ようやくお水取りが始まり、時々立ち消えのする書斎のエアコンと付き合うのもあと僅かとなりました。
手元にある幾十枚かの俘虜絵葉書の中から熊本を選んで挑戦してみました。
アジ歴に熊本收容所の日誌が残っていますので全容の概略はわかりますが、細かいところはまだ調査が要るようです。
従来からの解説書に書かれているようにいくつかのエリアに分けて収容したのですが、「京町」という地区も散見されます。
收容所の日誌でも最初の計画には入っています。
往生院と光永寺とが候補として挙げられています。西南戦争でも政府軍の宿舎となり、柱に弾跡が残っている ― とネットでの聞きかじり…
しかし、以降の日誌には一切登場しませんので、多分実際には使われなかったのでしょう。
細工町收容所には西光寺・阿彌陀寺以外に「光惠寺/光善寺」があると書かれている教科書もありますが「光永寺」の誤りかと思われます。
千反畑收容所は将校宿舎と本部事務所とが置かれた場所ですが、将校宿舎だけが特定できました。
将校用の「物産館集議所」は元熊本洋學校教師であったL.L.ジェーンズ邸。国会図書館資料で見ると当時は貸し会場として運営されていたようです。
1970年水前寺公園に移築され、昨年の熊本地震本震で倒壊とこのと。
移築後の姿ですが、瀟洒な建物だけに惜しいです。
この建物に将校56名は詰め込みすぎではと心配します。
分からないのが将校従卒の宿舎に充てられた「米穀檢査所」。当時の熊本の案内書には物産館にあると書かれています。
また、本部事務所に充てられた「縣農會事務所」も同様で物産館内。
しかしこの千反畑(正しくは南千反畑町)地区は公共施設エリアでいくつもの公共施設が様々に使い廻されてきた経過があります。
ですので、本館内とは限らず集議所以外にも別館があったかもしれないのです。
もう少し調べれば判明するかもしれません。
施設の使い廻しは短い収容期間にも起こっていて、坪井郵便局が移築されるので収容場所を変更し縣會議塲に移動したと日誌に書かれています。
一見関係がなさそうですが、多分この施設をあそこへ、あの施設をどこへ ― という玉突きがあったのでしょう。
リーフの画像ではわかりずらいので、拡大図です。
縦書丸一収集家を悩ませ続ける、あの「熊本坪井郵便局」(旧称熊本坪井郵便電信支局)のことだけに気になります。
実際に、大正15年のナントカ共進会会場図には坪井局の位置が上図の移転後の場所に描かれていました。
以前にもブログに書きましたが、1枚のリーフに地図やら絵葉書の裏やらと収め切るのはかなり無理があります。
将来はもう少し熊本エンタを手に入れることを見越して地図だけのリーフも作ってみました。
学部の卒業論文レベルまでは達していなくても、高校生のレポートくらいの水準は超えていると自負しています。
さてエンタのリーフです。
差出人は、Johann Gerlich とおっしゃる海軍の2等火夫さん。(Gef. -Nr. 3346)
一緒に収容されていたお友達の火夫が大分に収容換されて一人ぼっちになりました。
そこへ大分から届いたイースターの挨拶状 ― よほど懐かしかったと見えて大喜びで返事を書いたはります。
胸を張って、「戦友ヨハンより」(Kriegskamerad Johann)
同室収容であろう二人の名前も並べて「よろしく伝えて」みたいなことをごちゃごちゃと。
したがって、1枚の絵葉書に俘虜兵が4人も登場しているお買い得品でした。
Herrnを冠せずHeizer(3格も同形)と書いたものは初めて見ました。
陸軍で言えば輜重輸卒同等の僅かな尊敬しか得られなかったであろう2等火夫という仕事にこの二人は大きなプライドやら仲間意識を感じていたのでしょう。
それとも、ただの社交儀礼の挨拶葉書…。
郵趣上の見地から問題になるのは検閲印です。
初期には「檢閲濟」と縦に書かれた朱印が使われたようですが未収です。
面白いのは検閲者の印。
渡邉さんは所長の次に偉い人で「渡勉」のハンコもあるようです。
武藤印は書記。
日誌には「本部事務所に書記を二人置く」とあり、両名の事務分掌まで定めています。(日誌11月20日)
うち一人が俘虜郵便に関することを担当することとなっており、これが武藤さんと思われます。
「横」字は横手收容所、「細」は細工町です。
「細」字は吉田景保さんの訳本に写真がありました。(p44)
SDPDG印はとても面白い特徴があって、
①「Sce DE SPRISON…」としか読めないこと
②「PRISONNIERS」の「I」が小文字「i」の形になっていること
です。
後者の特徴は、手書き文字にはしばしば見られる読み違い防止策ですが…。
絵葉書の裏は墺洪兵を収容した妙永寺。
ネットで調べて知りましたが、加藤淸正のお母さんの廟所だそうです。
山門右の石碑、刻字の上に紋が二つ並んでいますが左が淸正公の蛇の目紋。右は判然としません。
【自己評】
エンタをしゃぶり尽くす快感が味わえました。
ついでながら、フォントの活用も。武藤さんによって鉛筆書きされたであろう「大分」の文字は「恋文ペン字」というフォントです。とても便利です。