私も一時は、同じようなことを考えていました。
しかし、これらの一連の出来事を恰も美談のごとく扱うのはいかがなものでしょうか。
俘虜の扱いは板東のような例ばかりではありません。
吹浦忠正先生の「捕虜たちの日露戦争」を読んで考えさせられました。
日露=日独両戦争を通じて、
「俘虜となるのは武士の恥辱、死ぬ方が潔い」⇔「俘虜もハーグ条約で定められた兵の勤務の一形態、命は大切」
両方の考えが消えたり現れたりしながら日本社会が進んでいきます。
私の良く利用する資料では(後のノモンハン敗戦将軍)植田謙吉少佐の「收容所視察報告」は前者の代表格でしょう。
むしろ、この人の考えが支配的だったのではないかしらと思わざるを得ません。
それに記憶遺産になんかなったら、絵葉書を落札するのに文化庁の許可が要るなどというのは願い下げです。
愚にもつかない話から始めてしまいましたが、今日は靜岡収容所の絵葉書を見ていただきます。
靜岡は珍しく小規模の収容所です。
この市には日独戦の10年前、日露戦の時も収容所が設置されました。
当時の知事の収容所誘致嘆願書が残っています。
靜岡の聯隊が出兵したが、戦争で特産品の漆器が輸出できず大水害もあったので景気振興のため収容所を設置してくれ ―という手紙です。
ロシア俘虜同様にさんざん金を遣ってくれると思い込んでいたのでしょう。
私の住まいの近くの某メトロポリスでも未だに「インバウンド景気」に浮かれた愚挙が毎日…。
今日の主役 Unteroffizier Hans Marfuke (Gef.-Nr.1762) マルフケ伍長さん、実は収容換された習志野では大活躍 ―演劇好きで監督やら演出、主演までこなした方です。
伍長ではありますすが、戦闘部隊ではなく事務屋さんに近いポジションにいてはったみたいです。
靑島在住時代は一介のサラリーマン。お付き合いしていたロシアの音楽家女性と後に結婚、お子さんもお二人 ―とのことです。
靜岡收容所全体を見れば、脱走劇のオンパレード。脱走失敗の常習犯やら見事に故国に帰着した者やら。
そういう方面ではとても賑やかだったようです。
収容所の建物は他所と同様、既存建物を色々と工夫して使用しました。
ひとつは赤十字靜岡支社。
詳しく調べると「附属舎」となっています。記録によっては看護婦寄宿舎とも看護学校とも書かれています。收容所使用直前は寄宿舎だった ―が正解みたいです。
もうひとつは調べるのに難儀しました。「恤兵團授産所」。
第34聯隊の組織の一部と思っていたたら大間違いでした。
日露戦争出征兵の家族で生活に困った人たちを対象にした民間の慈恵団体。
縫い工場の写真を根性で見つけてやりました。
明治40年に内務省が広報用に発行した写真集です。
当時の内務省も日露戦争後の民間の憤懣慰撫のためにあの手この手の工夫をされてたのでしょう。
団の本部は鷹匠町1丁目70ですが「Annex」と書かれた縫い工場は所在不明です。
リーフに書き込みましたが、脱走成功者のHeinrich Unkel さんの逃走経路は
「第2収容所南東方向にある傳馬町の田圃の中」
との記録がありますのでリーフの地図でほぼ正解と思っています。
或いは、同じ1丁目でも静鉄の北側の可能性は残ります。
同じ大正期と思われる住宅地図もネットで拾っています。
もう一つヒントになる資料があります。
第2收容所を撤廃して第1收容所に合併させるときの文書です。
「加藤岩藏所有元恤兵團工塲」だそうです。
幸いにも「靜岡市地主名鑑」(大正5年3月帝國興信所刊)というのがありましたが、加藤岩藏さんという方は鷹匠町には土地を持っていないことになっていました。
建物の大きさは、写真で見ると桁行方向で12間くらいありそうです。
Rüfer=Rungas本には"in einer ehemaligen Mädchenschule mit nur 130qm"とあります。
間口方向に3間半程とすると約139㎡で丁度計算が合います。
1枚目のリーフには熊本と同様、俘虜の出入り表を書き込みましたが計算が合いません。
習志野に収容換された人数の記録=106人は一人少ないのです。
もうひとつ、いわゆる「長老将校」となった方のお名前も判らず仕舞です。いっちゃん偉い人は大尉で2名ですが…。
2枚目のリーフはシンプルなものになりました。筆記体が少しだけ読めるようになりましたが最後の2行が全くお手上げです。
どなたかお教えいただけるとありがたいです。
差出人も読み方不明 ―随分丁寧な書き方ですので、かつての部下だった人かなくらいしか分りません。
【自己評】
あまり書くことがありませんでしたので、絵葉書の発売者も調べました。実際にドイツ人日本人を問わず評判がよく、重宝されたお店だったようです。