何か考えがまとまる都度、それをリーフで表現する場にしたい ― 思いどおりには計行きしません。
先ごろのジャパンオークションで丸二のロットを落としました。おかげさまで大阪の丸二が少し纏まりましたので、今までの蓄積分と合わせて年月日順にプロットしてみました。
私の所持分だけでは当然足りないので、いつもお世話になっている本池さんの教科書やデジタルデータも併せています。
赤字が所持していないもの。
黒字が所持品です。
いきなり「神武天皇祭」などという文字が目に入ると思いますが、私は右翼ではありません。
(どちらかといえばleft sideデス)
配達等の業務に関係のありそうな、日祭日・正月の一週間(=配達回数半減期間)・暑中配達省減期間を色を変えて表示しているだけです。
Googleさんは大きい画像は原寸で表示してくれません。
仕方なく年別に分けて掲載しますので、頭の中で繋げてください。
36年分です。
37年分
38年分
データ整理だけで終わらせるつもりだったのですが、やってみると面白かったので12便/日の構成を推定してみることにしました。
全データをプロットして、変化のあった直近の二つを⇔で結びます。
35年後半から36年前半にいくつも縦の⇔ができました。
大阪のデータの残存数は少ないので、1年くらいのレンジは当然覚悟の上です。
この変化は集中してごく短い期間に生じたと見るほうが合理的です。
そこで、すべての矢印の共通する期間をチョイスしました。
この短い期間に大きな変化が生じたはずです。
以下、同様にして調べたものが1枚目のリーフ上段の表です。
迷った点が二つありました。
〇 早朝と深夜(午前5時や午後9時台ですが)についてはいくつもの便が出現するが、すべて配達があったのか。
〇 日中でも、20~30分の間隔で異なる便号が存在する。どう考えるべきか。
迷ったら原点に立ち帰ります。
丸一の便号は、取集便ではなく配達便の順序を表示することと定められています。
しかし、本池さんの御努力のおかげで東京局は逓送便の便号と解明されています。
では、大阪は。
結論(推論であり仮説ですが)は、引受郵便物を処理する締切り時間の数と考えるのが妥当なようです。
明治33年9月制定の郵便取扱規程です。
取集便と配達・差立便とを対立概念として扱っています。
成程、言われてみれば原料仕入れと製造工程みたいな関係です。
郵便函や受取所からの取集、他局からの行嚢などが仕入れ。
これらに引受印やら到着印を押印して、自局配達分は区分け、他局配達分は行嚢に詰めて差立て ― これが製造工程に該当します。
「成程」と自分で勝手に納得しています。
さすれば、東京局の丸二の便号の扱いもむべなるかな ― 配達便号のはずが逓送便号だったのはコインの裏表。
(大掴みには正しい理解と思いますが、本池さんご指摘の着印の便号体系が別に存在するという通信官署官制以降の問題は未解決のままです。)
色々考えて、同じ郵便取扱規程の次の条文が目につきました。
もう一つ、櫛型の時代に入ってしまった後、明治42年刊ですが「通信要録」という一般向けの詳細なガイドブックがあります。
東京郵便局長で法学士の坂野という人が書いた本です。
小包についての記述です。
東京郵便局長は奏任官でとてもエラい人ですので、多分局内の各部署担当責任者に書かせたのでしょうが、それだけにリアルで信憑性があります。
これらに目を通して後に思いついたのですが、局に到来した郵便物の処理が完了する時刻を全郵便物で同一にするのではなく、締切時刻を統一したのではないか ― という考えです。
上記の規程にもあるように、通常郵便より小包郵便の方が処理に時間がかかるようです。
その時間差は、小包と通常便との個数比によります。
大阪局の場合、その差が20~30分だったのでしょう。
当然推測の域を出ません。
実証するには、同日かごく接近した日の通常便・小包便のエンタが必要です。
通常便は書留が望ましい。 ―書留も通常便と同じ時刻に締め切られ消印されたことを示すために― です。
書留はどうにでもなりますが、小包送票は大阪ではむつかしそうです。
包装は ―布であれ紙であれ、ボロボロになるまできちんと再利用されています。
小包受領証なら何とかなりそうですが本池さんの本の表紙の写真しか見たことがありません。
せめて書留料金を超える15銭以上の切手に20~30分後の時刻が表示されていることを示せば傍証にはなります。
さて、もう一つの課題。 深夜・早朝便です。
これも、「逓信法規類纂」(郵便編―明治34年12月現行版)からの引用ですが、
丸一便号の使用法についての照復です。
一日の最初の取集便より配達便の方を早く始めているので、(配達便に一致させる日付印の便号は)イ便取集便の検印にロ便の消印を使うのは変だ。何とかしてくれ ― との趣旨ですが一蹴されています。
興味を引くのは、神戸=新橋間直通列車が夜間に京阪神に到着するという話です。
調べてみました。
成程、丸一鉄郵の東京神戸間は上り下りともに「五便」まであります。
京都局の言う「下り大線」で運ばれてくる東京からの行嚢は21時ころに到着。区分けして配達するのは翌朝早くでしょう。
大阪ではどうなるか。
2枚目のリーフで、こじつけを交えながら 支局(代表に大阪局から最も近い天滿局)=大阪局=「梅田のステンション」を並べてどの便号(時刻表示)が使われるべきか考えて作ってみました。
しかし、これも切手コレクションであるからには実物のエンタがないと意味はありません。
何年かのうちに入手できればまたお知らせします。
「予言が当たったゾ」と鼻高々に ―。
上のリーフでは各時期の頭と尻が不確かなので、合計12便/日という確実な結論が出せません。
ただ一つ、普通便と小包便との時間差というもっともらしい推論だけは自信があります。
暑中の配達省減期というのは、毎年7/11~9/10の間炎天下の配達を回避するために配達回数を減らしてもよいよ ― というお触書で明治23年公達第270號です。
当然午後1時台の配達時刻が間引きの対象になったと思っています。
配達夫は体力維持のため、昼食後の短い午睡に利用したのではないでしょうか。
それにしても、通年で手に入れにくいのは何故なんでしょう。
もしかしたら、別配達が有るときだけの配達便でしょうか。
1日の全部の便を眺めると、朝・昼・夕の食事に充てた時間らしきものが何となく浮かび上がってきます。
(直前の便との時間差が1時間半ほどの便のことです)
或いは、「后0」というのが書留や別配達などの特別の便かもしれません。残存数も少なく、リーフに貼った10銭切手も書留エンタからわざわざ剥がしたものです。
次のリーフも、肝心の部分については結局判らず仕舞いです。
早朝の3~5便の関係が全く掴めません。
【自己評】
精進の甲斐あって、時刻のバラエティーはかなり埋まりました。
次は、これらの推論のどれか一つでも実証できるエンタを探すことです。
楽しみが増えました。
同時に、ここまでいじくりまわして調べまくったのも初めてのことです。
先達の御苦労のかずかず、末座を汚すものとしてそれらの片りんでも味わえたなら幸甚ではあります。
明治の時刻表を調べたい方へ;
旧近デジに資料が豊富ですが、「時刻表」や「列車」ではヒットしません。
それぞれ「時間表」「汽車」に変えていただくといくつか見つかります。
あとは、「旅行」や「(地名や地方名) 案内」なども有効です。
地方の図書館でも「明治大正時刻表―復刻版」(1998刊 第1巻から第10巻+1冊あります)を所蔵しているところもあります。
私はまだ見ていません。