紀伊橋向町は見たことがありません。
日本海側に戻ります。加賀・越中ともに管轄局為替総量の1/3程度を担っています。北前船航路の要衝で古くから栄えていた場所です。
越前越後
越前福井の尾上町爲替取扱所はユニーク品です。
越後新潟の本町も難物ですが、これは新潟市の中心部が本土から信濃川で切り離されたような格好になっていてある種の小規模なアウタルキー経済圏を構成していたことに起因すると思われます。
北越鉄道の駅も信濃川の左岸には作られず、当初は沼垂どまりで鉄道会社監査役だった澁澤榮一氏は抗議のため辞任。市民も爆弾騒ぎまで起こして抗議という経緯もあります。
山陰・周防です。
因幡鳥取の立川町は古くは武家屋敷の混在する町人町であったらしく、その位置から郊外の局代替受取所と考えてよさそうですが残存量があり、商業の繁栄ぶりが覗えます。
出雲松江市は宍道湖から中海に流れる大橋川と天神川とを跨いで三分されていますが、いずれにも「本町」があり北から末次本町・本町・雜賀本町だそうです。
本町(末次本町)は官庁街で市内為替の1/6を分担しています。
安藝・備前
京橋町の移転改称後の2受取所は、地元の収集家も見たことがないとのことです。
岡山の東中島町はリーフ書き込みどおり遊郭の中です。市内を流れる旭川の中洲にできた歓楽街。
四国に移ります。德島通町は繁華街に位置する繁盛した受取所。松山の紙屋町もそれなりの繁華街のはずですが、ktは見かけません。
高知農人町は大正末期まで鉄道がなく船舶輸送に依存した土地柄故、船舶が遡上した鏡川河口に位置するだけあって印影の残存も豊富です。
福岡は、海沿いに細長く伸びた形状のため受取所が活躍しています。やはり歴史を誇る博多地区の中石堂町の取扱量が目立ちます。
熊本坪井町は官庁街。水前寺公園に移築され熊本地震で全壊したジェーンズ邸の元の場所がこの坪井町のお隣です。
鹿兒島泉町は為替単価が恐ろしく大きい特異な存在です。
長崎本博多町は残存量こそ豊富ですが、謎に包まれています。市内の逓送経路は
① 長崎港から荷揚げされた郵便・長崎駅に到着した郵便(東京等他局からの局業務連
絡書文書を含む)は長崎局が受け取ります。
② 長崎局は、駅に行く途中本博多町支局を通ります。
このとき、
長崎局は本博多町支局宛の行嚢を持参します。(長崎局→本博多支局の片便)
同時に駅までの受渡便でもあります。
③ 駅で行嚢の受渡を行いますが、このとき駅駐在の局係員が本博多支局あての
行嚢を別途拵えます。
④ 長崎局は帰途も本博多支局に立ち寄り支局宛の行嚢を渡し、併せて支局→長崎局
の行嚢を受け取ったうえ長崎局に帰着します。(本博多支局→長崎局の片便)
長崎局は市内の南端に位置し、本博多支局は市内中心部です。扱い郵便量や為替量はそのほとんどが本博多支局のはずです。(局別史料が残っていませんが容易に推測できます)
支局廃止は市内の集配が全て長崎局の仕事になりますが、支局存続期と同様の受渡便経路を取ったかどうかは不明です。
それはともかく、市中心部での支局廃止というのは利用者、(官尊民卑の時代なら)とりわけ県庁などに大きな負担となります。
そこで受取所の登場となりますが、そもそも支局廃止の理由が不明です。
リーフ書き込みのとおり支局長定数管理の都合と推測しています。支局長級(=二等局長クラス)は身分職でいえば「書記」ですが、明治26年にその定数が1,801人と定められています。
定数は人件費の予算管理のために定められるものですが、廃止の翌年度に二等局は4局の純増になっています。
郵便・為替・電信事業が一般会計に属していたこの時期では、人件費を身軽に増減することができず、最も減らしやすい長崎が狙われたと思われます。
1郵電局+1支局体制は支局の郵便夫と局員とを本局に異動させるだけで不都合なく体制の変更ができます。
ただ局の利用者が困るだけで、本省は「そんなものは一等局たる長崎局で考えてくれ」で済みます。
困った長崎局が出した名案が「郵便受取所新設」です。民間の自発的な開設ではなく、局の意向が強く働いた解説と考えるのが妥当です。
見てきたような解説ですが、以上のように考えるとすっきりと説明できますので自信をもって書いています。
第二フレーム末尾は穴埋め数字合わせのリーフですが絵葉書で地方の市街が題材になるのは(日光や鎌倉大仏などを除いて)ほとんどの場合明治39年以降です。
この展示対象とした時期とは10年ほどの差がありますが、繁華街や市のメインストリートの雰囲気はあまり変わらないと思いますので、受取所から改定された三等局の佇まいを鑑賞いただければ幸いです。